東洋経済 LGB「T」をのけ者にする芸能界の"暗黙の了解" 日本ではトランスジェンダーが活躍できない 2018/08/02 7:00 鈴木 みのり
まーなによりまず量の問題かねえという気はするが。
シスジェンダー(WIkipedia日本語版)とは見慣れぬ用語であり、たとえば「シス女性」で検索するとスターウォーズのシスのページが出てくる。語義は
「生まれた時に診断された身体的性別と自分の性同一性が一致し、それに従って生きる人のことをさす」
とのことで、単に「男性」「女性」と言ってしまったほうが経済性が良い。しかもこの場合、「トランスジェンダー性向を持ちながら諸種の事情で性転換の決断・宣言をしない者」を表す言葉がたりず、こうした潜在的な、未トランス男女に対する圧迫になりかねない―という懸念の余地がある。
言語の点で言えば、この「シス男性」「シス女性」というのは、新たなカテゴリが発生したために従来のそれを区別する必要ができて出てきた語で、出来かたとしては「白黒テレビ」と同様である(カラーテレビが登場したために、古いそれを特徴付ける用語が開発された)。
で、「カラーテレビ」という言い方は、実際上全面的にカラーテレビだけになったために、「テレビ」といえば事実上カラーのそれを指すことになった。あえて少数例の白黒のそれを言いあらわすために「白黒テレビ」と形容をつけて言及するのが通例だろう。
そんなわけで、トランスジェンダーなトランス男性・トランス女性は、正直なところ圧倒的な少数派であり(なんでも0.5%ほどとか)、こちらを特徴付けて「トランスXX」と呼ぶにとどめ、特に言及する必要があるときのみ「シスXX」と呼ぶのが文字数的に合理的だろう。上掲記事の2ページ目に曰く
「多くの人が「女/男」と言うとき、「シス女性/シス男性」を指しているし、人を見るときにその人が「女か男か」とジェンダー属性を判断する」
そういう言語の慣例になっており、さていちいち多数派男性・女性をかならず「シス男性・シス女性」と呼ぶべきだという見解であれば、さてこれはどれほど受け入れられるだろう。
…しかもこれ、レズゲイバイは考慮に入れられておらず、あくまでトランスかどうかを基準にしたわけ方であり、トランスの二倍(以上)存在するレズゲイに配慮すれば、初対面のひとが「シス男性好きのシス男性」「シス女性好きのシス男性」(以下略)でなければ個性を尊重した付き合い方はできず、しかしそれを問うことは個人の微妙なパーソナルなことに触れることになるので十二分に十二分をかさねた注意が必要―とかなったらどーするんだ我々、という感も。
さて冒頭言及記事は
「生まれたときに割り当てられた性別から移行する「トランスジェンダー」に対し、移行しない人を「シスジェンダー」という。そして、この社会ではシスが「一般」、トランスは「例外」とされている」
というが、とりあえず私の意識としては、トランスは「少数派」である。たまに・まれにいるっぽいが、はっきりとそう宣言して行動にうつす者はさらに少なく、私の自由を毀損しようとするのでなければまあご勝手に、というあたり。
…まーその、私が反アベ主義者とかを嫌うのは、まさしくそのあたりであり。反アベ主義者は、その見解を押し付けてくるんだ…いや何とか主義者にありがちだが。
ともあれ
「筆者は2016年、高知県に住む演出家からの打診で、「利賀演劇人コンクール」で演劇作品に主演した。筆者がトランス女性であることは、その際、わざわざ観客に明かしていなかった。
課題戯曲の『お國と五平』(谷崎潤一郎作)で筆者が演じたお國は、シス女性だと考えられる」
とあるが、別に考えられるほどのこともないのではなかろうか。
「観客の感想の前提には、筆者への「元男性なのに女として振る舞えることがすごい」という特殊と価値づける視線が伺えた。
事実、多くのトランス女性が日常において、「女より女らしい」という言葉をよく投げかけられると聞く」
そりゃあんた、自分の行動様式において「自分は女である」という自覚を確認するためにどんなギミックを使っているか、とか批判的にチェックしてみればいいんじゃねえのか。
たとえば「元キリスト教徒のイェニチェリであればこそ」みたいな歴史の事例を思い起こして参照例にしてみてもいい。
さて上掲記事の3ページ目に曰く
「日本社会はシスの男女を前提に制度設計されている。トイレや更衣室などさまざまな場面で、トランスが生きやすい環境の整備に積極的に取り組もうとしていない」
制度設計と施設設計との話をごっちゃにしているので微妙にうまくない。施設については、うんまあ、身体障害・知的障害・精神障害をあわせればざっと1000人中60人(6%)であるようで障害児・者数の状況 - 内閣府、彼らに対する一応の手当てがそこそこなされている現状を思うに、トランス男女(障害者の約1/10、0.5%ほど)にも、単純計算で障害者対応の1/10くらいの資源割振があってもいいんじゃないかなあ、というのは社会的合意がとれるのではないか。
上掲記事4ページ目
「だが、シス役とトランス役、そのどちらの選択肢も取れるシスの俳優に対し、トランスはトランス役すら得るのが困難な状況を放置したままでいいとは思えない」
これについては、そもそも作り物を提示する場であるからには、作り物を提示する技量・才能によって取捨選択がなされるのが第一義であり、トランスであるからトランス役を得るべきであるという政治的正しさで押し切るのは無理があるだろう。
これは量の問題でもある。そもそも(社会的に抑圧されているからこそ、かもしれないが)0.5%という低率の発生なのであり、その中に役者の才能がある者が出ても、身長体重年齢…で、現に必要とされる役に適合するかどうか保証の限りで無い。
「ハリウッドでは、トランスが俳優として活躍する場を求める議論や、性差別が蔓延する就労現場の見直しが起きている。こうした動きが日本でもわき起こってほしいと思う」
ではあって、こうした正しさは私も認めるところがあるにせよ、そうした正しさとはやや違った軸で動く運動の世界・空間もあるわけである―芸能界なら、見世物としての有能さが求められもするだろうし。
極論、「私はトランスジェンダーの正義の体現者でありますから、AKBのセンターに立つべきです」という理屈は立たないだろう。別にレズビアンだろうがトランスだろうがAKBのセンターに立って、一向に構わないと私はおもうが、その場合の判定基準は「レズビアンであること」「トランス女性であること」にはなく、「消費者というかファンに対してアピールするかどうか」ではないか。
…いやまあ、AKBの商売自体が性差別的である(若い女の子のイメージを年長の男性へ向けて売りさばいている)という見解はそれなりに首肯すべき点がある。だがあれは若い・幼い女の子達へのアピールも含めていればこそ、多様な顧客確保に成功して生き残っているのではあろうし―
―話によれば、被災地慰問も積極的にこなすグループだとも聞く。
であればこそ、私はAKBに対して敵対的な態度をとらない、という点は確かにある。あと江頭様にも敬意を当然払う。
となると、こうしたLGBT運動がそうした認知を得るためにどれだけのコストをどう支払っているのか―はちょっと、社会運動の一種としては興味深い点がある。
「私たちをみる視線、見え方は~のようであるべきです、そのように革命しましょう」という主張はまあわかる。いやまあ、むっちゃうざがられるだろうが。うんまあ、どう見られたいのかは、文章を読めば多少は理解できる。
では、そういう視線を得るために、どういうコストを支払うのか。
例えば反フクシマ主義者によれば、福島は放射能に汚染されていて、女が子供を産めなくなる土地だとか。そうした事実に反する主張に対して、AKBは福島ツアーを継続していやしないか。この場合、「都会のイシキタカイ系」に見下げられ、見捨てられた我々はどういう態度をとるだろうか?
8/4追記
量の問題、の件。
まーなによりまず量の問題かねえという気はするが。
シスジェンダー(WIkipedia日本語版)とは見慣れぬ用語であり、たとえば「シス女性」で検索するとスターウォーズのシスのページが出てくる。語義は
「生まれた時に診断された身体的性別と自分の性同一性が一致し、それに従って生きる人のことをさす」
とのことで、単に「男性」「女性」と言ってしまったほうが経済性が良い。しかもこの場合、「トランスジェンダー性向を持ちながら諸種の事情で性転換の決断・宣言をしない者」を表す言葉がたりず、こうした潜在的な、未トランス男女に対する圧迫になりかねない―という懸念の余地がある。
言語の点で言えば、この「シス男性」「シス女性」というのは、新たなカテゴリが発生したために従来のそれを区別する必要ができて出てきた語で、出来かたとしては「白黒テレビ」と同様である(カラーテレビが登場したために、古いそれを特徴付ける用語が開発された)。
で、「カラーテレビ」という言い方は、実際上全面的にカラーテレビだけになったために、「テレビ」といえば事実上カラーのそれを指すことになった。あえて少数例の白黒のそれを言いあらわすために「白黒テレビ」と形容をつけて言及するのが通例だろう。
そんなわけで、トランスジェンダーなトランス男性・トランス女性は、正直なところ圧倒的な少数派であり(なんでも0.5%ほどとか)、こちらを特徴付けて「トランスXX」と呼ぶにとどめ、特に言及する必要があるときのみ「シスXX」と呼ぶのが文字数的に合理的だろう。上掲記事の2ページ目に曰く
「多くの人が「女/男」と言うとき、「シス女性/シス男性」を指しているし、人を見るときにその人が「女か男か」とジェンダー属性を判断する」
そういう言語の慣例になっており、さていちいち多数派男性・女性をかならず「シス男性・シス女性」と呼ぶべきだという見解であれば、さてこれはどれほど受け入れられるだろう。
…しかもこれ、レズゲイバイは考慮に入れられておらず、あくまでトランスかどうかを基準にしたわけ方であり、トランスの二倍(以上)存在するレズゲイに配慮すれば、初対面のひとが「シス男性好きのシス男性」「シス女性好きのシス男性」(以下略)でなければ個性を尊重した付き合い方はできず、しかしそれを問うことは個人の微妙なパーソナルなことに触れることになるので十二分に十二分をかさねた注意が必要―とかなったらどーするんだ我々、という感も。
さて冒頭言及記事は
「生まれたときに割り当てられた性別から移行する「トランスジェンダー」に対し、移行しない人を「シスジェンダー」という。そして、この社会ではシスが「一般」、トランスは「例外」とされている」
というが、とりあえず私の意識としては、トランスは「少数派」である。たまに・まれにいるっぽいが、はっきりとそう宣言して行動にうつす者はさらに少なく、私の自由を毀損しようとするのでなければまあご勝手に、というあたり。
…まーその、私が反アベ主義者とかを嫌うのは、まさしくそのあたりであり。反アベ主義者は、その見解を押し付けてくるんだ…いや何とか主義者にありがちだが。
ともあれ
「筆者は2016年、高知県に住む演出家からの打診で、「利賀演劇人コンクール」で演劇作品に主演した。筆者がトランス女性であることは、その際、わざわざ観客に明かしていなかった。
課題戯曲の『お國と五平』(谷崎潤一郎作)で筆者が演じたお國は、シス女性だと考えられる」
とあるが、別に考えられるほどのこともないのではなかろうか。
「観客の感想の前提には、筆者への「元男性なのに女として振る舞えることがすごい」という特殊と価値づける視線が伺えた。
事実、多くのトランス女性が日常において、「女より女らしい」という言葉をよく投げかけられると聞く」
そりゃあんた、自分の行動様式において「自分は女である」という自覚を確認するためにどんなギミックを使っているか、とか批判的にチェックしてみればいいんじゃねえのか。
たとえば「元キリスト教徒のイェニチェリであればこそ」みたいな歴史の事例を思い起こして参照例にしてみてもいい。
さて上掲記事の3ページ目に曰く
「日本社会はシスの男女を前提に制度設計されている。トイレや更衣室などさまざまな場面で、トランスが生きやすい環境の整備に積極的に取り組もうとしていない」
制度設計と施設設計との話をごっちゃにしているので微妙にうまくない。施設については、うんまあ、身体障害・知的障害・精神障害をあわせればざっと1000人中60人(6%)であるようで障害児・者数の状況 - 内閣府、彼らに対する一応の手当てがそこそこなされている現状を思うに、トランス男女(障害者の約1/10、0.5%ほど)にも、単純計算で障害者対応の1/10くらいの資源割振があってもいいんじゃないかなあ、というのは社会的合意がとれるのではないか。
上掲記事4ページ目
「だが、シス役とトランス役、そのどちらの選択肢も取れるシスの俳優に対し、トランスはトランス役すら得るのが困難な状況を放置したままでいいとは思えない」
これについては、そもそも作り物を提示する場であるからには、作り物を提示する技量・才能によって取捨選択がなされるのが第一義であり、トランスであるからトランス役を得るべきであるという政治的正しさで押し切るのは無理があるだろう。
これは量の問題でもある。そもそも(社会的に抑圧されているからこそ、かもしれないが)0.5%という低率の発生なのであり、その中に役者の才能がある者が出ても、身長体重年齢…で、現に必要とされる役に適合するかどうか保証の限りで無い。
「ハリウッドでは、トランスが俳優として活躍する場を求める議論や、性差別が蔓延する就労現場の見直しが起きている。こうした動きが日本でもわき起こってほしいと思う」
ではあって、こうした正しさは私も認めるところがあるにせよ、そうした正しさとはやや違った軸で動く運動の世界・空間もあるわけである―芸能界なら、見世物としての有能さが求められもするだろうし。
極論、「私はトランスジェンダーの正義の体現者でありますから、AKBのセンターに立つべきです」という理屈は立たないだろう。別にレズビアンだろうがトランスだろうがAKBのセンターに立って、一向に構わないと私はおもうが、その場合の判定基準は「レズビアンであること」「トランス女性であること」にはなく、「消費者というかファンに対してアピールするかどうか」ではないか。
…いやまあ、AKBの商売自体が性差別的である(若い女の子のイメージを年長の男性へ向けて売りさばいている)という見解はそれなりに首肯すべき点がある。だがあれは若い・幼い女の子達へのアピールも含めていればこそ、多様な顧客確保に成功して生き残っているのではあろうし―
―話によれば、被災地慰問も積極的にこなすグループだとも聞く。
であればこそ、私はAKBに対して敵対的な態度をとらない、という点は確かにある。あと江頭様にも敬意を当然払う。
となると、こうしたLGBT運動がそうした認知を得るためにどれだけのコストをどう支払っているのか―はちょっと、社会運動の一種としては興味深い点がある。
「私たちをみる視線、見え方は~のようであるべきです、そのように革命しましょう」という主張はまあわかる。いやまあ、むっちゃうざがられるだろうが。うんまあ、どう見られたいのかは、文章を読めば多少は理解できる。
では、そういう視線を得るために、どういうコストを支払うのか。
例えば反フクシマ主義者によれば、福島は放射能に汚染されていて、女が子供を産めなくなる土地だとか。そうした事実に反する主張に対して、AKBは福島ツアーを継続していやしないか。この場合、「都会のイシキタカイ系」に見下げられ、見捨てられた我々はどういう態度をとるだろうか?
8/4追記
アメリカの美大で行われた社会実験。
— 謎水さん (@nazomizusouti) 2018年8月1日
クラスを2グループに分け、
一方は「作品の質は問わない。数を出せば評価する」。
他方は「作品は一点だけ出せ。その質で評価する」としたそうです。
量の問題、の件。
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