夢見るタンポポおばさん

富士山麓の風景、花の写真。エッセイ。

100年生きるってどれだけ大変なんだ!

2010-12-21 21:48:50 | 日記・エッセイ・コラム

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年末になると、懐かしい故人や、ニュースなどが、盛んに放送される。

日航ジャンボ機の墜落事故も、25年前の出来事になってしまった。事故の関係者や、ご遺族にとっては、昨日の出来事だと思う。

過ぎ去った四半世紀とこれからの人生。大変な重荷を背負っている。

美人女優夏目雅子さんも死後25年だと言う。彼女は、今も私の中では、永遠に27才の笑顔で輝いている。お元気だったら、52才になっていらっしゃるのか?想像がつかない!

私の記憶の中の父は、鬼籍に入った46才の働き盛りの大人。今の私よりも10才も年下なんてどうしても、考えられない。亡き母は、67才とこれまた長生きではない。私は、しわくちゃのおばあさんになって、みんなに迷惑を掛けたくないし、あの世で、お父さんに会った時、あんまり年をとっていると釣り合わないんじゃないなどと生前に冗談のように言っていた。

母の姉は、大正3年生まれで数えで97才。老いてなお、品と風格があります。

女中さんを使っていた時の事を覚えているようで、同室の方に、「おとき、手袋が邪魔だから取って欲しい。」とか従姉妹に「家に帰りたいので、運転手の○○を玄関に呼んで欲しい」とか、「履き物が無い」とか、言うようです。自分勝手にしないで、お抱え運転手や、女中さんの名前を言う所が立場をわきまえていて、すごいなあと思います。

私がお見舞いに行き、櫛を手渡すと私の持つ手鏡を見て、自分の顔のチェック。櫛を右手から左手に持ち替えて、丁寧に櫛削ります。寝たきりになってしまいましたけれど、昔のことは良く覚えていて話をしてくれます。私の母が未亡人になってしまったので、畑仕事が大変だとか、叔母に子供が授からないとか、叔父が戦争に行っているので、心配だとか

もう65年も昔の事の心配までしています。

身繕い、食事、兄弟の心配。100才まで生きるってことはなんて大変なんでしょう!


今年の我が家の十大ニュースを選考してみませんか?

2010-12-20 20:08:56 | 日記・エッセイ・コラム

201012200401 手作りの熊手。

ホームセンターに売っている熊手に好きな縁起物を付け加えるだけ

息子達の結婚式に頂いた熨斗袋の水引細工をアレンジして飾りました。紅白の玉は100円均一のお店の物です。熨斗袋や、兎の人形など何でも好きな物を飾って楽しんでくださいね!

毎年作り直します。

熊手は勿論庭の掃除に使います!

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年の瀬が近づいて来ると、どうしてもゆく年のことを振り返る。

結婚以来ずっと我が家の今年の十大ニュースと言っては毎年勝手に選考していた。

世界の十大ニュースよりも、我が家の十大ニュースの方が大切だ!

妊娠、出産、入園、入学、は勿論のこと。

お母さんパートに出るというのもある。昭和61年のニュースだ。

我が家の家計、一日の生活が一変したのだから、一大ニュースだ。

今年はまだ決定していないが、候補は出揃っている。

1月三男の結婚式。

5月5番目の孫太雅(たいが)誕生

寅年の寅の日に誕生したので、タイガーと海外でも通用するように名付けたところ、今年誕生した男子の名前ベスト10に入っているとのこと。太陽みたいに明るい雅な子。太ったではありません。太っ腹のならば、良しとしましょう。最近太っ腹の人物が少なくなりましたからね。

私と夫は姓名判断を勉強しているのですが、5番目なので、ちょっと洒落て付けた『タイガ』がそんなに多いとは、驚きました。

7月私の緊急入院

9月ブログを開始というのもニュースだ!

倒れる前に、仕事抜きで、夫とマレーシアボルネオ島に旅行したのも入れておこう。別々に行くことばかりで、二人だけでプライベートな海外旅行は、二回しか行っていない。またいつか二人で行けるのだろうか?

ヘルパーさんに、週6日来て頂けるようになったのは、三番目のニュース。毎日の生活が、すごく楽になった。生きて行く希望が持てるようになった。正直なところ、この痛みと苦しさで生活して行くのはちょっと

勘弁して欲しい・・・・・

痛い時に横になっていられるのが一番有り難い。

入浴介助をして頂けるので、安心して入浴出来る。

怪我や、皮膚のトラブルも少なくなっている。

今年も残り後10日。

私の父親は12月25日に、脳卒中で即日死亡。

そんなことにならないように、清々しい気持ちで、新年を迎えたい。

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呼び出し電話のお使いは本当に嫌い の話の続き

2010-12-19 20:34:46 | 日記・エッセイ・コラム

今日の富士山 凍えているようです。

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昔電話は緊急事態を報せる道具だった。

余程の用事の無い限り夜中に黒電話のベルは鳴らなかった。

夜中の電話は、悪い出来事の前兆。不吉なベルの音。

ジリジリーンと鳴ると、また誰かに不幸な出来事が起こったのかと、胸騒ぎがする。

歌の文句にあるように、夜中に電話を掛けるのは、悪い癖。

昭和30年代の夜の電話の呼び出しは、大抵は、危篤とか、死亡とか、良くても、大怪我をしたとか、明日の朝まで待てない急ぎの用件だった。

赤紙を配達する係だった人の話を聞いたことがある。苦悩の連続の毎日だったと言う。

私も、いつも不幸を報せる役割を果たしていた。

直接の用件を言わなくても、「○○○から電話がありました。電話をして欲しいそうです。」と伝えるだけで、ワァーと泣き出したおばさんもいた。

子供心にも、実家に不幸が有ったのだなと理解できた。たまらない重苦しい、お使いだった。

少しおませな気持ちにさせてくれる呼び出し電話もあった。

近所のお姉さんの所にいつも掛けて来るお兄さんの電話。

毎日熱心だった。

電話は玄関にあったので、私が勉強をしている板の間から筒抜け。

聞き耳を立てていなくても、「愛しているには、愛しているんだけど..」と切ない会話。

その後二人はどうなったのか、私は覚えていません。                            

楽しい電話のエピソードもあります。

私が産まれた時、祖父が、母の実家の伯母に電話をしました。交換手が電話に出ると、相手を確かめもせずに、Г俺の家で女の子を拾った。花火を上げる。」とだけ言って切ってしまったそうです。

「おかしいですね。男の子ならともかく、すごく喜んでいましたよ。」と伯父に伝えると、「上に男の子が三人もいるんだよ」と答え、その話は以後ずっと語り継がれています。

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呼び出し電話のお使いは、本当に嫌でした!

2010-12-18 21:39:20 | 日記・エッセイ・コラム

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木枯らしが吹いても、こんなに綺麗な薔薇が、庭に咲いています!イギリス生まれの薔薇です。寒さに強い品種のようです。

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電話の呼び出しを知っていますか?昭和30年代、電話が高価で、自宅に電話が無い家が多かった時代の話です。

電話の有る家の電話番号を自分の電話番号として相手に知らせて、その家の人に呼び出してもらうのです。

勤務先の会社や通学先の学校に知人宅の電話番号を届け出るのです。例えば、名簿に012-34-5678(呼)と記入。学生は、大家さんの電話番号を学校に届け出ました。

届けられた電話を所有している家の人は、いい迷惑です!

私はその最大の被害者の一人です。

当時町内(集落といった方が相応しい)に数軒しか電話を所有している家が在りませんでした。

その中で気持ちよく?呼び出しをしてあげていたのは、我が家と、もう一軒だけだったようです。

その係は、必然的に、末っ子の私。

三人の兄たちに「行って来い。」と命令されると、例え兄たち皆、コタツでテレビを見ていても、どんなに寒くても、どんなに強い風が吹いて怖ろしくても、あちこちの家に呼び出しに行きました。両親は、いつも夜遅くまで働いていました。

当時流行っていたスピッツと言う良く吠える犬に吠えられたり、泥んこに足を取られて、靴が汚れたり、本当に嫌な思い出ばかりです。

祖母は優しい人で、遠くの家には一緒に行ってくれました。

ところが、祖母が、暗い田舎の泥道で、足を滑らして、怪我をしてしまったのです。

血だらけの祖母の足を見て、私がしっかりしなくてはと、勇気を奮い起こしたことを思い出します。

『電話の無い家の子に生まれて来たかった。』といつも思っていました。

冷たい木枯らしが吹くと、辛かった毎日の電話の呼び出しのお使いを思い出します。

赤やピンク色、緑色の公衆電話が登場したのは、ずっと後になってからです。

あれからたったの半世紀も経っていないのに、一人に一台の携帯電話。

もう私のように、呼び出し電話のお使いで泣いている少女はいないでしょう!


私は風邪をひいた蛙の声の持ち主です

2010-12-17 21:30:56 | 日記・エッセイ・コラム

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私は風邪をひいたカエルの声の持ち主です。

人の悪口を言わない、優しかった祖母でさえも、私のことを「働き者で、成績も良く、明眸皓歯だけど、声の悪いのが玉に傷。」と言っていましたので、筋金入りの悪声なんだろうと思います。

小学校五年生の時、夕鶴の劇で悪声の為、何の役も貰えなかった私は母に「何でこんな声に生んだの?」と悪態をつきました。

母は悲しそうな顔をして、「手で作るのなら、どんなにも丁寧に作ってあげたかったんだけど..」と答えました。

音大に進学した高校の同級生は、「人間の声ではない。」とまで言いました。

私の願いは、只一つ普通の声でした。

せめて子供には同じ声の苦労だけはさせたくないと、お見合いで、その声に一聞き惚れした男性と二回しか会わないで、結婚し、三人の人並みの声の子を授かりました。

  子供たちが話し始めると、夫ほどの美声ではないけれど、私ほどのガラガラ声じゃないと判って、本当に一安心。

筑波山麓男性合唱団を結成することもなく

三人の息子達は結婚し、独立しました。

次男の結婚式で、夫は得意の歌声で、『君といつまでも』を花嫁さんとデュエットして大喝采。瞬間最大スター、会場中感動の渦でした。

私のカエルの声を聞いてみたくなったでしょう?

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