宝治元年八月三日、鎌倉御下向之事。西明寺殿、法名道宗(崇)、依被請申、御下向、やがて受菩薩戒給う、其外之道俗男女、受戒の衆、不知数と云々。
『建撕記』
これは、古写本系統の『建撕記』の1本を引用したものである。それで、何が書いてあるかというと、道元禅師が宝治元年(1247)8月3日に鎌倉に行化されたのだが、その依頼者である北条時頼(最明寺[西明寺]殿)と会談し、やがて(すぐに)菩薩戒を授けられたとし、他にも、僧侶や在家者の男女が、道元禅師から授戒されたというのである。
まぁ、優れた僧侶が近くにおられれば、授戒を希望されるというのは当時よくある話なので、この記述自体には何の違和感も無い。それまで、授戒されるのは貴族が中心だったような気もするが、その文化というか、信仰が武家社会にも浸透してきたということなのだろう。
それで、拙僧が気になったのは、時頼が受けた戒について、わざわざ「菩薩戒」と書いてあることである。上記『建撕記』は15世紀の成立と考えられるが、それ以前に成立したとされる『三祖行業記』『三大尊行状記』でも、同様に「菩薩戒を受けた」と書いてあるのだが、具体的には何だったのだろうか?
やはり、「菩薩戒」といえば、「三聚浄戒」を中心とするので、それを授けたという意味で良いのだろうか?この時、時頼はまだ21歳くらいだったはずで、康元元年(1256)11月には出家するけれども、この時はまだ在家者であり、権力への階段を上る途中でもあった。そうなると、いわゆる「十重禁戒」などは授けられるはずもなく、「三聚浄戒」でフワッと、悪を行わず善を行い、人々を救う、という菩薩道の提示に留まったのかな?という印象も受ける。
そういえば、時頼出家の因縁だが、建長寺開山として招いた蘭渓道隆を戒師として出家し、法名を覚了房道崇と名乗ったという。その際に鎌倉山ノ内の私邸を、最明寺としたという。なお、この時は出家得度だから、いわゆる沙弥戒を受けられたことだろう。
菩薩戒というのは、僧侶が在家者に授けることもあれば、出家者に授けることもある。ただ、その際の儀礼というのが良く分からない。道元禅師の場合『仏祖正伝菩薩戒作法』というのを、中国で如浄禅師から受け嗣いだとされるが、これは出家者向けのものだったはずなので、こういう場合には使わなかったことだろう。
「三聚浄戒」のみをサクッと授ける方法でもあったのかな・・・今日は、宝治元年に道元禅師が鎌倉へ行化するため出立された日だということで、この記事にした。
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