青空、ひとりきり

鉄路と旅と温泉と。日々の情景の中を走る地方私鉄を追い掛けています。

夜に舞う 霧か羽虫か 上堀や。

2022年07月30日 23時00分00秒 | 富山地方鉄道

(雨の構内踏切@地鉄上滝線・南富山駅)

この日の地鉄は、夕方からの参戦となってしまった事、雨が降って思うに任せなかった事もあってあまり撮れ高が上がりませんでした。稲荷町をチラッと見たら、既に60形の雷鳥色が4編成ほど入庫済み。回っているのは60形のイロモノと東急・京阪ばかりで、車両運用もパッとしませんでしたね。市内電車のフリーパスで少しだけ乗った不二越線を南富山で下車。乗って来たのも交換するのも京阪30形でした。構内踏切が開くのを待つ傘の姿。

南富山から上滝線の沿線を軽く流しつつ、開業当時からの駅舎が残る上堀の駅に来た。開業は大正10年、富山県営鉄道の駅として建てられた。四隅に庇の出っ張った観音堂的な駅舎が目を引きます。自転車置き場から続く改札脇の緩やかなスロープの植込みはいつもキレイに整えられていて、近所の住民たちが丁寧に駅を守っているようです。駅のシンボルである群青色の駅名標。夜霧のような湿り気を帯びた空気の中、蛍光灯に舞う夏の虫の羽音。

上滝線が立山方面へのメインルートだった頃は、ここ上堀や開発も交換駅だったようで、ホームの反対には暗がりの中で旧ホームが残されています。富山市郊外で周辺の住宅街からの利用者の数はそれなりにいそうではありますが、夜9時を回って駅の利用者もほぼおらず・・・駅に飾り付けられた写真の額縁の数々に、この駅が住民たちに愛されている事を感じつつしっとりとした空気の中でぼんやりとしていると、岩峅寺で折り返した30形が戻って来ました。

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伝統の ツートンカラーは 裏切らない。

2022年07月26日 17時00分00秒 | 富山地方鉄道

(アツアツ、グツグツ、もつ煮込みうどん@富山・糸庄)

西金沢で北鉄からJRに乗り換え、あい鉄の電車で再び富山まで戻った頃には既に夕方になっていました。鶴来の駅で食事でも・・・なんて思ってたところを見事に食いそびれ、とりあえず腹ペコの状態で何かを腹に収めたい気分。駅の立山そば?それじゃありきたり過ぎる、ブラックラーメンかゴーゴーカレーか、それとも売店でますのすしでも買って食べようか・・・なんて考えていたのだけど、ポンと頭にこの店の事を思い出して来てみたのが、富山名物もつ煮込みうどんの「糸庄」さん。アツアツグツグツのモツ煮込みに、ヤワ目のモチモチしたうどんが煮込まれていて暑い中でも栄養満点。小ライスをつけて煮込みライスっぽく食うのもいいし、味の染みたうどんとモツを絡めて食うのもまた美味い。日本中のあらゆるところでモツ煮込みを食って来たけど、うどんと合わせるのもいいですね。控えめに乗っかったチビたエビ天も何気にいいアクセント、そしてうずまきカマボコに感じる富山らしさ。

アツアツの煮込みうどんを啜り、かいた汗を朝菜町の温泉で流すと、富山の街に夕立が降り始めました。この時間から色々と撮り歩こうと思ったのだけど、どうにも気勢を削がれるような本降りの夕立ち。とりあえず市内線のフリーきっぷを買って、西中野からツリカケ単車の人になる。都合よく来てくれた7018号。1両しかない旧塗装の車輛で、地鉄市内線のアイコンのような存在。とりあえず富山に来てこの車両に会えなかったことはないくらいの皆勤賞。1台こっきりなので会えない人は会えないらしいけど、いつでもキミは裏切らない。

電鉄富山・エスタ前で7018号をリリースして暫しスナップ。相変わらず雨は止まず。単車の地鉄標準色がすれ違い。7021号は地鉄高速バスの広告車ですが、すっかり広告は剥がれサイドの行灯も点いておらず広告の意味をなしていない。地鉄の高速バスも、新宿・大阪~富山線などはバス部門の収益の柱だったらしいが、コロナ禍においてご多分に漏れず減便の嵐で、共同運行の会社にゲタを預けたような形になっている。鉄道線のダイヤ同様、バスを含めて地鉄グループ全体が極端にシュリンクしていて、何とも心許ないところ。

大学前から戻って来た7018号、富山駅前電停にて。ここで撮影している限りは雨が凌げるので楽だ。何度も撮影した場所だけど、このカラーリングがいるととりあえず格好がつくような気がする。新幹線の乗り入れ、富山ライトレールとの結節によってワイドに広がった富山市内の都市交通。LRT化によって大きく未来へ向かうその姿の中で、変わらない7018号は、時代の語り部となってあるがままを伝えて行くのでありましょう。オリジナルのツートンカラーは、ミライトヤマ・ムカシトヤマのタイムマシーン。

 

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三方に 劔を磨き 待つ駅舎。

2022年07月24日 10時00分00秒 | 北陸鉄道

(学生列車@北鉄石川線)

土曜日の午後、鶴来方面へ下って行く北鉄電車は、乗客の9割が学生という客層。新西金沢からJR乗り換え組が加わり、ほぼ座席が埋まったような状態で野々市市郊外を下って行く。野々市、馬替、額住宅前、四十万あたりの乗降が多かったですね。ワンマン運転なので、下車する乗客の運賃回収もそこそこ。学生でも定期を持ってない現金客がそれなりにいた辺り、部活の対外試合とか校外練習みたいな理由で電車を使っていた子も多かったのかな。

駅に着いて電車を降りる際、精算に時間のかかる学生さんはあんまり電車に乗り慣れてないと見えて、整理券を引いていなかったり両替をしていなかったり。現金での電車の乗り方って、正直普段から利用してないと今の若年層は分からないかもね・・・思えば自分の子供だって、電車やバスはチャージしたカードで乗るものだと思ってるし、そもそも大抵の子供がキップの買い方なんてのも分からないだろうからなあ。北鉄もバスはICカードが導入されてるんですが、「Ica(アイカ)」と呼ばれる北鉄独自のカードで、いわゆるSuicaのような全国共通のICカードとは互換性がありません。地鉄の「えこまいか」みたいなもんか。鉄道に至っては有人駅しかカードリーダーが置いてないので、ワンマン運転の途中無人駅では、結局現金精算しか方法がないのが現状。

四十万駅を出た辺りから、沿線風景は住宅街から手取川用水によって灌漑された田園地帯に変わって行き、学生の数も徐々に減って来た。田園の中の交換駅、道法寺駅。以前は白山山麓の山襞に沿って、鶴来から先も加賀一の宮から白山下方面へ金名線(きんめいせん)が伸びていたんですが、北鉄石川線の旅ももうすぐ終点。

野町から30分、終点・鶴来駅に到着。この鶴来は、かつては寺井から伸びていた能美線と、手取川の谷に沿って南の山間部に分け入り、白山下まで走っていた金名線の3線が乗り入れた交通の要衝でした。昭和の時代、特に加賀石川で権勢を奮った北陸鉄道、戦後間もない頃は鉄軌道線を合わせて150km弱の路線網を持っていたそうで、羽咋からの能登線、金沢からの金石(かないわ)線・金沢市内線、寺井からの能美(のみ)線、鶴来からの金名(きんめい)線、新小松からの小松線、大聖寺からは山中線、動橋からの山代線、粟津からの粟津線・片山津線が走ってたというのだから恐れ入る。南・北・西と三方の守りを固めていた鶴来の駅は、今でも僅かだけ白山下方面への線路が引き上げ線代わりに残っていて、まだレールが続いているように見えなくもない。そういう意味では終着駅と言う感じの薄い駅です。

木造瓦葺二階建て、北陸鉄道の社紋が燦然と輝く鶴来駅の駅舎。主幹駅らしい流石の風格です。旧鶴来町(現・白山市)の中核駅で、駅前には役場もあります。が、行政の中心点が賑わっているとは必ずしも言えないようで、駅から少し南に離れた金劔宮(きんけんぐう)の周辺に開けた門前町が、鶴来の街としての中心部になるようです。おそらく、この金劔宮の「劔」の部分が「鶴来」の由来なのでしょうね。なかなか時間がなくて街の方まで行ってらんなかったんだけど、めったに来ない町なんだからお社さんくらいにはお参りしても良かったか・・・なんて今更ながら思う。暑いのと腹減ってたので、町まで歩く気力がなかった(笑)。

土曜の午後、静かな鶴来駅前。金名線の廃線跡を辿って、北鉄バスが1日4往復だけ白山下方面へ接続しています。そもそもこの金名線という路線の由来ですが、「金沢と名古屋を結ぶ」という壮大な計画の下に名付けられたんですよねえ。その当時の北陸鉄道がどんだけ鼻息荒かったんだよ!という栄華の時代を偲ぶエピソードの一つにもなっておりますが、実際、両白山地の大山塊を抜けて鉄路を敷設するとして、どういったルートを取ったのだろう?という壮大な未成線計画の夢。今の白山スーパー林道の下あたりを長大トンネルで抜けて白川郷に出て、御母衣湖の湖畔を抜けてひるがの高原から現在の長良川鉄道に接続していたのだろうか。現在は北鉄高速バスが北陸道経由で金沢と名古屋を約3時間半で結んでいますが、東海北陸道回りじゃないのね。

世が世なら、名古屋と金沢を結ぶ大動脈の中間駅となっていたかもしれない鶴来の駅。改札脇に置かれた申し訳程度の展示物が、この駅が手取川流域の交通の要衝だった事を物語っています。急行とか準急の設定もあったんですよね。北鉄。日中のスピードアップを目的に、乗降客の少ない駅をスキップして走るのが準急だったようですが、停車駅が一定しないのと、あんまり速達効果がなかったという事でひっそりと廃止されてしまったそうな。全盛期の150km弱から、今や石川線・浅野川線を全線合わせても20km少々となってしまった北陸鉄道。全盛期なら山中と金沢で2泊くらいしないと乗り切れないくらいの路線があったんだろうけど、今は朝から半日程度でまったりと完乗出来てしまう事が、寂しくもあり。

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忘られし 北鉄孤高の ターミナル。

2022年07月22日 17時00分00秒 | 北陸鉄道

(何の店だ?@野町駅前)

浅野川線の北鉄金沢駅から、北鉄バスに乗り野町駅前方面へ。石川線の始発駅である野町でバスを降りて、駅に向かって歩いて行く道すがらにあったお店。「最中種」と書かれていて、サイチュウシュ?何だ?と暫く何の店なのか分からないで表に回ると、「稲葉工芸種菓子」と染め抜かれた暖簾で、ようやくそれが「最中種(もなかだね)」=最中の中身の餡子とか、その類の菓子材料を作るお店であることを悟ったのでありました。伝統ある加賀百万石の城下町・金沢。和菓子にも繊細な技術があって、目でも味でも楽しめる上質な和菓子が作られています。

武蔵ヶ辻・香林坊方面に向かうバス通りから、一本路地に入ったところにあるのが、北鉄石川線の野町駅。何の路線にも接続していないが故の絶妙な取り残され感と、周辺の旧市街地然とした佇まいに、思わず北鉄の中央弘前だ!と心の中で叫んでしまったよね。昭和の薫りが色濃く残る地方私鉄のターミナルとして、中央弘前は全国一の良物件だと思っているのだけど、ここ野町駅も中央弘前に劣らない魅力と渋さを持ち合わせているように思う。

その昔は、ここから金沢市内線(路面電車)が市内中心部に向かって接続していたそうなのだけど、モータリゼーションの波に押されて市内線が廃止になったのは1967年(昭和42年)のこと。以降、陸の孤島のようになった野町駅からは、今や1時間に1~2本程度のバスが僅かに市内中心部へのアクセスを繋いでいるだけ。まあ、私が降りた野町のバス停(国道沿い)まで歩いてけばバス一杯走ってるみたいなんだけど、昔は北鉄電車と野町駅前からのバス連絡はもうちっと密に行われてたみたいなんですよね。野町駅の乗降客が減少して乗り継ぎ需要が少なくなるにつれ、だんだんその辺りもおざなりになってった、なんて話もある。市内線が廃止されて既に半世紀以上、ようは玉電が廃止されて新玉川線が建設されなかった二子玉川園の世界線みたいな感じの野町駅。そもそももう金沢市街中心部への主要ルートとしての地位は手放してしまったというか、そんな感じで駅は緩慢な衰弱を選んでいる感じもある。

いつ付けられた看板なのか、「速くて安全 北鉄電車 野町~鶴来28分」のキャッチコピー。こう言うのに弱い。何に対抗しているのか良く分からないが、とりあえず鉄道の利便性を必死にアピールしている辺りがいじましい。関西系の私鉄のターミナルに「どこそこまで何分・便利な〇〇電車で!」みたいなキャッチコピーは良く書かれているのだけど、そういう意味では北陸は関西文化な感じはあるね。北陸新幹線が東京と繋がって、大阪と東京への所要時間がともに2時間半とイーブンになった現在、金沢にも徐々に東京文化が染み込んでいるらしいが。

駅前の喫茶店。何ともまあレトロな佇まい。思わずドアを開けて中に入りそうになってしまったが、週末はやってないみたいでした。そもそも現役の喫茶店なのだろうか・・・と言う疑念もあったのだが、食べログには廃業とも書かれていなかったし、たまたま定休だったという事なのだろう。それにしても、「純喫茶・未完成」という店の名前の奥深さよ。人間などどこまで行っても未完成なのだ、という達観の気持ちなのか。目の前の線路に目をやれば、野町より先、香林坊へ延伸する話も長いこと実現出来ず未完成のままだ。

野町の駅に佇む北鉄7000系電車。毎度毎度の東急7000系なのでもはや何も言う事はない。先々月水間で乗ったしな。まあ、原型に近い形の水間と違って、北鉄の7000系は1500V→600Vへの降圧や足回りの履き替えなどもあってだいぶデチューンされてはいるのだが。野町の駅は一応レールもホームも2本ずつありますが、奥側のホームはもう長いこと使われていないようで、ホームには雑草が生え、上屋を支える柱には錆が回っている。先ほど、この野町の駅を「中央弘前みたいだ」と表現したのだが、よく見たら止まってる電車も同じだもんな。そりゃ印象が似通ってしまう訳だよ。

うら寂しく朽ちて行く、野町駅の2番線ホームの柱と看板広告。北陸銀行の行燈型駅名標。もう光らなくなって何年経つのだろう。この北鉄の野町と同じように、弘南の中央弘前、上毛の中央前橋、かつての新潟交通・県庁前、阪堺の恵美須町、熊本電鉄の藤崎宮前などなど、国鉄と直接の関りを持たない中小私鉄の孤高のターミナルというものは、どうしてこうも愛おしくてならないのだろう。駅周辺の街の雰囲気なんかもどこか共通項があるようで、隠しようにも隠し切れない昭和的ノスタルジーが最高だと思う。

昭和のターミナルを、半ば嘗め回すように堪能して駅に入ると、待合室には待ちくたびれた大勢の学生さんたちの顔、顔、顔。既に日中は1時間1本に減便された石川線。ようやく鶴来行きの改札のコールがあって、三々五々と改札口から車内になだれ込んで行く。土曜日の昼下がり、通勤客もおらず、かと言って繁華街へ出る人もいない野町の駅は、石川線沿線へ向かう高校生たちの独壇場。カメラを持って明らかに旅行者然とした自分のいでたちは、明らかにちょっと場違いな感じなのでありますが、ジャージ姿の彼ら彼女らに紛れて、どうにもぬるくて冷房の効きが悪い東急7000の車内にこっそり腰を下ろすのでありました。

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置き換えて 置き換えられて 還暦に。

2022年07月20日 17時00分00秒 | 北陸鉄道

(浅電のとどのつまり@内灘駅)

浅野川線の終着駅・内灘。北鉄金沢からは20分弱。途中駅に有人駅と見受けられる駅はなく、全線で駅員配置があるのは始発の北鉄金沢と内灘だけの様子。駅前のバスロータリーはいかにも郊外電車の終着駅と言った感じの風情で、カマボコ屋根の二階建ての駅舎にはところどころアールがデザインされていて洒落ています。作りとか雰囲気からは、そう古い駅舎じゃないみたいですけど、年月を経たら味が出て来そうな感じ。内灘町は河北潟と日本海に挟まれた金沢市のベッドタウンで、海岸には手取川の砂が打ち寄せられて堆積した内灘砂丘が10kmに亘って続いています。砂地の水はけのよい土地を活かしての畑作が盛んで、らっきょうが名産品なのだそうです。

小ぶりな待合室は冷房が効いていて涼しい。北鉄は、有人駅に関しては完全な列車別改札で、これは浅野川線も石川線も共通でした。到着列車の乗客を全部出してからホームを締め切り、車内清掃や折り返し作業を行って、発車10分前くらいになったら折り返しの電車の改札をするスタイル。このタイプの出改札だと折り返し待ちの時間にホームをウロウロして見学とかが出来ないので、撮り鉄乗り鉄の趣味人には辛いところではあります。たまにあるよねえ列車別改札の地方鉄道。記憶にあるところでは上信電鉄がそうだし、あと養老鉄道もそうだったかな。まあ内灘の場合、改札内にトイレがありますし、職員の皆さんも暑いのか奥に引っ込んだままだったので、入って行っても怒られはしなかったのですけど・・・

改札外から内灘駅全景。ホームは1面1線、その他に留置線が2本と、そこに挟まれるような形で検修庫があります。外側の留置線には、この日にデビューを迎える8800系の井の頭線リバイバル塗装(アイボリーホワイト)が置かれていて、どうやら有志によるデビューイベントが行われているようでした。真ん中の留置線には、縦列駐車の形で元日比谷線の03系の2連が2本。この日の日中は8000系列の2編成による運用でしたが、既に浅電の次世代車両として、元営団03系の導入が進んでいます。

メトロ17000系の導入によって全廃となった営団03系は、18m3ドア車・アルミ車体と言う地方私鉄向きのサイズ感なので、最近になって地方私鉄への転出が進んでいます。既に熊本電鉄や長野電鉄で従来車を置き換えていますが、浅野川線でも現行の井の頭線車両を全部置き換える予定で、既に3編成が入線済み。北鉄入り後は、日比谷線時代のシルバーのラインカラーが北鉄カラーのオレンジに塗り替えられているのですが、平成初期の営団車のスタイルとも相まって、どことなく銀座線で使われていた01系を彷彿とさせる仕上がりとなっているのがポイントでしょうか。全国の地方私鉄で、既存の自社発注車を置き換えた大手私鉄の譲渡車両がそろそろ寿命を迎えつつあり、譲渡車の譲渡車による再更新が検討される時期に差し掛かっているようです。

そんなこんなで、長らく浅電の主力として頑張って来た井の頭線の3000系にも、そろそろお別れの時期が近付いているようです。初期の京王3000系の片側3ドア車ってのはよく見ると裾絞りもなくて、ドタッとスカートまで直線で降りて来るデザインが何ともクラシカル。伊予鉄やアルピコに行ったパノラミックウインドウの後期車と違い、正調湘南2枚窓というのもまた宜しいねえ。それこそ、小さい頃に下北沢の薄暗く小汚い通路を通って小田急から乗り換えて行った先のホームにいた井の頭線っつーかね。「次は何色が来るかな?」という井の頭線的楽しみ、何となく急行はサーモンピンクで各駅停車が水色の事が多かったような気がしますが、往時の「ステンプラカー」と呼ばれていた時代を懐かしく思い出すのであります。

細かいコルゲートを際立たせて、黎明期の東急車輛のクルマらしさを強調した一枚。昭和30年代後半に製造された東急車輛のステンレス三兄弟(東急7000・京王3000・南海6000)の堅牢性と長寿命は驚くべきもので、東急と京王の2系列は全国の地方鉄道に大量に放出されて未だに大多数が現役ですし、南海の6000系列なんかも高野線で未だにバリバリの主力なんですよね。ちなみに、個人的に北鉄に来る機会がここまで遅れたのは、その3つのうち2つ(浅野川線=京王3000・石川線=東急7000)を使ってるから・・・ってのがあったんですよねえ。どうしても自社発注車両が残ってる地鉄とか福鉄と比べると、車両の部分で後回しになってた。特に東急7000とか京王3000とか色んなトコで散々乗ったわ!というのがあったですからね。

内灘の街を出る古参車・8801編成。北鉄の車輛はどの車両もやや大きめでごっついスノープロウを付けているのですが、裾絞りがないタイプの片扉車にはこの大きめのサイズ感がぴったり。裾絞りがあるとスノープロウがはみ出してしまってバランスが取れないような感じになってしまうのでね。照り付ける白い日差しを避けながら、渋谷から吉祥寺へ、金沢から内灘へ。場所は変われど、郊外電車としての生涯を貫き通した60年。長きに亘りめでたく定年まで勤めあげた大先輩である京王3000片扉車の、残り少ない余生にエールを送ります。

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