8月9日、今日は蒲郡市商工観光課主催の[夏休み手織り教室]の日、
今年度の竹島クラフトセンターの事業では唯一の市のイベントとなった。
夏休み手織り教室は春からの新型コロナ感染拡大で開催不可能かと迷ったが、
7月には感染者数も減り非常事態宣言と自粛解除を持って開催を決めた。
織機台数と募集人数を絞り、
教室を屋外タープドーム内にして、通気と3蜜を防いだ開催を決めた。
しかし8月から移動が始まると再び感染拡大となり、神経を使う開催となった。
教室開始は午後1時30分スタート、
屋外の芝生に設置したタープドームに並べた機材の消毒と
2mの距離とマスク装着を守った教室で手織り教室が始まった。
蒲郡市観光商工課の大崎さんの開始の挨拶で始まり
竹島クラフトセンター制作のデザインをベースにして
それぞれ受講者が自由にデザインを考えながら手織りをする
そんなゆるーい手織り教室である。
竹島クラフトセンターのベテランスタッフから、
織物が織れる原理と織機の操作法を学びながら作業は進んでいきます。
「色糸を変える方法を教えて下さい」
「緯糸がすっぽ抜けてしまいました」
一つ一つの質問やトラブルを解決することで織物技術を学んでいきます。
「織物って楽しいです」
と、嬉しいコメントをいただきました。
蒲郡と綿織物の歴史は
”西暦799年三河湾に一人の青年が綿の種が入った壺と一玄の琴を持って上陸した”
これが日本の綿の始まりで、
”青年は地元の人々に棉栽培と糸作りを伝授した”
その後青年は朝廷に招かれて崑崙人だと名乗った。
インドシナ半島南部にあった崑崙王国から
綿の種を持って三河の国福地村に来たのである。
現在、上陸地点の西尾市福地にある天竹神社は
棉祖神として代々祀られ続けて来た。
蒲郡市では古代から絹の養蚕が行われていたが、
室町時代の頃から棉作も盛んに行われた。
綿は火縄銃の縄にも使われて松平家では盛んに棉栽培を奨励した。
江戸時代の平和な時代では三河木綿の三白木綿が有名になり
三河縞も庶民のファッションアイテムとなっていた。
明治時代になり豊田佐吉翁の自動織機の発明と
臥雲辰致のガラ紡機の登場で岡崎は矢作川の水を使って紡績工業が盛んになり
大河のない蒲郡では織物産業が発達したのである
この蒲郡市の夏休み手織り教室の授業では、
受講者はそれぞれが自由な発想で織物を作り出している、
つまり、一つのデザインを元に、四人が四様のデザインを作り出しながら
それも刻々と改良改善をしながら作業をしていて
想像を創造に変えた物作りが始まっています。
「楽しいです!」
その一言が嬉しい
自由な発想が現実化している時、人は快楽を覚える
想像から創造をしている時、夢中になって時間も忘れる、
それがものつくりの醍醐味なのである
細い綿毛を捻ると一本の糸が出来
織物は一本の糸から始まる、
この原理を人類が発見してから何千年と変わっていない
そして未来も織物は変わらない
マイクロプラスチック問題を考えれば天然素材の綿織物は
ますます重要になり、三河地綿の存在は宝となる
私は織物デザインと組織の専門家として蒲郡産地を選んだのは
織物生産種類の多さであった。
小さな町だが町中が繊維産業工場を成していたのだ
”この町なら食いっぱぐれは無い”
そう想わせる町でもあった。
そして、ジャガード織物産地として昭和30年代に飛躍的に伸びて
三河三谷駅のホームにはジャガード織機が山積みされていた。
京都西陣、桐生、岐阜、一宮、八王子、西脇、と並んでに日本有数の
ジャガード織物生産地なのである。
古い時代からの漁業と、蒲郡温泉郷としての観光と、
織物産業と、歴史と文化の特殊性を持った蒲郡である
そんな町の観光の中心竹島竣成苑で蒲郡市民が織物を学ぶイベントが
行われているのである
そして受講者のオンリーワンの作品が次々に完成して来た。
ポーチを仕上げる人、インテリアとして敷物にする人、タペストリーとして使う人、
「私は、タペストリーとして飾った後でポーチを作ります」
などなど、想像と創造が出来る市民が誕生したのである
ものつくりの町、海のまち、温泉のまち、みかんの町、
それらを集合した観光のまち、それが蒲郡である
そして私は繊維人として一人一人を育てる役目がある
今日も4人が芽を出してくれたと確信している。
「出来たー!」
「嬉しい!」
見事な織物が出来ました
おめでとうございます
竹島で完成の喜びの声が上がります。
今日はタープドーム内でも猛烈な暑さのなかで織っていただきました
新型コロナ感染拡大の中で野外での開催となりましたが
無事に終えることができました。
参加してくれた皆さんありがとうございました。