『カジノ』(95)(1996.5.29.ニュー東宝シネマ1)
1970年代ラスベガスのカジノをめぐる欲と暴力にまみれた人間模様を描いたこの映画を見て、同じくマーティン・スコセッシ監督、ロバート・デ・ニーロ、ジョー・ペシ共演の『グッドフェローズ』(90)を思い浮かべたのは、恐らくオレばかりではあるまい。
時代や舞台こそ異なるものの、どちらもアメリカの裏社会の実態をけれん味たっぷりに描き、その中で成り上がり、やがて自滅していく人間たちの業の深さが、悲哀や滑稽味を伴って浮き彫りにされていくからだ。
そして、暴れるだけ暴れて最後は無残に殺されるペシ、冷静で計算高いが情を求めたために孤立し、取り残されるデ・ニーロ、虚栄の中で落ちていくシャロン・ストーン(これは『グッドフェローズ』のレイ・リオッタの役どころと同じ)と、キャラクターもそっくり。
その上、お得意のぐるぐる回るカメラのバックに既存の名曲を流し続け(スコセッシとロビー・ロバートソンの音楽センスの良さは感じられるが…)、うるさいほどのモノローグの多用といった手法までが一緒となると、新味に欠け、二番煎じの感は否めない。
もっとも、迷ストーリーテラーのスコセッシにしては、珍しく3時間を見せ切った力業は認めるし、バイオレンスの中に悲哀を漂わせるあたりが、タランティーノとは一味違う魅力ではあるのだが、そろそろ路線変更をしないときつくなってきたと感じたのはオレだけか…。
ところで、スコセッシのしつこさを考えると、ひょっとしてタイトルデザインを、先日亡くなったソール・バスに担当させていたかもしれないと期待したら、やはりそうだった。おかげで、ヒッチコックの諸作をほうふつとさせる“最後の幾何学模様”を見ることができた。
こうしたスコセッシの憧れに対する無邪気さみたいなところに共感させられ、結局彼の映画をばっさりと切り捨てられないもどかしさを感じてしまうのだ。
『グッドフェローズ』
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