沢木耕太郎原作のボクシング映画『春に散る』を試写で見て、この本のことを思い出した。
『一瞬の夏』(沢木耕太郎)(1981.8.5.)
最初に、この本の新聞広告を見た時は、正直言って驚いた。あのカシアス内藤がまだボクシングをやっていた。輪島功一や柳済斗と闘っていた彼が…。
内藤を描いた沢木耕太郎の『敗れざる者たち』「クレイになれなかった男」を最初に読んだのは高校1年の頃だった。当時、輪島対柳のボクシング史に残るような試合を見て、ボクシングにただのスポーツ以上のドラマを感じて、試合のみならず、選手の内面についても知りたいと思い始めた自分にとって、このルポルタージュは時宜を得ていた。
カシアス内藤という混血のボクサーがいたことは知っていたし、急に表舞台から消えてしまった彼が、今どうしているのかという興味も湧いた。
ここでは、内藤が柳に敗れる釜山での試合までの、沢木による密着ルポが書かれているのだが、結論は出ていなかった。結局、内藤は「いつかは翔びたい」という、そのいつかを求めてさまよい続けていたし、沢木もそんな内藤に、何か妙に引っ掛かるものを感じたまま、終わっていたからである。
とはいえ、それは5年も前の話だ。ところが、その「いつか」に決着をつけるために書かれたような、この『一瞬の夏』のことを知ったのである。内藤はその後もボクシングを引きずり、沢木も内藤に対する思いを引きずっていたのだ。
この物語は、30歳間近になった内藤がカムバックする、という新聞記事から始まる。一体内藤の中で何が起こったのか…。読み進めるうちに、内藤がリングに未練を残し、ボクサーにとっての肉体の限界といわれる30歳までに燃えてみたいという思いから、再起を図り出したことが分かってくる。
そして、なぜか内藤にこだわっていた沢木も、老トレーナーのエディ・タウンゼントも、内藤の闘いに自らの夢を託し始める。日本、東洋、世界…、考えればとても遠く険しい道なのに、読んでいる自分も「ひょっとしたら」「ひょっとするかも」などと思い始めた。いつかは翔びたい、燃えつきたいと思いながらできないでいる自分自身の姿を重ね合わせながら、自分も内藤に、このルポルタージュに夢を託したのかもしれない。
内藤の再起第一戦の相手の大戸健がつぶやく「こんなままじゃ、やめるわけにはいかねえよ、まったく。…そうでしょ?」「どうしたらやめられる?」「そうだね…思う存分やって…やれたと思ったら…やめたいね」という一言が、このルポの全てを言い当てているのかもしれない。
人間、誰しも夢がある。だが、その夢にのめり込み過ぎて、気が付いた時にはにっちもさっちもいかなくなっている。内藤もエディも大戸も皆そうである。やめてしまえば楽になるのかもしれない。けれども…。沢木が内藤のことが気になったのも、ここのところなのではないか。だから、一人ぐらい夢を成就させるやつがいてもいいじゃないか。そんな思いから内藤に協力したのだろう。
だが、結局内藤は朴鍾八との東洋太平洋タイトルマッチにKO負けし、全ては終わる。果たして内藤はリングに未練を残すことなく今後の人生を送っていけるのだろうか、沢木は内藤を引きずらずに、新たなものを書いていけるのだろうか。またも結論は出ていない。
【今の一言】約40年前に書いたもの。未読だが、恐らく『春に散る』は、ここで沢木が体験したことを基に、小説として書かれたのではないかと思う。あの頃に比べれば、自分にとっての沢木耕太郎は遠い存在になっているが、読んでみるかな。