テレビの人へ。「日本人スゴイ!」じゃなくて、「羽生選手すごい! 宇野選手すごい!」だから。
— Shoko Egawa (@amneris84) 2018年2月16日
相当の反響があったようである。
極論の一方はこうなるだろう:
「羽生選手がすごいんだ、お前らは何もすごくない」という個人絶対主義と、「お前が貧乏なのはお前のせいだ、俺たちは何も関係ない」という自己責任社会とは、コインの表と裏なんですよ。片方だけは取れない。
— irr (@IrrTenko) 2018年2月18日
さっきのRTは同感で、「羽生さんはすごい。でも日本とは関係ない」などと言う人が「同じ日本人」だからという理由で困った人を助ける施策に賛成するとしたら、その態度が首尾一貫するのかどうか、疑問を持ちますね。(だいたい、日本選手の活躍ばかり報じるテレビを、どうして観ているのだろう。)
— 玉井克哉(Katsuya TAMAI) (@tamai1961) 2018年2月18日
「羽生さんすごい。あなたの偉業に感動した。本当にありがとう」という個人の偉業をリスペクトする気持ちと、「あなたが置かれた困難なのは分かった。胸が詰まる。何とかしなければならんと思う」という他者への共感は両立するんですよ。 https://t.co/SThCZErppy
— Shoko Egawa (@amneris84) 2018年2月18日
羽生弓弦選手を専ら個人としてリスペクトし彼が日本選手だというのを度外視する方が日本選手に偏った応援をするとすれば一貫しないし、世界の誰にでも等しく共感するのではなく日本国内の被災者や困窮者に偏った「他者への共感」を持つとすれば、それもまた一貫しないと思います。 https://t.co/0bjj1TMgRz
— 玉井克哉(Katsuya TAMAI) (@tamai1961) 2018年2月18日
要は江川氏は、偉大なプレーヤーが勝利したのはよいとして、それを見て単に野放図にナショナリズムを爆発させたアホ(と彼女が見做したもの)を見て一言なかるべからず、と思って、そうして一言上げてしまったわけだ。
やや厳しい言い方をすれば
五輪で金メダルとるような達人だって、空から降ってくるわけでも地から湧いてくるわけでもなく、基本的にはまず国内の競技環境の中から育ち、かつ競技人口が多ければそれだけ揉まれる。国際試合で活躍する人なんていうのは、そういう意味で「日本社会が送り出したもの」という側面は確実にあるよ。
— OGAWA Kandai (@grossherzigkeit) 2018年2月16日
自分も今は仕事にかまけたオッサンで、ろくに稽古してませんが、学生時分、それなりに柔道なんか頑張ってたときは、やっぱり五輪の柔道選手なんか見てて「俺らを代表して行ってくれてるんだなあ(ジーン)」と思ってたし、彼らが勝てばわがことのように嬉しかったですよ。それ否定されちゃかなわんよ。
— OGAWA Kandai (@grossherzigkeit) 2018年2月16日
この辺りの感覚を持っていない、もしくは薄いのだろう。
なお私のメインは剣道だったので、オリンピックとかあまり関心はない。外国で剣道教室を見ると嬉しくなるが。サブは陸上(長距離)だったので、夏のオリンピックや駅伝は楽しく見る。
思うにエリートさんたちは、割と学生時代のスポーツ経験が少ないのではないか。あるいは特に古い世代は、悪い意味で「体育会系」なノリに嫌な思いを抱きすぎたのではないか。そのため、スポーツ関係への共感が薄い・むしろそもそも敵対的になるというパターンがありはしないか。ところが割と多くの人たちは「スポーツで青春」していたりするのである。過半数とはいわんが。
この点、私は中高時代、(かなり矛盾するが)ギーグでブレイン(ナード)でフリークでフローターで准ジョックといった奇怪な属性で、それなりに雰囲気はつかめる。それなりに。
そこで思うに、エリートたちは特にスポーツイベントでの共感が薄く、そこで発揮される愛郷心・愛校心水準に根をもつ、それなりに健全なナショナリズムの感覚を理解せず、一気に危険なナショナリズムと同一視・そうした臭いを(のみ)嗅ぎ取って過剰に反応してはいないか、と。
RT 鍵 >「ナショナリズムが陳腐というのは一面で正しいが、「自分はナショナリズムに熱狂する大衆とは違う」というインテリしぐさも既に陳腐化しているということに気がついていない人が多いようだ」。炯眼な方がお気づきの通り、私は、このオリンピックの成果について、ほとんどツイートしてません。
— 玉井克哉(Katsuya TAMAI) (@tamai1961) 2018年2月18日
そして思うに、我々学者もこうしたアスリートたちと、いわば同じ位置にいるのである。この国の諸種の資源の上に、ある局面での訓練の卓越でもって、ほかのひとより余計目に資源を配分されている、という点で。おそらく当然のこの現実をしかと見据えて、我々は責務を果たすべきではなかろうか―と思ってみる。
第2次大戦時の日本は、国家のために国民は犠牲になるべきという間違ったイデオロギーを展開した。戦後、一部の知識人は、躍起になって戦前を否定するあまり、国益そのものを軽侮した。いま、その誤りを修正して、バランスをとろうとする動きが主流になりつつある。
— 大杉 謙一 (@osugi1967) 2018年2月18日
学問は国家と関係ない、むしろ日本国家、すくなくとも日本政府とは対決するものだ―と確信して行動する人々もいるようだが、それは単に戦前の関係の裏返しの焼き直しにすぎない。これについてもバランスをとる時期なのかなあと思ったのである。
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