如来の滅後、戒を以て師と為す。出家・在家、七衆の弟子、誰か仰がざらんや。
十誦律に云く、又た諸比丘毘尼を廃学して、便ち修多羅・阿毘曇を読誦するを、世尊種種に呵責す。毘尼有るに由りて、仏法世に住す〈云云〉。
此の如きの文、幾許なるかを知らず。然而、時を追うて漸衰するは、必然の理なり。我も暗く、人も暗し。学ばず、持さず。但だ八宗相い分かれての後、三学互いに異なるの中、御寺昔より、二宗を相伝す。東西の堂衆は、則ち其の律家なり。鑑真和尚を以て祖師と為し、曇無徳部を以て本教と為す。
『日本大蔵経』「律部二」巻・491頁上段、原漢文
さて、この一節を読み解いてみたいのだが、如来の滅後、戒をもって師となすというのは、諸涅槃経系の経典に示されることで、例えば、『遺教経』などでも見られることだ。おそらく、その辺を受けている主張であろう。
その上で、貞慶上人が引用したのは、『十誦律』であった。同律の巻34「八法中臥具法第七」に見える一節を要約したものかと思ったが、直接に参照されたのは、南山道宣『曇無徳部四分律刪補随機羯磨』巻下「雑法住持篇第十」であったようだ。要するに、比丘が毘尼(律)への学びを廃し、修多羅(経典)と阿毘曇(論書)等ばかりを読んでいたのを、世尊は種々に叱りつけたという。理由としては、律があるからこそ、仏法が世に住するという主張を受けるためであった。
そして、貞慶上人は、このような文章は色々と存在しているけれども、時代に応じて仏法が衰えていくのは必然であるという。この辺は、いわゆる末法思想の影響といえよう。そのため、貞慶聖人自身も、よく戒律を学んでいないし、持戒してもいないと述懐している。ただし、奈良仏教・平安仏教と日本での宗派は八宗に分かれ、各宗派の教理体系の上で、三学(戒定慧)の位置付けが互いに違うけれども、御寺(東大寺)では、昔から二宗を相伝しているという。これは、律宗と華厳宗のことであろうか。
特に律宗については、鑑真和上を祖師とし、曇無徳部に依っているという。曇無徳部というのは、一般的には「法蔵部」とも呼ばれ、いわゆる『四分律』は同部の律蔵であるとされる。先ほども述べたように、南山道宣の著作に「曇無徳部四分律」云々と名前が付いたものが見られ、しかもそれを、貞慶上人自身が引用されているとすれば、部派と律蔵との関係について、基本的な理解がそこにあったということになるのだろう。
上記内容は、仏教に於ける戒律の重要度と、日本に於ける相伝を確認した程度だが、貞慶上人がどのように戒律の興行を目指していくのかは、次回以降の記事で見ていきたい。
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