「夫婦で見たら、見終わった後で『手をつないで帰ろうか』とか、そう思ってくれたらいいですね」
https://tvfan.kyodo.co.jp/feature-interview/interview/1186143
『初恋~お父さん、チビがいなくなりました』
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/8068bb4e82d12be609c87ed261733573
「ザ・シネマ」で見た『ガンマン大連合』(70)『ミネソタ無頼』(65)ですっかりセルジオ・コルブッチ作品のファンになった妻がDVDを借りてきた。
悪徳判事ポリカット(ルイジ・ピスティリ)と、アウトローのロコ(クラウス・キンスキー)たちが支配する西部の町スノーヒル。ロコに夫を殺されたポーリーンは、声を失い“サイレンス”と呼ばれる凄腕のガンマン(ジャン・ルイ・トランティニヤン)に復讐を依頼する。
舞台背景は『続・荒野の用心棒』(66)の泥から雪に、主人公が持つ“秘密兵器”はガトリング機関銃からモーゼル拳銃に、主人公が背負うハンディは『ミネソタ無頼』の盲目から、『続・荒野の用心棒』の手の傷を経て、この映画のろうあへと変化しているが、これらはコルブッチの強いこだわりを感じさせる。
『イタリア人の拳銃ごっこ』(二階堂卓也)によると、コルブッチは「私の西部劇の背景にあるのは人種問題か革命だ。もう一つの特徴は主人公が何らかの形で肉体的な障害持っていることだ。ハンディキャップを抱えたキャラクターに強く惹かれるのは、主人公をより困難な状況に置くことによって、クライマックスが一層盛り上がるからだ」と語ったそうだ。
この映画の見どころは、ひたすら雪の中で繰り広げられる西部劇という珍しさ(タランティーノの『ヘイトフル・エイト』(15)に与えた影響大)、衝撃的かつ後味が最悪なラストシーン(トランティニヤンのアイデア説も)にあるが、『ミネソタ無頼』同様、ハッピーエンドの別バージョンがあるという。
『永遠のジャンゴ』
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/056a162a14eb74d6884ef3f5b479dd41
『ほぼ週刊映画コラム』
今週は
14歳の少年が体だけ大人になって…
『シャザム!』
詳細はこちら↓
https://tvfan.kyodo.co.jp/feature-interview/column/week-movie-c/1186619
『SCREEN(スクリーン)』2019年6月号に生誕90年特別企画「麗しのオードリー・ヘプバーン」掲載。
表紙はロバート・ダウニー.Jr
反ユダヤ人主義を告発する記事を書くため、自らユダヤ人であると装ったルポライター(グレゴリー・ペック)が直面する社会の実態を描く。エリア・カザン監督作。
第二次大戦直後にカザンらが高らかに歌い上げたデモクラシー賛歌。ここではユダヤ人差別が描かれるが、人種差別に対する普遍性という意味では、今でも十分に訴え掛けてくるものがある。
この時期、戦地から戻ったウィリアム・ワイラーが『我等の生涯の最良の年』(46)を、フランク・キャプラが『素晴らしき哉、人生!』(46)を、というように、戦後の空気がデモクラシーを盛り上げ、この後どうしたら幸せな社会が築いていけるのかという命題を、それぞれの監督がそれぞれの形で提示したのだが、こうした動きは“一瞬の幻”で終わる。何故ならアメリカはこの直後、冷戦や赤狩りという暗黒時代に突入するからだ。
カザンは密告者となり、母親役を好演したアン・リベアは赤狩りの犠牲となって、事実上映画界から抹殺された。また、日本ではアメリカの暗部を描いたこの映画の公開は1980年代の後半まで待たねばならなかった。そうした事実を知った上で、今改めてこのデモクラシー映画を見ると、複雑な思いがするのは否めない。
エリア・カザン&セレステ・ホルム
グレゴリー・ペック
ドロシー・マクガイア
ニューヨークの下町に住む貧しい一家の姿を描いたエリア・カザンの監督デビュー作。心温まりつつも生活の厳しさを感じさせる家庭劇だが、まだ舞台演出出身の演劇くささが残っていたためか、各エピソードのつながりが悪く、散文的なところがあり、窮屈な感じを抱かされたのは否めない。
加えて、これは昔の映画を年代順には見ていない、自分のような“後追い世代”の宿命なのだが、映画を見たタイミングによって、俳優のイメージが定まらなくなるところがある。この映画の場合は、母親役のドロシー・マクガイアがそれで、『らせん階段』(46)のかれんでかわいらしいイメージよりも“おばさんぽかった”という事実を知ったりもするが、逆に父親役のジェームズ・ダンや、娘役のペギー・アン・ガーナーといった“今は幻の名優”の存在を教えられたりもする。
ドロシー・マクガイア
ジェームズ・ダン
ペギー・アン・ガーナー
BSでクラウディア・カルディナーレ主演の『鞄を持った女』を見る。バレリオ・ズルリーニ監督らしい生真面目な映画なのだが、いささかくどいところがあって、正直なところ見るのに骨が折れた。また、カルディナーレ演じる野卑で、男にだまされ、利用されながら、流浪するヒロイン、アイーダが実は純情な女で…というのはあくまで男の側の勝手な理想像という気がしてきて何だか困った。
ただ、ジャック・ペラン演じる純情な少年が年上の彼女に惚れていく様は、同じ男として身につまされるところもあったが、全体的には、傑作にも佳作にもなりそこねた少々悲しい映画という印象が残った。それにしてもカルディナーレのグラマーぶりに改めて驚く。
さて、同時期に作られたセックス・シンボルたち。MM(マリリン・モンロー) BB(ブリジット・バルドー) CC(クラウディア・カルディナーレ)の中で誰かを選べといわれたらオレはCC。中でも『ブーベの恋人』(64)が最高だ。
クラウディア・カルディナーレ
「こういう話を、映画というエンターテインメントの部分で見せることも大切だと思います」の言葉に共感。
詳細は後ほど。
『ある町の高い煙突』
https://blog.goo.ne.jp/tanar61/e/56d85cd594085b664281cacb1eebcf0e
中学時代以来、約30年ぶりに、少年と風船の奇妙な交流を描いたアルベール・ラモリスの『赤い風船』を再見。およそ30分、しかもほとんどセリフもなしという短編だが、これは一種の映像詩。今だったらCGで簡単に出来てしまうのだろうが、当時はもちろんそんなものはない。なので、手作りの良さみたいなものを感じることができた。ただ、擬人化された意思のある風船というのはちょっと不気味に見えることを今回発見した。日本旅行の「赤い風船」は多分この映画から名を頂いたのだろう。
アルベール・ラモリス
『黒いオルフェ』(59)(2004.11.8.)
ギリシア神話のオルペウス(オルフェ)とエウリュディケ(ユーリディス)の物語の舞台を、カーニバルで盛り上がるブラジル、リオデジャネイロに移して映画化。音楽はアントニオ・カルロス・ジョビン。監督はマルセル・カミュ。
さすがに音楽は覚えていたが、内容はほとんど忘れていた。主人公のオルフェってこんなに能天気な男だったっけ…。ラテン気質の「奴は死んじまったけど、まあ仕方ないさ、陽はまた登るさ」みたいな緩い感じが妙に良かったりして。で、やっぱり「カーニバルの朝」など、ジョビンの音楽がいいんだなあ。
『THE BIG ISSUE JAPAN』19号「とき、ところ自由自在。映画で出かけるお正月の旅」(2004.12.15.)