昔通った小学校の敷地と市の庁舎が面している国道は、昭和20年代の中頃、約1kmの区間を自衛隊が米国製重機を使ってコンクリートで舗装した。まだ市内の土木建設会社には重機がなく、米軍由来の最新の土木技術と重機をもつ自衛隊の工兵部隊が施工を受け持ったのだろう。
初めて見る巨大な米国製のブルドーザーやユンボに、小学生たちは目を見張った。通学の帰途に工事を観覧し、その進捗状態を見守るのが生徒たちの娯しみだった。
アスファルト施工でない、現場打ちの厚いコンクリートの路盤が、国の復興を小学生たちに印象づけた。当時植えられた3m足らずの細いイチョウが、今は立派な並木に成長し街路を彩っている。
工事の数年後には、天竜川に電源開発の佐久間ダムが出来た。戦後の土木・建設立国の先駆けである。
自分の学校の校地が、浜松城の二の丸に当たると知ったのは、卒業して半世紀も経ってからのことだった。学校も知らなかったらしく、それを教えることはなかった。
市内で最初に開校したこの小学校が、時代の要請で廃校になり、校舎が撤去されたのは2年前。企図した目的の準備調査中に、旧城郭の遺構が見つかった。図面が現存せず、存在が不明な天守閣の再建などよりも、こちらの考古学的調査をしっかりやるかどうかで、文化財への市の姿勢が明らかになるだろう。
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