●歩いた日:2016年3月30日(水)
●歩いた所
・松 倉:大川原
・四ツ屋:機織、小又
●歩いたログ(足跡)(道のり5.7km)
(以上の地図:国土地理院)
今回歩いたところの航空写真をご覧いただく。まずはS50年の写真。
この写真を見ると、「大川原」、そして右上の「小又」が島のように浮かんで見える。
右下に「勝田橋」が写る。橋を渡ると左にカーブしてその先の道に続いている。このまっすぐの道は今の道と変わりないと思われるので、橋は現在より上流側に架かっていたことになる。
さらにこの道は、「大川原」の集落の手前で左にカーブして集落の中に入り込んでいる。現在の道は橙色で示したようにまっすぐ延びているので、このカーブした部分が付け替えられ、📷010の写真の道は、この写真からも昔の古い道であることがわかる。
「大川原」集落の西側と左端の「機織」に、まだらのように緑色や、やや濃い茶色の区画の畑が広がっている。この場所は段丘上の台地で、用水を揚げるのが困難なため、一部は開田されているものの、昔から盛んに野菜が作られた場所である。
左下に📷004の、古い道脇に残る「機織」の並木が写る。「機織」と「大川原」の台地の間に三日月状に田んぼが連なっている。田んぼと「機織」側の台地との境が太い黒線になっている。これは高低差が数メートルもある段丘の影で、田んぼのところはかつて「玉川」が流れていたものと考えられる。
本文にも書いたが、「機織」、「小又」、「小又下川原」の大字は「四ツ屋」(明治の立村以前の「四ツ屋村」)である。
水色線左側の細長く延びている区画の部分、「昔の道?」、「松倉堰」に留意していただきながらS23年の写真をご覧いただきたい。
この写真で目立つのは、なんといってもパッチワークのように広がる「大川原」と左端の「機織」の土地である。前の写真で述べたように台地上の畑である。
右下、川を渡る橋は無く、ここは舟の渡し場になっていた。子供の頃、川舟がつながれていたのを見た記憶がある。渡し場から「大川原」の集落に向かう川原の道が写る。集落のすぐ手前で直角に折れているが、S50年写真にもこの部分の道が写っている。この道のすぐ上の木立に四角に囲まれたところは、📷005の大木を写した墓地のようである。大木は写真の木の一本が残ったものと思われる。
水色に引いた線の左側に、細長く黒っぽく写るのは川筋跡の沼のようである。今は埋め立てられてほとんど田んぼになっているが、ここはそんなに古くない時代まで川が流れていたと推測される。
「小又」の北側の一角には、荒れ地のような中に数軒の家が建っている。県道から分かれて歩いた細い道も写る。本文では、この道が現在の県道が通る以前のメインの道かもしれない、と書いたが、道脇に木がないところを見るとどうも違うようだ。
「松倉堰」の流れをたどると、山裾の田んぼの中程を通っている。S50年には田んぼの南側を通っているので、区画整理にあわせて付け替えられたものと思われる。
さて、「大川原」以外の地名の大字が「四ツ屋」であるので、ずっと昔は「玉川」左岸と地続きだったと想定すると、その当時の「玉川」の川筋を推測して描いたのが黄色の線である。「大川原」は川に突き出た半島のような台地に形成された場所と想像されるが、これも誤った推測かも知れないので、念ために書き添えておく。
最後に、以前、「西山」の「姫神山」に登った時のブログに掲載した写真であるが、「玉川」と「松倉」方面がよく写っているので再度ご覧いただきたい。
昨年(H29)の5月2日に写した写真で、この3月に修理してもらった私のパソコンの立ち上げ画面に設定している。
中央を「玉川」が流れ下り、そのすぐ奥の山裾一帯が「松倉」地区である。画面中央辺り、川が青く写る上端に「勝田橋」がかすかに見える。その左、川から少し離れて木立があるところが「大川原」である。
手前に「国道13号線」の「玉川橋」と「奥羽本線」の鉄橋、はるか奥に「駒ヶ岳」と「岩手山」。春真っ盛りの「仙北平野」の眺めである。
(終わり)
●ブログに掲載したログの累計(累計の道のり:301.3km)
累計の道のりが300kmを超えました。まだまだ歩いていないところがいっぱいです。足をいたわりながら頑張ります。
次回は、この3月中旬に歩いた「旧仙北町高梨」を歩いた記事を掲載する予定です。しかし、まだ原稿ができていませんので、アップするまで少し日にちがかかるかもしれませんが、ご了承をお願いいたします。
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