青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

村山橋今昔物語。

2024年02月21日 17時00分00秒 | 長野電鉄

(上信国境を仰ぎ見て@村山~柳原間)

上信国境の雪山をバックに、千曲川に架かる村山橋を越えて行く「ゆけむり号」。長野電鉄の前身、長野電気鉄道が県と共同で事業資金を拠出して建設した道路併用橋です。官営鉄道の走る県都・長野へ向けての鉄道の開通は須坂の街の人々の悲願であったのですが、日本一の長さを誇る千曲川(信濃川)に800mを超える長さの鉄道橋を建設することは当時の長野電気鉄道の財力では容易ではなく、電鉄側が架橋を県に請願した結果、同じような場所に道路橋の建設を計画していた県と利害が一致。「鉄道と県道の併用橋」とすることで県が6割・長野電気鉄道が4割を負担し、大正15年(1926年)に完成したものです。かつて、須坂の街から対岸の柳原村(当時)に渡るためには、千曲川に浮かべた船を板で繋いだ舟橋に頼らざるを得ず、少しの増水でもあっという間に流されてすぐに使えなくなってしまうという貧弱なものだったそうで、河川状況に左右されず通年通行が可能な堅牢な橋梁の建設は、須坂の街の交通事情を大きく変える効果をもたらしました。大正年間に建設され、長年地域の交通を支えて来た村山橋は、経年による老朽化と、大型車両が対面で通行するには幅員がちょっと狭く、歩道もないこともあって、平成21年に道路を4車線化した上で改めて新・村山橋が架橋されました。そうそう、長電ファンと信州の人には常識かもしれませんが、新村山橋も改めて鉄道道路併用橋として建設されたのは面白いところでしょうか。まあ、別々に架橋するよりも手数が少なくて済むというのは大きなメリットか。

ここでかつての村山橋の姿なぞを。平成18年の姿。長野方面に向かう新村山橋の車道だけが架橋されていて、須坂方面は旧村山橋を二車線の一方通行で供用していた過渡期の頃の写真である。こう見ると、かつての村山橋は非常に狭かったんですね。橋を渡って来る2000系のD編成も旧塗装のストライプで、非常に懐かしい。この後の全検で「リンゴ塗装」にされて出てくるわけですが、この時期は「ゆけむり号」導入で湯田中のスイッチバックがなくなり、棒線ホームになった頃だと思う。2000系にも、使わなくなった旧駅舎を改装してオープンした「湯田中温泉・楓の湯」の広告が側面にデカデカと入っていて、少々風趣を削いでいた思い出があります(笑)。

閑話休題。橋の村山側に作られた公園より上信国境の山々を眺める。この日は朝方の山ノ内周辺こそ雲に沈んでいましたが、日中は晴れてポカポカ陽気でありました。志賀高原から菅平に連なる山々、そして日本百名山の四阿山までスカッと見渡せるロケーションに心が躍ります。冬光線を浴びながら須坂へ向かって行く1000系ゆけむりの姿。花道を往く姿が、フラッグシップトレインとしての気品に溢れていて絵になります。


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