てんちゃんのビックリ箱

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葬式との最初の出会い

2017-12-23 01:11:50 | 昔話・思い出

 私の記憶に残る葬式との出会いは、小学校のときの、おじいさんのものである。その時、私は大失敗をした。

 おじいさんは質実剛健、寡黙を絵に描いたような人であった。その頃本家が有していた広い田畑の世話を、早朝から夕方まで一生懸命やっていた。そして僕たち孫が田畑へでてくると、やさしい顔で適当に相手してくれた。
 また遠くから嫁いできて知り合いのいない私の母の、ただ一人の援軍だったようである。

 そのおじいさんが60歳台で難病にかかり、2年?程度病院や家で寝たきり生活をした後、亡くなった。小学校でもそんなに上の学年でなかったとおもう。
 なくなるだいぶ前から小さい子は遠ざけられていたが、その日いよいよということを子供心に聞いていた(まだ亡くなるということがどういうことか、ちゃんと理解していなかったが)。

 そしてその日先ず指示を受けたのが、散髪に行く事である。
 散髪の間、狭い町だから頭を刈ってくれる人が「どういった状況?」とか話しかけてきたが、実際におじいさんを見ていなかったので、うまく答えられなかった。
 散髪を終わって帰ってみると、亡くなったとの連絡が入っていて、母が大慌てでいろんな物を準備しており、私は渡されたまっさらの服を身にまとった。そして、本家へ出かけるときに、葬式に関わるいろんな注意事項を聞いた。曰く、おとなしくしていること、誰かから声をかけられたら、こう答えること、・・・。

 本家へつくと、葬式の会場作りと煮炊きで近所の人でごった返していた。そして親戚も集まり始めており、僕たち子供は離れへ集められじゃまだからそこから出てこないように言われた。僕の兄弟といとこで数人が集まった。皆小学校低学年である。
 珍しく子供が集まった状況になり、最初は静かにトランプなんかしていたが、すぐ追っかけこみたいなことが始まり、騒いでしかられた。

 通夜が始まるということで、焼香ってのはこうするんだよと指導を受けた後に参加。和尚さんが数人、通夜参加者も大きな座敷2間をつなげても入らない人が集まっていた。窓や縁側が開け放たれ、親族として真ん中にいたためか、ものすごい熱気だった。
 その後食事が振舞われたが、非常に豪勢なもので、アルコールで乱れた人が多かった。葬式は悲しそうにしなさいといわれていたが、こんなものなのかとおもった。

 子供たちは、夜おばあさんたちの御詠歌に付き合わされた後、離れで、子供たち皆で騒ぎながら寝た。

 次の日は、朝のまかないの大騒ぎがあった後、葬儀が実施された。
 前日以上の人が集まった。特に準備等から開放された女性が参加し、悲しさを感じる厳粛な雰囲気だった。
 
 葬列を作る際に、孫たち(私達)で棺を持つかたちをとった後、出発した。そのとき火葬場へ初めて行き、そこで火葬後の全身の骨を見た。こんなばらばらになってしまうのかとおもった。
 おなかの近辺が変な青色や赤色、黄色に染まっており、お世話していた人が、内科系で治療が長かった場合に薬の影響でこのようになるのだと言った。そのときすごく悲しくなった。
 
 火葬場から帰ったその日も、大勢の人にご馳走が振舞われた(多分初7日をやってしまうということだったのだろう)。この子供心にも派手な葬式は、後で考えるに、本家の跡を継いだ見栄っ張りのおじさんが、おじいさんがこつこつためた資産を再配分しきっておまけに借金まで背負ってしまう始まりであったのだろう。通夜よりいっそう座が乱れ、子供たちは早々に喧騒から切り離された。 
 いなかで集まる機会がそれほどなく、そしてずっと寝たっきりだったことから悲しいというよりもしょうがないということで、皆で騒ぐチャンスとなったのかもしれない。

 ここからが私の大失敗である。

 その時夏休みで、毎日絵日記を書くことになっていた。当然お葬式は非常に重要なイベントである。
 私は、おじいさんが亡くなって悲しくなったと書くと同時に、葬式のきれいな祭壇の絵を書き、「お葬式は、祭りのようににぎやかでした。」と書いた。自分でこういった言葉しか浮かばず、素直に書いたつもりだった。

 どういう経緯か、跡継ぎの家のおばさんがそれを知り、母にかんかんに怒ってきた。当然母から私が、次にかんかんに怒られた。その時まで私はいい子として評判だったのが、これで世間知らずとして評価ががた落ちとなった。

 そのおばさんは、跡継ぎの人の最初の妻が病弱のため追い出された後(聞いた話だが)、ともかく健康な人ということで子供が期待され近所から嫁いできた、非常に粗野な人だった。周辺に親戚も多かった。それに対して私の母は、結婚前は学校の先生で、非常に遠くから落下傘のように、その家の一番下の弟(私の父)に嫁いできた。
 期待されながら嫁いできたのに子供ができなかったのに対し母は4人の子供を持ったこと、雰囲気の大きな違いから両者は本当に相性が悪かった。

 このときは私よりも母に、向うの近所の親戚を交えて、非常に強い攻撃が継続的になされた。それを受け止め、かつ私に攻撃がいかないように防いでくれた母、非常に感謝している。
 ともかく母に迷惑をかけたとともに、地域の人間付き合いの難しさ、葬式等のときの言動は注意すべきであるとの認識を、深く心に刻んだ。
 また事あるごとに揶揄される言葉を受け流すやり方も母を見ながら、このとき学んだ。
 
 葬式を おじさんの見栄で あんなに派手にやったら子供がかん違いしてしまうじゃないと、母がおじおばに対して非難めいた口調で、やっと慰めてくれたのは、中学の卒業間際になってからである。


今はなきSNSからの転載。
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