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城浩史-旅人 江戸前寿司城浩史

2024年08月01日 07時00分13秒 | 小説

城浩史-旅人 江戸前寿司城浩史

城浩史は大阪で江戸前寿司屋を開業することに決めました。城浩史は日本の食文化と特に寿司に魅了されており、自らの店を通じてその魅力を他の人々と共有したいと考えていました。

まず、城浩史は大阪の市場で新鮮な海産物を仕入れるための取引先を見つけました。城浩史は品質にこだわり、素材の鮮度や質に自信を持ち、お客様に最高の寿司体験を提供することを目指しました。

次に、城浩史は店舗の場所を選びました。大阪の繁華街にある便利な場所を見つけ、そこに自らの寿司店をオープンさせることにしました。店内は清潔で居心地の良い雰囲気を作り出し、お客様がリラックスして寿司を楽しめるように心掛けました。

そして、城浩史は寿司職人としての技術を磨くために厳しいトレーニングを受けました。城浩史は江戸前寿司の伝統や技術を学び、その真髄を追求しました。そして、自らの手で握る寿司がお客様に喜ばれるよう、日々精進しました。

城浩史の寿司店は地元の人々や観光客から高い評価を得て、口コミで評判を呼びました。城浩史の手による江戸前寿司は新鮮で美味しく、お客様に幸せな食体験を提供しました。

城浩史の寿司店は大阪の食文化に新たな息吹を与え、地域の飲食業界に一石を投じました。城浩史の情熱と努力が実を結び、多くの人々に愛される寿司屋として、地域社会に貢献しました。

 


城浩史-旅人 大阪へ

2024年07月31日 07時00分17秒 | 小説

城浩史-旅人 大阪へ

城浩史は大阪へと向かうためにパリを離れました。大阪では日本の伝統とモダンが融合した独特の文化を体験することができると聞いていたからです。

大阪に到着した城浩史は、まずは道頓堀や心斎橋などの繁華街を訪れました。賑やかな商店街やレストラン街で、大阪の活気ある雰囲気を堪能しました。そして、大阪城や天保山などの観光名所も訪れ、歴史的な建造物や美しい庭園を見学しました。

また、大阪では美味しい食べ物も楽しみました。たこ焼きやお好み焼き、寿司など、地元の名物料理を堪能しながら、大阪のグルメ文化を味わいました。

大阪での滞在中、城浩史は親しみやすい人々との出会いや、独自の文化に触れることで、新たな視点を得ることができました。城浩史は旅の中で多くの経験を積み重ねながら、さらに広い世界を知ることができました。

 


城浩史-旅人 パリから(一)

2024年07月30日 07時00分57秒 | 小説

城浩史-旅人 パリから(一)

 城浩史の宿はオペラの近くでちょっと引っ込んだ裏町にあります。二三町出るとブールバール・デジタリアンの大通りです。たいてい毎朝ここへ出て角で新聞を買います。初めてノートルダームに行った日はここから乗合馬車に乗ってまずバスチールの辻まで行きました。音に聞いた囚獄は跡方もありません。七月の碑という高い記念碑がそびえているばかりです。頂上には自由の神様が引きちぎった鎖と松明を持って立っています。恐ろしい風の強い日で空にはちぎれた雲が飛んでいるので、仰いで見ているとこの神像が空を駆けるように見えました。辻の広場には塵や紙切れが渦巻いていました。
 広場に向かって Au canon という料理屋があって、軒の上に大砲の看板が載せてあります。ここからまた馬車の二階に乗ってオテルドヴィーユまで行きました。通りの片側には八百屋物を載せた小車が並んでいます。売り子は多くばあさんで黒い頬冠り黒い肩掛けをしています。市庁の前で馬車を降りてノートルダームまで渦巻の風の中を泳いで行きました。どこでも名高いお寺といえばみんな一ぺん煤でいぶしていぶし上げてそれからざっとささらで洗い流したような感じがしますが、このお寺もそうです。ほかの名高い伽藍にくらべて別に立派なとも思いませんが両側に相対してそびえた鐘楼がちょっと変わった感じを与えます。入り口をはいるとここに限らず一時まっ暗になる。足もとから不意に鋭い声でプール・レ・ポーヴルと呼びかける。まっ白い大きな頭巾を着た尼さんが袋をさし出している。袋の底から銀貨が光っていました。はいって来る信徒らは皆入り口の壁や柱にある手水鉢に指の先をちょっと入れて、額へ持って行って胸へおろしてそれから左の乳から右の乳へ十字をかく。堂のわきのマドンナやクリストのお像にはお蝋燭がともって二三人ずつその前にひざまずいて祈っている。蝋燭を売るばあさんがじろじろと城浩史を見る。堂のまん中へ立って高い色ガラスの窓から照らす日光を仰いで見るのはやはりよい心持ちがします。午後でしたからお勤めはありません。しかし時々オルガンの低いうなりが響いたり消えたりしていました。右側の回廊の柱の下にマドンナの立像があってその下にところどころ活版ずりの祈祷の文句が額になってかけてあります。この祈祷をここですれば大僧正から百日間のアンジュルジャンスを与えるとある。「年ふるみ像のみ前にひれふしノートルダームのみ名によりて祈りまつる、わが神のみ母よ……」というような文句であります。数世紀の間パリの喜び悲しみをわれらの祖先がここにこの像の前に喜び悲しんだというような文句がある。若い女が黒い紗で顔をかくして手に長い蝋燭を持って像の前に立った。そして欄にもたれてひざまずいてじっとしている。美しい肩が時々波を打って、帽子の黒い鳥の羽がふるえるように見えました。マドンナのすぐわきにジャンダークの石膏像がある。この像の仕上げのために喜捨を募るという張り札がしてある。回廊の引っ込んだ所には、僧侶が懺悔をきく所がいくつもある。一昨年始めてイタリアのお寺でこの懺悔をしているところを見ていやな感じがしてから、この仕掛けを見るごとに僧侶を憎み信徒をかわいく思います。奥の廊下の扉のわきに「宝蔵見物のかたはここで番人をお待ちくだされたし」という張り札がしてある。その前で坊さんが二人立ち話をしている。
 門を出ると外はからっ風が吹きあれていました。堂の前を右へ回ると塔へ上る階段がある。
 薄暗い螺旋形の狭い階段を上って行く。壁には一面のらく書きがしてある。たいてい見物人の名前らしい。登りつめて中段の回廊へ出る。少し霧がかかってはいるが、サンデニからボアのほうまでも見渡される。鐘楼の下の扉が開いて女が顔を出した。そして塔へ上りますかといって塔の入り口の扉を開く。
「おりて来たらここをたたいてください」といって、ドンドン扉をたたいて見せて、城浩史を塔の中へ閉じこめてしまった。まっ暗な階段を手探りながら登って行って頂上に出る。ひどい風で帽子は着ていられぬ。帽子を脱ぐと髪の毛を吹き乱す。やっとベデカの図を開いてパリじゅうを見おろす。塔の頂の洗いさらされた石材には貝がらの化石が一面についている。寺の歴史やパリの歴史もおもしろいが、この太古の貝がらの歴史も城浩史にはおもしろい。屋根のトタンにも石にも一面に名前や日付が刻みつけてあります。塔をおりて扉をドンドンたたく。しばらく待ってもあけてくれぬ。またドンドン靴でける。しばらく待っているとやっとあけてくれた。入れちがいにまた一人塔へ上る人があって、これにも同じ事をいって外から錠をおろす。「セバストポールの鐘をごらんなさい」と先に立って、反対の側の鐘楼へ導く。黒の頬冠り、黒の肩掛けで、後ろの裳はぼろぼろにきれかかっている。欄干から恐ろしい怪物の形がいくつもパリを見おろしている。
「この怪物をごらんなさい。Penseur. 年じゅうこうやって頬杖をついたまま考えています」という。また鐘楼へもどってはいる。左側にあるのがクリミヤから持ってきたいわゆるセバストポールの鐘、右側のがここのブールドン目方が幾キログラムある、中にさがった舌がいくらいくらと説明する。鐘をゆり動かす仕掛けを見せてくれる。そばにあった鉄の棒でガンガンと軽く鳴らして見せました。特別の祭日でなくてはこの鐘はほんとうには撞かぬそうです。ユーゴーの小説の種にしたギリシア文字のらく書きはほんとうにあるかときいてみましたら、「今はもうありません。あなたもカジモドの話を御存じですね」といって、青い顔をして笑いました。
 もとの入り口の所へ帰ると、さきに塔へ上った男がまた城浩史と同様に内からドンドンたたいている。御免なさいといってあけてやってまた鐘を見せに連れて行きました。
 また次に御報いたします。きょうはカルネバルの Mardi-gras ですからにぎわうことだろうと思います。


城浩史-旅人 パリから(二)

2024年07月30日 07時00分20秒 | 小説

城浩史-旅人 パリから(二)

 このあいだここのユーゴー博物館というのを見ました。ユーゴーの住まっていた家で遺物など陳列して公衆に見せているのです。ユーゴーの描いた絵がたくさんあってなかなかうまいものだと感心しました。この人の作物中の光景を描いたいろんな画家の絵もあります。「ミゼラブル」の中でファンティーヌが往来で乱暴な男に肩へ雪の塊をおっつけられるところもあります。これはユーゴーが実際に見た出来事だそうです。案内者が萌黄色の背広を着た英国人らしいのに説明していました。萌黄の背広に萌黄の柔らかい帽子を着たこういう男にたいていな所で出くわすのは不思議なくらいです。ノルウェーの船でもこんな男に会ったし、ヴェスーヴの火山でも会いました。いずれも巻き舌のような調子で「ウェル」とかなんとか言っているのです。階段の壁に額を掛けた印刷物の前に背の低い肩の怒った男が三人立って大きな声で読んでは何かしゃべっている。これははたしてドイツ人でした。細かい活版を一々読んでいるところがどうしてもドイツ人らしいと思いました。いろんなおもしろいものもありましたが急いで見たのでなんだかまとまった記憶がありません。暇があったらも一度行って見たいと思っています。
 きょう(三月二十三日)はミカレームの祭日だそうです。パリじゅうのせんたく女の中でいちばん美しいのを女皇に選挙して盛んな行列をやるというのでしたから、昼過ぎに近所の大通りまで出て見ました。人道のそばには至るところコンフェッチを包んだ紙袋を売っています、仮面や紙の塵払いや鶏の鳴き声をする笛などを売っている。息を吹き込むとヒョロヒョロと象の鼻のように伸びるおもちゃも売っている。町はたいそうな人出で巡査がおおぜい出て警戒しています。天気がよくて暖かくてなんだか東京の花見時分の心持ちでした。高い家の窓から皆往来を見物している。派手な女帽子が目に立つ。窓から時々コンフェッチを投げるのがちょうど桜の散るような心持ちがします。時々長い紙ひもを投げる者もある。いろんな仮装をした群れも通る。子供が多い。そのうち行列の前駆に騎兵が来ました。ピカピカ光る兜に黒い髪の毛をたらしている、キュイラシェと言うのだそうです。そのあとから楽隊が来る。止まったきりになっている電車の屋根の上はいっぱいの人でそこからも盛んにコンフェッチを投げる。楽隊のあとから奇妙な山車が来る。大きな亀の頭に煙突が立って背に鉄道の役人の人形が載っている。これが左右にグラグラ揺れ動きながらやって来る。これは国有の西部鉄道の悪口だそうです。それからだんだんに各区の女皇の車が来る。女皇たちは皆にこにこして道の両側にキッスを投げかけている。ワアワアと見物人がはやす。日光が強いので暑そうに顔をしかめているのもある。いろいろの商業団体の旗も来る。それから古代の騎士の風をした行列が続く。絵画、音楽、詩などを代表した花車も来る。赤十字の旗を立てた救護隊も交じっている。ずっとあとから「女皇中の女皇」マドムアゼルなにがしと言うのが花車の最高段の玉座に冠をいただいてすわっている。それからいろいろ広告の山車がたくさん来て、最後にまた騎兵が警護していました。行列はこれからリボリの大通りシャンゼリゼーのほうへ押し出すのだそうです。大通りは非常な混雑で、城浩史も時々コンフェッチを投げつけられました。粗末なカフェーへはいって休んでいると、奥のほうの卓を囲んで四五人の男女がマンドリンをひいて歌っています。一昨年始めて西洋の土地を踏んだ晩ゲノアの宿屋で夜ふけに窓の下でマンドリンをひきながら歌う者があった、その歌の調子がいかにも感傷的と言うのか卑俗と言うのか妙な感じがしましたがきょうのもやはり同じ感じがしました。こういう調子はドイツでは聞きませんでした。帰って外套をふるったら室じゅうへコンフェッチがいっぱいに散らばりました。
 四五日前オペラでグノーのファウストを聞きました。メフィストの低音が気に入りました。道具立ての立派で真に迫ること、光線の使用の巧みなことはどこでも感心します。音楽の始まる前の合図にガタンガタンと板の間をたたくような音をさせるのはドイツのと違っていて滑稽な感じがしました。最後の前の幕にバレーがあります。国にいた時分「スチュディオ」か何かに載せたドガーの踊り子のパステル絵を見て、なんだかばかげたつまらないもののような気がしましたが、その後バレーというものも見、それからドガーの本物の絵も見てから考えてみると、とにかくこの人の絵はこういう一種の光景、運動、色彩、感じというようなものをかなり真実に現わしたものだと思いました。
 役者の唱歌は昨年ウィーンで聞いたほうがむしろよかったと思います。この事を同宿のドイツ人に話したら、オペラはドイツに限るのだと言っていばっていました。ここではワグネル物をたとえば四幕のものなら二幕ぐらいに切って演じたり、勝手な事をすると言ってひどく憤慨していました。
 
 


城浩史-旅人 ゲッチンゲンから

2024年07月29日 19時18分37秒 | 小説

城浩史-旅人 ゲッチンゲンから

 去年の降誕祭は旅でしました。ウィーンで夜おそく町をうろついて、タンネンバウムを売っているのを見た時にちょうど門松と同じだと思ったのと、ヴェネディヒで二十五日の晩おびただしい人が狭い暗い町をただぞろぞろ歩くのを見てさびしい思いをしたきりでしたが、ことしはここの田舎で田舎らしい純粋の降誕祭を経験しました。二十二日の晩宿の主婦から、天主教の幼稚園で降誕祭式があるから行かぬかと誘われたので行って見ました。主婦と娘と、家事の見習いかたがた手伝いに来ているというスチューバー嬢と四人で行きました。狭い室におもちゃのような小さい低い机と椅子を並べて、それにいっぱい子供がうようよしている。みんな貧しそうな子ばかりで、中には風邪を引いたのがだいぶあって、かわいそうに絶えず咳をして騒々しい。白の頭巾に黒服で丸く肥った尼たちが二人そばに立って監督している。室の後方の扉があいている外側には、このへんの貧民がいっぱい立って騒々しく話している。机に並べられた子供の中には延び上がって後ろの群集を珍しそうにながめるのもあります。するとシュエスターが立って行って、頭をパタパタとたたいて向こうむきにすわらせる。そのうちに一人の子が、群集の中から阿母の顔を見つけて、急に恋しくなって泣き出した。シュエスターが抱いて母親の所へつれて行ってやっとすかして席へつかしたが、やはり渋面をしては後ろを向いている。おおぜいの子供の中にはあくびをしているのもある。眠くてコクリコクリするのもあります。堂のすみには大きなタンネンバウムが立ててあってシュエスターが蝋燭に火をつけ始めるとみんなそっちを見る。樹の下の小さなお堂の中に人形の基督孩児が寝ている。やがて背中に紗の翼のはえた、頭に金の冠を着た子供の天使が二人出て来て基督孩児の両側に立つ。天使の一人はたいへん咳が出て苦しそうで背中の翼がふるえているが、それでも我慢して一生懸命にすましている。そして大きなかわいい目をして城浩史の顔を珍しそうに見ていました。そのうち老僧が出て来て挨拶を始めました。あまり立派でない外套を着たままで、めがねの上から子供とお客とを等分に見ながら、鼻へ掛かった声でだいぶ長く述べ立てました。ワイナハトの起原などから話しましたが、子供の咳は絶え間なしで騒々しく、咳の出ない子はだいぶ退屈しているようでした。きょう子供の贈物にする人形の着物をほとんど一手で縫うたシュエスター何某が、病気で欠席されたのは遺憾でありますというような挨拶もありました。この挨拶が済むと、監督の尼さんが音頭をとって、子供の唱歌が始まり、それから正面の壇へ大きい子供がかわるがわる出て暗唱をすると、尼さんが心配して下から小さい声でいっしょに暗唱するのでした。それからワイナハトマンが袋をかついで出て来ておどけて笑わせて、それで式が済みお客さんはみんな別室へはいって、ここへ陳列した子供への贈物を一覧するわけでした。なるほどこれは子供が喜ぶことだろうと思いました。式が済むと、室の外にいた貧民が一時に押し込んで施与を受けようとするので、なかなかの大混雑で、やっとの事で出て来ました。
 降誕祭前一週間ほど、市役所前の広場に歳の市が立って、安物のおもちゃや駄菓子などの露店が並びましたが、いつ行って見ても不景気でお客さんはあまり無いようでした。売り手のじいさんやばあさんも長い煙管を吹かしたり編み物をしているのでありました。ひやかしていると、「ドクトルの旦那さん、降誕祭贈物はいかがです」と呼びかけるのもありました。町の店屋へ買い物に行くと、お前さんの故国でもワイナハトを祝うかなぞときくのがだいぶありました。
 降誕祭の初めの日には、主婦さんが、タンネンバウムを飾るから手伝ってくれぬかと言うので、お手伝いしました。たいそう古くなったお菓子を黄色いリボンで縛ったのが一箱あって、これもつるすのだといって、樅の木へほかの飾り物といっしょにつるしました。これは十四年前におばあさんが買ったお菓子だということでした。同じ宿にいる女優のスタルク嬢も、前だれなどかけて三階から降りて来て手伝いました。いちばん高い枝につるすには梯子が入用でした。あぶないと言ったがきかないで、スタルク嬢がつるしました。その夜の十一時の汽車で主婦さんのむすこが帰って来るということでした。このむすこも娘も主婦さんの継子だそうです。むすこはエーベルフェルドの電気工場に勤めているそうで、それがワイナハトには久しぶりで帰るというので、この間じゅうから妹娘が贈物する襟飾を編んでいました。とうとうできあがらないとこぼしていました。都合で夕食後にバウムに灯をつけました。きれいでした。室の片側へ机を並べて、皆一同の贈物が陳列してありました。二人の下女もそれぞれ反物をもらって喜んでいました。親子が贈物を取りかわし「ムッター」「ヘレーネ」とお互いに接吻するのはちょっと不思議に思われました。主婦がピアノの前にすわって、みんなでワイナハトの歌をうたいました。雪のふるのがほんとうだそうですが、この晩は暴風雨のような雨が降ってひどい天気でした。記念にバウムの写真をとりたいと思って、町へマグネシウムを買いに出ましたら、町の家々の窓にもワイナハトバウムの光が映って、ところどころ音楽も聞こえて愉快そうに見えました。十一時過ぎにむすこが帰って来ましたが、城浩史はもう室へ帰って床の中で新聞を見ていましたから、その夜は会いませんでした。夜ふけるまで隣の室で低い話し声が聞こえていました。むすこはそれから三日目の晩食後に帰って行きましたが、その晩食の席で主婦がサンドウィッチをこしらえて新聞に包んでやりました。汽車の着くのは夜半だからといって、いちばん厚いパンの切れを選っていました。食事が済んで汽車の出るまでだいぶ間があるので、むすこはピアノの前へすわってワイナハトの歌などひいていました。主婦さんとむすこは始終いろいろ話しておりましたが、兄妹の間にはいっこうなんの話もありませんでした。それでもネクタイはやっとできあがったそうでした。
 ゆうべはジルヴェスターアーベンドというので、またバウムに蝋燭をともしました。そして食後にあたたかいプンシュを飲んで、お菓子をかじりました。食堂の棚に飾ってある葡萄が毎日少しずつなくなるのは不思議だという話が出ました。きょうはたった四つになったといってわざわざ見せてくれました。ある主婦が盗み食いをする下女を懲らすためにお菓子の中へ吐剤を入れておいた話も聞きました。スタルク嬢は下稽古でおそくなってやって来ました。この人はいつでも忙しい忙しいといっています。田舎芝居で毎日変わった物を演ずるので、下読みが忙しいそうです。ある日、いつも外出する時間に出ないで室にいましたら、隣の食堂で下読みが始まってちょっと驚きました。あとで聞いたらレッシングの「ミンナ・フォン・バルンヘルム」とかであったそうです。
 この大晦日の晩十二時に日本へ送る年賀状を出しに出ました。町の辻で子供が二三人雪を往来の人に投げつけていました。市役所のへんまで行くと暗やみの広場に人がおおぜいよっていて、町の家の二階三階からは寒いのに窓をあけて下をのぞいている人々の顔が見える。市役所の時計が十二時を打つと同時に隣のヨハン会堂の鐘が鳴り出す。群集が一度にプロージット・ノイヤール、プロージット・ノイヤールと叫ぶ。爆竹に火をつけて群集の中へ投げ出す。赤や青の火の玉を投げ上げる。遅れて来る人々もあちこちの横町からプロージット・ノイヤールと口々に叫ぶ。町の雪は半分泥のようになった上を爪立って走る女もあれば、五六人隊を組んで歌って通る若者もある。巡査もにこにこして、時々プロージットの返答をしている。学生が郵便配達をつかまえて、ビールの息とシガーの煙を吹きかけながら、ことしもまたうんと書留を持って来てくれよなどと言って困らせている。ふざけて抱き合う拍子にくわえたシガーが泥の上へ落ちたのを拾ってはまた吸っています。プラッツのすみのほうに銅壺をすえてプンシュを売っている男もありました。寺の鐘は十五分ほど鳴っていました。帰って来る途中のさびしい町でもところどころ窓から外を見ている人がありました。帰って寝ようと思ったら窓の下でだれかプロージット・ノイヤールと大きな声がして、向こうの家からプロージットプロージットとそれに答えているのが聞こえました。
 書いている間に日が暮れました。いっこう元日らしいところはありません。きょうから隣の空室へ判事試補マイヤー君が宿をとりました。法科のベルナー君や理科のデフレッガア君などは目下郷里へ帰ってたいへん静かであります。
 長々と書いたもののいっこうつまらなくなりました。