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「相撲は国技」江見水蔭

2019-05-12 07:53:49 | ブックレビュー
 先日、NHKの「日本人のおなまえっ!」で「相撲が国技と呼ばれるワケ」をやっていた。番組では、当時の尾車親方が“ある人物”が書いた一文からヒントを得て“国技館”と名付けたとしていたが、その際チラッと顔写真が映ったその一文の主こそ、明治から大正時代にかけて活躍した江見水蔭という作家なのだ。



 江見は作家活動以外にも、“国技”と書いたほどの相撲フリーク、探検冒険ジャーナリストの先駆け、実際に遺跡を発掘した考古学マニアなどとしても知られ、元祖マルチタレントとも呼ぶべき多彩な活動をしたユニークな人物だが、残念ながら今はほとんど語られることがない。

 だが、幾度も挫折を経験しながら、そのたびに新たな生き方や楽しみを見つけ、さまざまな方面で活躍した彼の人生は小説さながらの面白さがある。以前、住んでいた品川に、その昔彼も住んでいたことを知り、興味を持って調べるうちに、彼の評伝が書きたくなって売り込んだことがあったが、残念ながら実現しなかった。

 江見の父は勤皇の志士だったが若くして死去。母に育てられた彼は岡山から上京し、軍人を志願するが挫折し、日本漫遊の旅に出る。その後、作家志望に転向し、純文学作家となるがここでも挫折し、通俗小説で売れっ子作家になる。推理、冒険、探検記、SF、時代もの、戯曲など作品数は2000以上に上り、明治時代の小説発表数ではダントツを誇るが、生活のために書き散らした感は否めない。

 ところで、江見は記者、ルポライター、趣味人としての顔も持つ。自宅に江見部屋を創設して相撲を取ったり、登山、探検の実地ルポ、遺跡の発掘にも力を注いだ。中には、日原鍾乳洞探検(民間の探検隊としては史上初だったが、5メートル近く下に転落)、富士山頂相撲(下山途中で嘔吐)、雪中富士登山(途中で挫折)と、どこかユーモラスな失敗談もある。

 後年は、新聞社や雑誌社に主筆として迎えられるがどれも長続きせず、結局作家としても枯渇し、講演活動で全国行脚の日々を送った。晩年は、資料的価値の高い『水蔭行脚全集』『自己中心明治文壇史』を著したが、最後は松山で客死した。

 尾崎紅葉、田山花袋、泉鏡花、正岡子規、柳田国男、天狗倶楽部の押川春浪、川上音二郎、横綱梅ヶ谷、常陸山など多彩な人物と交流。ひょっとして「いだてん」に出てくるかもしれないと期待したが、駄目だった。
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