道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

国政を任せる人

2022年03月09日 | 随想
人が自分の発想を思考に繋げ、考究を累ねた挙句それを結論に完結して実行したにも拘らず、佳い結果が出なかったときは、そもそもA発想そのものに認識の誤りが紛れ込んでいたか、B思考の回路またはプロセスに故障があったか、のどちらかであるように思う。AB複合しているケースも多いが、それは論外である。
さしづめプーチン大統領のウクライナ侵攻はAということであろうか?ひとり彼だけが誤るのでなく、日本の政治家やアメリカの政治家にも、権限を握り独善に陥った結果、同様の間違いをしでかす人物は数限りなく居る。

民主国家の国民が、国家の権力を委ねる人間を誤り国を危殆に瀕せしめる状況は、20世紀以前と全く変わっていない。
前世紀な失敗を生かしそれを教訓とし、政治制度を正したり補強した国としては、歴史に目を塞がなかったドイツが筆頭に挙げられるであろう。わが国をはじめ、未だ制度と国民の意識の両面で、欠陥を遺し安定に至らない国々も多い。また制度を改変しても、それを反故にするような仕組みが温存され、背反する便法が制度に隠されていれば、その制度は底抜けである。それ故に、不戦を誓う民主的な憲法の確立は、最後の牙城というべきものである。
ロシアのように、権力者の恣意のままサインひとつで法律が乱発される状況は、プーチン政権の憲法の改悪に根があった。

民主主義の制度は、権力者の恣意的憲法解釈や運用を完全に排除する方法を未だ見いだしていない。早め早めに、そのような恣意的な権力者を政治の世界から見つけ出し、彼らを権力行使の場から遠ざけなければならない。

それにはメディアの尽力が不可欠であるが、権力の側は企業体であるメディアの記者たちを懐柔したり籠絡することに長けているから油断できない。メディアの劣化を早く知るには、ソーシャルネットワークによる国民の監視網が機能していることが肝腎で、民主主義にとって集合知というものが重要な意味を持つようになっている。

自説に有利な事件の報道を奇貨として、日頃狎れ合ったメディアに登場しては客観性に欠ける陋見を臆面もなく披瀝したり、とんでもない謬見を御用新聞や雑誌に載せて愧じない政治家や評論家(オピニオンリーダー)が跡を絶たない。

彼らは単なる機会主義者であって、自分の野心を満足させる事件がある度に、己の謬見を正当化する好事案としてそれに飛びつき喧伝する。洵に信念をもたない機会主義者ほど、社会に有害なものはない。

思考が正しく働かないのは、当人に想像力が欠けているからである。
思考の回路は、認識想像で成り立っている。具象の認識は誰でも容易だが、抽象の認識である想像は、頭脳の本質そのものに関わって来る。

思想はでありでなければならない。その思想を行動に適用した結果正義を実現できるものでなければならない。
正義を実現できるどうかは、自他に幸福をもたらすかどうかということに尽きる。人に幸福をもたらさない思想は正しくない。直ちに廃絶しなければならない。

この世に数限りなく生み出される、善良な人々を惑わせ幸福にしない思想というものは、自然消滅を待つのでなく積極的に芽を摘まなくてはならない。そうでないと、新たな思想の芽吹きを妨げてしまう。2000年経っても人々を幸福にしなかった中国の観念主義者の思想は、上記Aの部類に該り、根本に問題があったのである。

人間の基本は情操にあり、情操は人間性の基盤である。情操は個人の日常に顕れる。候補者の情操に着目すれば、その人の人間性を慥かめることは思うほど困難ではない。
選挙で政治家を選ぶときは、彼から一切の権威をとり払って、情操に注視するようにしたい。彼の信奉する思想を知り情操を知れば、自ずと彼がどのような人物であるかが判るだろう。

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