空野雑報

ソマリア中心のアフリカニュース翻訳・紹介がメイン(だった)。南アジア関係ニュースも時折。なお青字は引用。

雑感:アスリート(と、その業績)への共感の是非について

2018-02-21 00:10:25 | Weblog


 相当の反響があったようである。
 極論の一方はこうなるだろう:







 要は江川氏は、偉大なプレーヤーが勝利したのはよいとして、それを見て単に野放図にナショナリズムを爆発させたアホ(と彼女が見做したもの)を見て一言なかるべからず、と思って、そうして一言上げてしまったわけだ。

 やや厳しい言い方をすれば




 この辺りの感覚を持っていない、もしくは薄いのだろう。

 なお私のメインは剣道だったので、オリンピックとかあまり関心はない。外国で剣道教室を見ると嬉しくなるが。サブは陸上(長距離)だったので、夏のオリンピックや駅伝は楽しく見る。

 思うにエリートさんたちは、割と学生時代のスポーツ経験が少ないのではないか。あるいは特に古い世代は、悪い意味で「体育会系」なノリに嫌な思いを抱きすぎたのではないか。そのため、スポーツ関係への共感が薄い・むしろそもそも敵対的になるというパターンがありはしないか。ところが割と多くの人たちは「スポーツで青春」していたりするのである。過半数とはいわんが。

 この点、私は中高時代、(かなり矛盾するが)ギーグでブレイン(ナード)でフリークでフローターで准ジョックといった奇怪な属性で、それなりに雰囲気はつかめる。それなりに。

 そこで思うに、エリートたちは特にスポーツイベントでの共感が薄く、そこで発揮される愛郷心・愛校心水準に根をもつ、それなりに健全なナショナリズムの感覚を理解せず、一気に危険なナショナリズムと同一視・そうした臭いを(のみ)嗅ぎ取って過剰に反応してはいないか、と。



 そして思うに、我々学者もこうしたアスリートたちと、いわば同じ位置にいるのである。この国の諸種の資源の上に、ある局面での訓練の卓越でもって、ほかのひとより余計目に資源を配分されている、という点で。おそらく当然のこの現実をしかと見据えて、我々は責務を果たすべきではなかろうか―と思ってみる。



 学問は国家と関係ない、むしろ日本国家、すくなくとも日本政府とは対決するものだ―と確信して行動する人々もいるようだが、それは単に戦前の関係の裏返しの焼き直しにすぎない。これについてもバランスをとる時期なのかなあと思ったのである。

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