いくらなんでもこれは…。肌の色とか「これがアイヌ人だ」ということでメイクしてるんだろうか。マジなのか。深キョン好きだけど、これはそういう問題ではない。もっと根本的な問題だ。ポスコロ的にとても拙い。こんなことしていいのか…? https://t.co/IeG7PIZKW0
— 少年ブレンダ (@hibari_to_sora) 2018年8月26日
いや、これはNGだろ、いくらなんでも、震撼してしまったぞ。よく出来るな。ヤバいよ、これは。
— 少年ブレンダ (@hibari_to_sora) 2018年8月26日
なにがどう悪いのか―
色々だって言われてるよ。でも、事実的に正しいかっていうよりも、北海道アイヌは「先住民」だったわけで、日本政府はアイヌを迫害してきた。北海道は「植民地」だったわけで、アイヌはその犠牲者でしょう。それをアイヌと縁もない日本人が特殊メイクでアイヌっぽく演じているって…。
— 少年ブレンダ (@hibari_to_sora) 2018年8月26日
「アイヌと縁もない日本人が特殊メイクでアイヌっぽく演じ」るのは、演劇等々の「つくりもの」であるからにはしょうがない「お約束」ではなかろうか。
我々はドラマを見るときにはドラマを見たいのであって、例えばトランスジェンダーの役柄をトランスジェンダーが演じるという政治的正しさを見たいわけではない、のではなかろうか。同様に、アイヌがでてくるドラマを見るときには、ドラマの中で概念的にある人物をアイヌと見做すのであり、別にその当人がアイヌであるかどうかは副次的な課題ではなかろうか。
…突き詰めていけば、「独身男性」をドラマの役柄として使う場合、現実に独身男性である役者を使わなければいけないことになる。
え。これ、肌の色だけじゃないでしょ。髪の毛のウネウネとか、民族衣装も含めてそうでしょ。深キョンだし、あくまでマイルドだけど、アイヌのステレオタイプを日本人がやってる状態だよ。 https://t.co/OorGCZvb5t
— 少年ブレンダ (@hibari_to_sora) 2018年8月26日
日本で作る日本のドラマであり、それは日本のドラマ作成の文脈に従う部分がそりゃあ出る。ステレオタイプとか当然それで、「頬に木炭で三本「ヨゴシ」を入れれば、それは「戦火をくぐりぬけた苦闘のあとである」と見做す」というような歌舞伎文化というかなんというか、なもの。そうした日本的なドラマ作成様式と社会学で扱うステレオタイプの問題とは、多く重なるものの、全同ではあるまい:
ぱっとみて何が問題か判らないかもしれないけど(それも問題だが)、「意味」を考えると、本当に拙いと思うんだが…。なんでこういうのがあっさりまかり通るんだろうか。不思議な国だよ。
— 少年ブレンダ (@hibari_to_sora) 2018年8月26日
そちらの意味だけでは追求しきれない。
ちなみに深キョンの「アイヌのステレオタイプ」の件、レイスと容姿だけの問題ではないぞ。「神秘的な女性」として登場するわけですよ。侵攻や討伐の対象だった民族の女性に「神秘性」とか見出したりして、それを日本人の女性にやらせているという。思いっきりジェンダーの問題ですよね。
— 少年ブレンダ (@hibari_to_sora) 2018年8月26日
こうまで来れば問題の所在はそれなりに理解できる。
しかしまあ、じゃあまあかまわんから、ジェンダー的に正しく、かつ面白い作品でもなんでもつくり出してくださいなーという気は多少する。幾夜大黒堂先生なんかすっげえよな、と思うんだが。
…漫画として面白すぎて、エロ漫画のはずなのにエロ漫画的に読めないというくらいなのは、なんというか、まあ…。
なお上の文章だと深キョン氏の自発性・主体性を無視するのは問題点足りえる。彼女は「やらされ」るだけの受動的存在なのだろうか?と自らに問いかけてみればいい。
これなんかも。フェミニズムの問題系では、明らかに「女性」への「加害者として男性が存在している」にも関わらず、それを「ないこと」にする一面が、一部の男性フェミニストに指摘されているから問題視されている。外国人差別でもそう。「加害者」であることを認めた上で関わればいいと思う。 pic.twitter.com/tDPUkrMhbF
— 少年ブレンダ (@hibari_to_sora) 2018年8月26日
…「フェミニズムの問題系では、明らかに「女性」への「加害者として男性が存在している」」ならば、当然男性にとって女性は加害者として存在することになりかねないし、そもそも女性と男性との和解が原理的に存在していないことになる。それはそれで、問題摘出には有益な視点ではあるものの、常に丸出しにするのはきっつい思想ではある。
というか、あまりにも厳しい批判的態度は自分自身をも解体するので、そこそこで止めておくのが社会生活的には吉。
この例においても、『あるものの見え方・考え方を強制する権力』である自分自身をどう批判するのか、という大問題が発生する。
…どこらへんまで攻めていいのか、大変微妙な舵取りを要求されるものなので、まあ注意するにこしたことはないよなあと。
ともあれ、幾夜大黒堂先生の作品を積極的に買おうと思った今日この頃。
北海道命名150年(吐きそう)で松浦武四郎を持ち上げ、アイヌ版ブラック・フェイス」をやるくらいなら……今からでも中止し、上西晴治の小説を地味でも、きちんと映像化する方向に切り替えるべきだ。松浦武四郎ってコロニアリストそのもの。宇梶剛士が出るので、アイヌ当事者からは批判しづらい模様。
— 岡和田晃_新しい評論単著が出ました (@orionaveugle) 2018年8月25日
このドラマ、「和人の男性」が「アイヌ女性」に旅先で出会ってフォーリンラブ(?)という構造自体が、すでにコロニアルな物語の典型です。ジェンダーを逆にするとか、メインにアイヌの俳優を使うとか、やりようはあるでしょうが、単に「北海道150年」を正当化するイデオロギー装置になっています。
— 岡和田晃_新しい評論単著が出ました (@orionaveugle) 2018年8月27日
こちらのほうは解りやすい。
まあ内容含めてそういう評価にはなろうが、なんというか、ディズニー・ポカホンタスにどれだけ追随できるかとかいう話になるだろうか。私は映像関係、えらく弱くて、適切な例を挙げえないが。
まーその、『ゴールデンカムイ』が成功したので、次の世代には期待しようとか言う感じで。
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