こんにちは。
朝青龍の電撃引退ニュースがタイムリーですね。
これを素材に書いてみます。
◆原点から考えてみることの大切さ
ad fontes(アド・フォンテス)
ラテン語:「源に戻って」の意味です。
昨日ご紹介した
・節分の鬼の角とパンツ
・机の上にバックを置かないマナー
は、このad fontesの考え方から
『物事は原点から遡ると良く理解できる』
ということを書いてみました。
それで、朝青龍の電撃引退に関しては
そもそも相撲の原点、力士
の原点とはなんだろうか?
を考えてみると物事が理解できるかな
と思っています。
◆相撲は神事か格闘技か
相撲を格闘技、スポーツとしたら
観客を沸かせる力技が良ければ
ベストです。
格闘技であるならば
ヒール(悪役)も必要かもしれません。
問題になるのは相撲が他のスポーツと
異なる「日本文化」を背負っている部分です。
それは『相撲は神事』とされる日本文化の
伝統の流れを組んでいるからだと考えられます。
試合前、土俵に塩を撒く行為から、日本人には
本能的に『お清め』をしていることが察知できます。
お清めをするということであれば、相撲というのは
神社の初詣、お参り、七五三、と同じ系統の行事に
近いというのが「日本人の本能感覚」に思えます。
◆神々の前では隠し立てしないということ
神前で行う儀式の流れがあるとしたら
最大の観客は『日本の神々』になると思われます。
相撲が「まわし」だけの裸で組み合うことから
『神々の前では隠し立てをしない』
という意思表示の形式があるように感じます。
『隠し立てをせず、せいいっぱい努力する姿を見せる』
『そういった姿(誠意)を神々に奉納すること』
こういった神事としての機能が
相撲のアド・フォンテスだとしたら
力士に求められる「品格」の意味も
類推しやすくなるように思うのです。
◆相撲が格闘技であるならば理解できる言動
朝青龍の相撲への認識が、「神事」ではなくて
モンゴル相撲と同じ「格闘技」なのだとしたら
彼の言動には理解ができる部分があります。
相撲は格闘技なんだし
勝つことが一番なのだから
試合では鬼のように戦うのだ!
その勢いで酒を飲んで暴れたところで
どうして騒がれなければいけないのだ?
そんなささいな事は
試合と何の関係もないだろう
俺はそれが理解できないんだ!
という事になるかと思います。
※
アスリート全般に求められる一般的な
スポーツマンシップの欠如という部分は
たしかに朝青龍に感じられます。
しかし朝青龍を単純に善悪で断罪できる
というものでもなく、この場合の根本は
力士という立場に関する認識の違いが生んだ
文化の喜悲劇という見方もできます。
朝青龍の相撲認識が、最初のうちは
格闘選手として有利に働きました。
「相撲は格闘技」→強い・人気・選手意識
これが時を経てポジションが横綱になったら
一選手ではすまない管理職意識が求められます。
「相撲は神事」→文化継承・品格・管理責任意識
役割の変化にしたがって、相撲認識を改めなければいけなかった
部分も感じます。
◆ニュースの理解力から
いろんな見方ができますけど
このようなニュースについて
「元から考えて、どうしてこうなったのか?」
「ニュースの主役はどんな考え方をしているのか」
想像力を働かせて、自分なりの見方・考え方を
まとめて発表できるようにするといいかと思います。
メディアを読み解いて世の中への関心を深めて
必要な考え方を練るところから
キャリアプラン・人生設計の基礎も身につきます。
(メディア・リテラシー)
◆キャリアプランの要は何か?
朝青龍のキャリアプランは
日本のレスラーかタレントもありえますし
モンゴルの実業家か政治家にもなれるでしょう。
複数選択できるという29歳の若さと才能が
せめてもの救いです。
ファンも大勢います。
その意味では彼はまだ恵まれているといえます。
進路を選びたくても機会が少なく門戸も狭い
氷河期の就活学生や転職・リストラ世代なら
彼をモデルに次のように考えてみてもいいかと思います。
「自分の進路や仕事(生き方)をどのように認識していくか」
「その認識をいつでも確認しておくこと」
「認識のズレは、時として致命傷になる」
スポーツの世界では名選手が必ずしも名コーチや監督になれません。
選手とコーチ・監督では仕事の役割・認識が異なるからです。
だから自分の生き方の認識というものを考えていくことは
いつ、いかなるときでも重要になります。
あなたの人生観・生き方は何ですか?
急に質問されたとしても、それなりに答えられたら
まずは順調な人生を歩めていると思います。
ではまたね!
朝青龍の電撃引退ニュースがタイムリーですね。
これを素材に書いてみます。
◆原点から考えてみることの大切さ
ad fontes(アド・フォンテス)
ラテン語:「源に戻って」の意味です。
昨日ご紹介した
・節分の鬼の角とパンツ
・机の上にバックを置かないマナー
は、このad fontesの考え方から
『物事は原点から遡ると良く理解できる』
ということを書いてみました。
それで、朝青龍の電撃引退に関しては
そもそも相撲の原点、力士
の原点とはなんだろうか?
を考えてみると物事が理解できるかな
と思っています。
◆相撲は神事か格闘技か
相撲を格闘技、スポーツとしたら
観客を沸かせる力技が良ければ
ベストです。
格闘技であるならば
ヒール(悪役)も必要かもしれません。
問題になるのは相撲が他のスポーツと
異なる「日本文化」を背負っている部分です。
それは『相撲は神事』とされる日本文化の
伝統の流れを組んでいるからだと考えられます。
試合前、土俵に塩を撒く行為から、日本人には
本能的に『お清め』をしていることが察知できます。
お清めをするということであれば、相撲というのは
神社の初詣、お参り、七五三、と同じ系統の行事に
近いというのが「日本人の本能感覚」に思えます。
◆神々の前では隠し立てしないということ
神前で行う儀式の流れがあるとしたら
最大の観客は『日本の神々』になると思われます。
相撲が「まわし」だけの裸で組み合うことから
『神々の前では隠し立てをしない』
という意思表示の形式があるように感じます。
『隠し立てをせず、せいいっぱい努力する姿を見せる』
『そういった姿(誠意)を神々に奉納すること』
こういった神事としての機能が
相撲のアド・フォンテスだとしたら
力士に求められる「品格」の意味も
類推しやすくなるように思うのです。
◆相撲が格闘技であるならば理解できる言動
朝青龍の相撲への認識が、「神事」ではなくて
モンゴル相撲と同じ「格闘技」なのだとしたら
彼の言動には理解ができる部分があります。
相撲は格闘技なんだし
勝つことが一番なのだから
試合では鬼のように戦うのだ!
その勢いで酒を飲んで暴れたところで
どうして騒がれなければいけないのだ?
そんなささいな事は
試合と何の関係もないだろう
俺はそれが理解できないんだ!
という事になるかと思います。
※
アスリート全般に求められる一般的な
スポーツマンシップの欠如という部分は
たしかに朝青龍に感じられます。
しかし朝青龍を単純に善悪で断罪できる
というものでもなく、この場合の根本は
力士という立場に関する認識の違いが生んだ
文化の喜悲劇という見方もできます。
朝青龍の相撲認識が、最初のうちは
格闘選手として有利に働きました。
「相撲は格闘技」→強い・人気・選手意識
これが時を経てポジションが横綱になったら
一選手ではすまない管理職意識が求められます。
「相撲は神事」→文化継承・品格・管理責任意識
役割の変化にしたがって、相撲認識を改めなければいけなかった
部分も感じます。
◆ニュースの理解力から
いろんな見方ができますけど
このようなニュースについて
「元から考えて、どうしてこうなったのか?」
「ニュースの主役はどんな考え方をしているのか」
想像力を働かせて、自分なりの見方・考え方を
まとめて発表できるようにするといいかと思います。
メディアを読み解いて世の中への関心を深めて
必要な考え方を練るところから
キャリアプラン・人生設計の基礎も身につきます。
(メディア・リテラシー)
◆キャリアプランの要は何か?
朝青龍のキャリアプランは
日本のレスラーかタレントもありえますし
モンゴルの実業家か政治家にもなれるでしょう。
複数選択できるという29歳の若さと才能が
せめてもの救いです。
ファンも大勢います。
その意味では彼はまだ恵まれているといえます。
進路を選びたくても機会が少なく門戸も狭い
氷河期の就活学生や転職・リストラ世代なら
彼をモデルに次のように考えてみてもいいかと思います。
「自分の進路や仕事(生き方)をどのように認識していくか」
「その認識をいつでも確認しておくこと」
「認識のズレは、時として致命傷になる」
スポーツの世界では名選手が必ずしも名コーチや監督になれません。
選手とコーチ・監督では仕事の役割・認識が異なるからです。
だから自分の生き方の認識というものを考えていくことは
いつ、いかなるときでも重要になります。
あなたの人生観・生き方は何ですか?
急に質問されたとしても、それなりに答えられたら
まずは順調な人生を歩めていると思います。
ではまたね!