我今盧舎那、方坐蓮華台
上の句は、舎那の本身を明し、下の句は舎那の本土を明す。此れ即ち依正両報なり。
仏身四種、一つには法身と謂い、二つには真応と謂い、三つには法報応と謂う。毘盧遍耀は、正法を身と為し、舎那の行満は、報果を身と為し、釈迦の迹して、赴感を身と為すなり。
〈中略〉我今とは、八自在の我なり。舎那とは無明の塵垢、永く尽きて、智慧の功徳円備すること、浄満月の如し。名を以て徳を表すなり。
方坐蓮華という下の句は、依報を明かす。
方とは正なり、正法に安住するが故に、坐というなり。何故ぞ、蓮華台に坐する世界の形相、蓮華に似たり。故に蓮華蔵と云ふ。
華厳に云く、華下に在て、蓮華に二義あり。穢に処して汚れざる、譬えば舎那の穢に居して染らざるなり。
蔵とは、十方法界を包含して、悉く中に在るなり。
台とは、中なり。因能く果を起こすことを表す故に、台に譬えるなり。
又た、本仏の華台に坐するを以て、戒は是れ衆徳の本なることを表すなり。
天台智顗『菩薩戒経義疏』巻上
まず、「我今盧舎那、方坐蓮華臺」について、上の句を「盧舎那仏の本身」であるとしている。つまりは、「我今」と言及することで表詮される本身である。一方で、下の句を「盧舎那仏の本土」であるとしている。つまりは、盧舎那仏が在す仏土の表現である。よって、この二句の全体は、盧舎那仏の依正二報である。
また、盧舎那仏の仏身のあり方については、毘盧遮那仏は正法を身としており、行満した盧舎那仏は報を身としており、釈迦牟尼仏は感に向かって趣くことを身となす。つまりは、釈迦牟尼仏は衆生の苦悩に合わせて示現することを示しているのだろう。
それから、「我今」とは、「八自在の我」だという指摘なのだが、結局は如来の徳を示す言葉であり、定義というか内容は、かなり多くの種類があるようで、古くは大乗『大般涅槃経』などに見える。実際、智顗がどこを指しているのか?当方には推測は出来るが、確定は不能。勉強量が足りなすぎるため。
さて、「舎那」というのは、無明が尽きて智慧の功徳が円備することである。それは、浄満月のようなものだというのだが、「毘盧遮那」とは太陽に喩えられるので、何故「満月?」とは思うが、良く分からない。
下の句の「方坐蓮華台」について、既に論じた通り、盧舎那仏の仏土を指すが、特に正法に安住するとし、安住をもって「坐」としている。そして、「蓮華台」は、盧舎那仏が在す場所の形が、蓮華に似ているからこそ「蓮華蔵」という。蓮華の意義については『華厳経』から引いて、このような娑婆世界にあっても、正法が汚染されることがないことをいう。
また、蔵とは、全ての世界が盧舎那仏の蓮華台中にあることを指し、その中央部分を「台」という。よって、蓮華台とは、盧舎那仏が包摂した全ての世界の中心を指す。そして、その中央に在す本仏である盧舎那仏が坐し、戒をもってあらゆる徳の根本であることを示している。
よって、この句は盧舎那仏の実態を示したものであることが理解出来よう。
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