埼玉では雨が降っている。湿気の季節だね。
今は二十四節気で小暑(しょうしょ)と呼ばれるとき。今年の小暑は2019年7月7日(日)ごろから7月22日(月)ごろ。
小暑は、水分と縁が深い気がしている。梅雨の頃は、ご存知の通り、雨が降り湿度が高くなる。
そして小暑は、湿気が高いと同時に、その湿気と自分が分離されてくる時期だとおもっている。
糠に使っていた漬物が、糠から取り出される。もう十分に漬かったのだ。
(糠ではそれはないけれど)これ以上つかり続けると今度は、形あるものそのものが、生き延びるほうではなく、朽ちていくことを選んでいく。
小暑の終わりには夏の土用が始まり、土に還るものはものは土に還っていく。
小暑は、東洋医学の考えでは、水と熱を上手に抜いていく養生が求められるという説もあるみたい。
水を抜いて上手に動きをつけていきたいな。個は個なんだよね。それは人間関係でも、ひとりの体でも、どこかとのつながりでもいえること。
恋愛をすると、(特に女性は)相手と自分の体がくっついて同じ液体を共有している、ひとつの入れ物になったような感覚を味わうことがある。ひょっとしたら、育児中の子どもに対してもそうかもしれないね。
けれどもつながりはあり影響は与えあっていても、それぞれが個であり、固、なのかもしれない。
などと、雨音を聞きながら考えているよ。
家も体も心もエネルギーもみんな一緒かもなとおもって、なんとなく除湿器をつけている。全部つながっているなら、いろいろ考えるより、除湿器つけて家からアプローチするのが楽かもしれないという計算もあり。。
今年の七夕7月7日と言えば、持病のある愛猫が退院してきた日。持病があると、とりわけ気候の変化が体調として体に表れやすい気がしている。
ここ数か月は愛猫たちが体調を崩したり、親戚が亡くなったりと、人生について考えさせられることが続いているよ。
ひとつひとつを真摯に向き合いながらも、どこかで暦の勉強をさせてもらっているなともおもった。暦はあたしにとっての拠り所、ある意味宗教なのかもしれない。
ふと自分で書いたこの文章を思い出した。
⇒貫井徳郎著「神のふたつの貌」(文春文庫)、読書感想 見上げれば必ず見下ろす
そしてここ数年は、かつてほど暦に注目していなかったことをちょっと後悔。(ちょっと注目しかかったけれど、いつの間にかまたフェードアウトしていた。)
正直なところ、過去に自分で書いた小暑の記事を読み直しても、最初はなんのことわからなかったくらい。
しばらく背景を調べ直したり、あらたに考えてみたりして、少しずつ書いた当初の記憶や知識がよみがえってきた。
飽きっぽい面もあり、目先の新しいことに目移りしてしまう。そして忘れる。
なんというか、物事には第1章だけではなく、第2章、第3章とある。けれどもだいたい第1章でやめてしまう。
気づいたところが再スタートということで、またここからやっていければいいなあ。
そんな飽きっぽいなか続いた(よく漬かった)漬物といえば、あたしにとっては、ヨガがそのひとつかな。
ヨガは長すぎて、もうヨガ漬けができあがっていて、思想のそこかしこに入ってきてしまう。
そういう自分にとって望ましいことが、習慣になっていけばいいなあ。
ではまた
◆臼村さおり twitter @saori_u
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