「性同一性障害の治療について知っていることはありますか?」
知っていること。
性別適合手術やホルモン療法のことだろうか。他にはどんな治療があるのだろう。
私のような女性へ性別移行する人間で思いつくことといったら、あとは豊胸手術や美容整形、脱毛くらいだ。それ以外の治療ってなんだろう。
「性同一性障害の治療というのは、手術やホルモン療法だけじゃないんですよ。実はこういった直接的に身体に手を入れる治療以外の部分が非常に重要なんです」
身体に手を入れる治療以外。
心か。
「簡単にいうとね、性別違和を抱えて生きてきたということは、自分の心の性別、本来の自分の性別だと思っている性に変わりたいわけです。でも実際にそこへ到達するためには、単純に体が変わるだけでなく、その性別で社会に適応する必要がある。こう考えるとわかりやすいんだけど、人ってその人がどういう人かを判別する時、まずは見た目からですよね?例えば、今の私を見た人は、白衣を来た男性医師と認識する。別に私が自分で“男性医師です”って言って回ってるわけじゃない。見た目で判断されるわけです。じゃあ性同一性障害の人が自認性別の容姿で社会生活を送る時、性別移行してすぐは別として、私は女性です、男性ですって言いながら生活しているか。そんなわけないですよね。自認している性別の容姿をして、生まれながらの性別で存在している人たちと同じようにその性別として存在していく。特別扱いなどではなく、ごく普通にね」
そうか、そういうことか。
私は自分の心が女性であると認識している。それはもちろん男としての自分が存在していることを認識しながらも、性格や性質、趣味嗜好、社会の上での役割などが女性的であり、自分の心が女性であると感じているからこそ、今こうして性別移行を進めようとしている。
生まれつき女性だったら良かったのにと思っているからこそ、ここで女性になろうとしているのだ。
実際に女性になれたとしたら、元男で今は女性になりましたと言って生活することを望んでいるわけじゃない。普通の女性と同じように振る舞い、そう周りからも認識されて、普通に過ごしたいだけだ。
それも治療の一環として含まれる、そういうことなのだ。
「そうです、そこが大事なんですよ。見た目はホルモン療法を開始すれば、徐々にですが数年かけて女性化していきます。既に成長した骨格は変化しませんが、胸は膨らみ、顔つきや目つき、体つきも、脂肪のつき方が変わっていくので女性らしくなっていきます。肌や髪質も変わります。髭は生えなくなるわけではないですが、伸び方が遅くなり、毛質も変わる。体臭も変わる。さらに脳も変化していきます。人によっては、空間認識脳力は下がっていき、競争心などの男性的特徴も下がり、逆に女性の特性として感情的になったり涙脆くなったりする。性ホルモンが身体に及ぼす影響というのは強力なものなんです。でもこれはあくまでもホルモンの効果。その人が元々持っている性格や性質が変わるわけじゃない」
性ホルモンの影響力、効果は凄いと聞いていたが、具体的に説明されると少し怖くなる。でも自分が選んだことなのだ。しっかり認識して、自分が望む方向へ進まなければならない。
「性別違和を抱えている人は、その時点で反対の性別の特徴を正確や性質として持っていますよね。あなたもそうでしょう。でも、それまで生きてきた中で、その性自認として生きてきたわけじゃない。どんなに反対の性別に同調し、同化していたとしても、それまでの生物学的な性別として生きてきた環境とそこでの振る舞いは必ずあるんですよ。そこを変える必要があるんです。具体的には、性別移行する人は、喋り方や発声、歩き方、仕種、そういうところを移行する性別に合わせていく必要があります。これがうまくいかないと、実際に移行後の性別で生活をする上で、不自然に映ってしまうわけです」
そうか、それも治療として考えていく必要があるわけだ。
「仮に見た目が完全に女性に移行できていて、誰が見ても普通の女性として認識されるようになったとして、足を開いて座っていたり、脇を開けて大ぶりな仕種をしていたら、男っぽい人に見えるでしょ?元が男であれば、それは周りからの認識でも男に見える。女装した男に見えるわけです。これを望むわけないですよね。ボーイッシュな女性や、女の子みたいな男の人、そんな程度には見えないんですよ。元の性別が出てくるんです」
話し方や歩き方、仕種、そういうものも病院で治療の一環としてやっていくのだろうか。
「ちょっと不安になりますよね、ここだけ聞くと。でも安心してくださいね。性同一性障害の診断が確定すればホルモン療法や性別適合手術ができるようになります。性別適合手術まで完了していれば戸籍上の性別を変更することも可能になり、完全に女性として社会に存在できるようになります。でもね、その前にもう一段階できることがあるんです。これが実はとても大きいこと。それが戸籍上の名前なんです」
戸籍上の名前を女性名に変更するのはそういう意味もあるのだ。
先生が今説明していることの意図と、名前の変更をするその意味の全容が見えてきた。
「戸籍名を変更したら自分の気持ち的にも凄く楽になると思っているんです」
「うん、そうですよね。特にこれから女性化を進めていくわけですから、それこそ見た目が完全に女性になったとしても、病院でフルネームを呼ばれる時に男性名だったら、好奇の目に曝されかねない。これは苦痛です。名前が自認性別にあったものに変わると、自覚が大きく変わります。自然と喋り方や仕種、振る舞いもその性別に合ったものに変わっていく人が多いんですよ。ただ、じゃあそれで充分かと言ったらそうじゃない。だから治療の一つとしてそこを身につけていく必要があるんですね」
「先生、それはこの病院で治療としてやっていくんですか?」
「まずはカウンセリングでその辺のことも話していくのですが、これはご自身で学んでいくものなので、意識して周りの女性を観察したり、仕種を真似たりしていくということも必要ですよ。もちろん、病院も協力しますし、最近は発声や仕種を教えてくれる専門のカウンセリングルームもありますからね」
専門のカウンセリングルームもあるのか。それだけ性同一性障害の人が増えてきているということなのだろうか。行くかどうかは別として、どんなところなのか知っておきたい。
「今日はこの辺にしましょう。この後はカウンセリングですよね。さっきも言いましたけど、私とは未来について、カウンセリングでは過去についてを話していきます。客観的に自分と向き合うことってなかなかないものです。単に性同一性障害の治療の一環としてだけでなく、これまで抱えてきたいろいろな想いや葛藤、悩みや苦しみ、そういったものを解消していく機会になるかもしれませんので、しっかり向き合ってみてくださいね」
ロビーのソファへ戻る。
先に診察室を出た彼女が、飲んでいたミルクティーを差し出して微笑んでくれた。
次はカウンセリングだ。
三回目のカウンセリング。
今回は少し先のこと、小学生の頃の様子を話すように言われている。
気が重い。でも話すことで自分から切り離すことができるような気がしていた。
一つひとつ越えていく。
これまでの人生を全て覆すようなことではないかもしれないが、振り返らずに進んできた道を反芻するのだ。不安にもなるが、その先に、乗り越えたその先にある新しい自分の人生を描かなければならない。
記憶を巡らせている私の手を優しく握る彼女の手があたたかい。
今この時を乗り越えるために、深い静寂へ入っていった。