道々の枝折

好奇心の趣くままに、見たこと・聞いたこと・思ったこと・為たこと、そして考えたこと・・・

自律・自立の山登り

2006年12月09日 | 旅・行楽
ある山岳団体の会報に、青年の頃から属していた山岳会を辞めて新たに山岳会を結成し、そこで後進を指導しておられる方の手記が載っていました。

この方の新しい山岳会では、「連れて行く・連れて行ってもらう」登山をいっさい行わない、と会則に定めていたということです。会員が常に自律的に登山することを望み、互いに自立した登山者として行動することを、会の目的に掲げているのです。おそらくこの方が前の山岳会を辞めたのは、「連れて行く・連れて行ってもらう」関係を、断ち切りたかったからでしょう。依存と被依存の関係は、いったん出来上がると、断つことは難しいものです。

一般の社会生活では、「◯◯してやる、◯◯してもらう」という依存・被依存の関係はいたるところで生じるのですが、その関係と方向性が固着してしまうと、双方共に自主性が妨げられ、自律的な人達には窮屈で不自由な人間関係になってしまいます。

「連れて行く・連れて行ってもらう」関係は、ハイキングや行楽などの集団ではごく普通に見受けられます。幹事やリーダーが企画し引率する・・・ごくありふれた、あたりまえの団体行動の形です。単なる遠足や旅行などでは、それでいっこうに構わないのです。山登りを、健康増進や行楽の延長とみなしている中高年登山グループには、この形を当然のこととしている団体が数多く見受けられます。

常に危険と隣り合わせの、自己責任が問われる登山では、メンバー各自の自律自立が極めて大切です。

しかし、安直に誰かに山へ「連れて行って」もらう登山を続けていると、それが習い性となって、山登りの金科玉条ともいえるこの二つの心得を閑却してしまうのです。

山行に関わるあらゆる準備と計画、そして現場での判断に主体性を発揮して登るのでなく、それらを常に「連れ行く」人達に委ねていては、自立した登山などできるようになるはずもありません。

もちろん、初心のうちは、山に馴れた人の指導を受けるのが通例ですが、それがいつのまにか常態となって、固定化してしまうことに問題があります。

適格な山の指導者なら、自らが手ほどきした人達の自立を望み促すでしょう。そうでない場合は、「連れて行く」側にメンバーの自立を望まない、共依存の心理が潜んでいるかもしれません。(自分が連れていかなければ連中には登れない)という自負心と、(自分は頼られている)という自己満足とが、共依存の要因なのです。

今年10月に起きた、白馬岳での中高年7人パーティーの痛ましい遭難事故は、この「連れて行く・連れて行ってもらう」登山に潜む危うさが、現実になった悲劇と言えます。

48歳の男性プロガイドと42歳の女性サブガイドに率いられた、50~60歳代の登山ツアー客5人のうち、4人までもが天候の急変に遭って凍死しました。10時間に及ぶ登歩行のうちの、終盤僅か1時間を、猛吹雪に曝されたための悲惨な結果でした。

引率したプロガイドの登山計画と現場での状況判断が糺されるのは当然でしょうが、原因を激変した気象に求めるのでは、山岳遭難の減少への教訓にはなりません。救助にあたった長野県警山岳遭難救助隊の、以下の指摘は正鵠を射たものと言えましょう。

「今回は、中高年という体力的な問題に加え、天候が急に変化したということも重なった。ツアーでガイドが付いていたが、連れて行ってもらえるんだという気持ちでは、何が起こるか分からない。ガイドがアクシデントに巻き込まれることもある。最終的には自分で判断しなければならないということを、登山者は肝に銘じて欲しい」(岳人 2006年 12月号 95頁より)


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