田中雄二の「映画の王様」

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BSテレ東 土曜は寅さん!『男はつらいよ 私の寅さん』

2023-06-24 23:05:55 | 男はつらいよ

『男はつらいよ 私の寅さん』(73)

  シリーズ12作目。岸恵子演じるマドンナりつ子の兄で、寅の小学校時代の親友・デベソこと柳文彦を演じた前田武彦が、なかなかいい味を出している。ショパンの「別れの曲」、シューベルトの「鱒」、そして中山晋平の「背比べ」と、今回も挿入音楽が秀逸。

 りつ子の家は中川沿いの新宿(にいじゅく)辺りか。「人間の証」というセリフがあったので、『人間の証明』(77)と同じ頃だったっけと思ったが、こちらの方がずっと早かった。


『男はつらいよ 私の寅さん』
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/fc884f28eb7fc0d45a10e80a4e690090

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『ヴァチカンのエクソシスト』

2023-06-24 14:44:58 | 新作映画を見てみた

『ヴァチカンのエクソシスト』(2023.6.22.ソニー・ピクチャーズ試写室)

 1987年7月、アモルト神父(ラッセル・クロウ)はローマ教皇(フランコ・ネロ)から、スペインのサン・セバスチャン修道院でのある少年の悪魔払いを依頼される。少年の様子を見て悪魔の仕業だと確信したアモルトは、相棒となった若きトマース神父(ダニエル・ゾバット)と共に本格的な調査を開始。やがて彼らは、中世ヨーロッパでカトリック教会が異端者の摘発と処罰のために行っていた宗教裁判の記録と、修道院の地下に眠る邪悪な魂の存在にたどり着く。

 カトリック教会の総本山バチカンのローマ教皇に仕えた実在のエクソシスト、ガブリエーレ・アモルト神父の回顧録『エクソシストは語る』を映画化。クロウがホラー映画初主演。監督はオーストラリア出身のジュリアス・エイバリー。

 『エクソシスト』(73)から50年。神父の人物設定や、悪魔つきとされる人の98パーセントは精神疾患によるものだが、残りの2パーセントは原因が何なのか分からないという分析を示すところなどに時代の変化を感じるオカルト物だが、宗教観の違う日本では、コミカルに映るところもあり、単なるエンターテインメントとして見てしまう感もある。そして結構面白い。

 クロウのけれん味たっぷりの演技もさることながら、『エクソシスト』のリンダ・ブレアや『デアボリカ』(74)のジュリエット・ミルズを思わせる、悪魔に取りつかれたヘンリー役の子役が不気味というか、かわいそうに見えた。アモルト神父とトマース神父のバディ物としてシリーズ化されるかもしれない。

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土曜プレミアム『タイタニック』

2023-06-24 09:29:06 | ブラウン管の映画館

『タイタニック』(97)

 先日、タイタニック号見学ツアー中の潜水艇で乗客乗員が死亡する事故が起きたばかり。放送は前々から決まっていたので、その偶然に驚く。

「金曜ロードショー」『タイタニック』
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/f29ef792be547ebaa64132ca68fb2369


 

【インタビュー】『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』ジェームズ・キャメロン監督
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/b87c200aa746ff8d3d5b7b1304346570

 

 

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『王の闇』(沢木耕太郎)

2023-06-24 09:18:31 | ブックレビュー

『王の闇』(沢木耕太郎)(1989.8.)

 沢木耕太郎は寡作の人である。それ故、出来上がった作品は、完成までに何年越しかの年月を要しており、そのどれもが内容が濃く、生半可な仕事ではなかったことを想像させる。

 中でも、『敗れざる者たち』に始まるスポーツノンフィクションの作品群は、彼独特の思い入れの強さ、突っ込みの深さが読む者を圧倒する。「ここまで相手に感情移入しなくてもいいのに」と思うほど、対象者の内面の奥の部分まで掘り下げるものだから、読む側を引き込む力強さがあったのだ。

 ところが、この久々のスポーツノンフィクション集は、これまでの沢木の作品に比べると意外にもさらっとしている印象を受けた。何やら作風が落ち着いて、対象者に対してもドライな感じがした。これはかなりショックな読後感であった。

 往年の“沢木節”を思い起こさせるのは、『敗れざる者たち』の「ドランカー<酔いどれ>」における輪島功一のその後を描いた「コホーネス<肝っ玉>」と、ジョー・フレージャーとモハメド・アリを交差させた「王であれ道化であれ」の2編にとどまる。

 これは、もはや沢木の血を熱くさせるような男たちがいなくなってしまった時代の流れの性なのか、それとも沢木自身が変容した結果なのだろうか。

【今の一言】このあたりから、自分は沢木耕太郎から離れていったんだと思う。

 

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