日中戦争と太平洋戦争、戦争に明け暮れた挙句の敗戦とその後のアメリカナイズ社会は、旧い日本社会が連綿と守ってきた日本人の誇りを完膚なきまでに粉砕した。
ちょうどその頃に登場したテレビは、娯楽として軽薄な芸能文化を国中に広めたが、人々の日常生活の慰安という点では、空前の効用をもたらした。同時にそれは、大宅壮一が「1億総白痴化」を危惧したとおり、日本人の豊かな情操と知性を退行させるものでもあった。
アメリカの占領政策の要項に「テレビの普及」があったかどうかは知る由もないが、私の少年時代のテレビは、アメリカ製の西部劇やホームドラマがほとんどだった。大人気のプロレス中継も、見ようによっては、白人プロレスラーを叩きのめす力道山の勇姿があってこそのもの、占領政策のひとつ、(被占領国民の慰撫)を目的とする番組であったのかも知れない。
テレビを柱に根付いた戦後の芸能文化の掉尾を飾る歌曲が、折も折、昭和の最後の年、昭和63年(1988年)(注、昭和64年はたった7日間)に発売された。
「私・湘南マタンゴ娘」作曲中村泰士作詞伊藤輝夫。
伊藤輝夫とは、後のテリー伊藤その人である。
マタンゴとは、東宝、本多猪四郎監督のSFホラー映画「マタンゴ(1963)」に登場するキノコ人間である。
「天才たけしの元気が出るテレビ」という番組の中の企画で生まれた歌だと聞いている。
曲が生まれた経緯は詳らかでないが、企画性はあまり感じられず、今聴くと、番組関係者たちのノリを感じる。何よりも、たけしや川崎徹がバカバカしさに照れて閉口しているシーンが遺っている。
真剣に唄っていたのは、歌手を目指す秋田出身の高田暢彦という青年ひとりだけ。彼はこの一曲だけで芸能界から消えた。
昭和は明治に直結していたと言っても言い過ぎではないだろう。大正時代はあまりに短く、病弱な天皇の存在感は無いに等しかった。大正デモクラシーは情緒でしかなく、民衆の精神的支えになるには程遠かった。
その後の昭和は軍国主義の時代。軍民数百万の国民が亡くなり、原爆が広島・長崎に落とされ、無条件降伏という開闢以来の悲劇を国家が招いた。
焦土からの復興は国民を鼓舞したが、肉親と財産を失って虚脱した心はおいそれとは癒されない。
占領下で進んだのは、競輪・競馬の公営ギャンブルとパチンコ、ストリップショウなどに見る大衆の退嬰的な刹那主義だった。そこにテレビの低俗番組が加わった。その延長上に「私・湘南マタンゴ娘」は現れる。
作詞も作曲もレコード会社から産まれたものとは思われない。番組プロデューサーやディレクターたちの悪ノリだけが伝わってくる。
ムード歌謡歌手を目指す高田暢彦と、番組レギュラーで出演していたCMディレクターの川崎徹の異色の組み合わせデュエットも、それ自体がいい加減なものに見える。生粋のテレビマン、川崎徹の「マタンゴ!」という意味不明な掛け声に、当人の忸怩たる心裡(こころうち)を汲み取るのは穿ち過ぎだろうか?
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