その前に、今日扱うテーマだが、既に前回までの記事で申し上げてきた通り、盂蘭盆会の基本は食供養(施食)であり、しかも自恣をした僧侶たち(大衆)を供養するというものであった。そうなると、一つ疑問が出てくる。もし、僧侶が身近にいない場合はどうするのか?あるいは、明治時代以降には菩提寺を持たない人も増えたわけで、当然に知り合いの僧侶がいないケースも一気に増加したものと思われる。
それを考えるときに、今日の問題が出てくるのである。
◎問ふ、僧すらなき所、如何ぞ仏法を請すべきや
○答ふ、今ま謂ふ所の仏とは肉身の仏にあらず、僧と云ふも亦肉身の僧にあらず、今ま請せる所の仏と云ふは盂蘭盆教主釈迦文仏なれども、仏心は一体なるが故に何れの仏を請するも同様なり、人々有縁の仏を請すれば可なり、又は十方諸仏と念ずるも好し、法と云ふは何経にても妨げなけれども、盂蘭盆経を好しとす、僧と云ふは声聞縁覚菩薩の三乗に通ずるが故に、別しては目連尊者、総じては一切の羅漢一切の菩薩を請すべし、地蔵観音も皆是僧なり、故に十方三宝と念ずるときは、悉く其冥加を蒙むるなり、去れば木像画像の仏、黄巻赤軸の経呪を並べなくとも、施主の心中に深く三宝を念ずるを肝要とす、其上有形の仏法僧をも請して可なり、若しそれも無きときは無形の三宝を己れが一心の中に請すべし
『盆の由来』第二十問答・25頁
そこで、高田先生の答えだが、いわゆる「理の三宝」とでもいうべき内容を提唱しておられる。一応、三宝とは「仏法僧」のことだが、上記では望ましい存在として、「盂蘭盆教主(盂蘭盆経を説いた仏陀)」たる釈尊、法は「盂蘭盆経」、僧は目連尊者が望ましいが、どなたでも良いとされているが、しかし、中々難しい。
よって、心の中で「十方三宝」と念じ、「理の三宝」を拝請すべきだとしたのである。しかも、その際には木像画像の仏、黄巻赤軸の経巻でなくても良いとしているのである。その辺、道元禅師は以下のように示されたことがあった。
一日示云、人は必陰徳を可修。必冥加顕益有るなり。たとい泥木塑像の麁悪なりとも、仏像をば可敬礼。黄紙朱軸の荒品なりとも、経教をば可帰敬。破戒無慚の僧侶なりとも僧躰をば可信仰。内心に信心をもて敬礼すれば、必顕福を蒙なり。破戒無慚の僧なれば、疎相麁品の経なればとて、不信無礼なれば必罰を被也。しかあるべき如来の遺法にて、人天の福分となりたる仏像・経卷・僧侶なり。故に帰敬すれば益あり、不信なれば罪を受るなり。何に希有に浅増くとも、三宝の境界をば可恭敬也。
『正法眼蔵随聞記』巻4
このように、道元禅師はどのような見た目の三宝であっても、敬礼しなければならないと示されている。一方で、不信であれば罰を受けるともしている。それほどに、信・不信は大切なことである。
さて、高田先生はこの道元禅師の教えに見えるような三宝すらおられない状況での供養を示そうとしておられる。続く問答を見ておきたい。
◎問ふ、別に其式法ありや、あらば之を示せ
○答ふ、有り盂蘭盆献供の法あり、それは別に出版することもあるべし、されども茲に聊かその大概を示さむ
△盂蘭盆略式作法
先づ盆供台を架すること長け三尺に過ぐべからず
壇の正面に仏像を安置し、其前に盂蘭盆経を置き、其前に香炉を置くべし、左右に飲食洗米果物洒水花皿、及び立花灯明、或は父母祖先の位牌等を列ぬるなり
而して東西南北中央に五如来の紙幡を立つべし、而して鼠尾草(ミソハギ)を用ひて水を聖霊に洒ぐべし、或は梅枝を以て洒ぐも好し、 其時唱ふることあり
今浴法水浄諸根。八功徳水当知是。
実相一味清浄水。皆除一切煩悩垢。
次に五如来の書方は左の如し
○南無妙色身如来、破醜陋形円満相好(青色なり)
○南無甘露王如来、灌法身心令受快楽(白色なり)
○南無多宝如来、除慳貪業福智円満(赤色なり)
○南無離怖畏如来、恐怖悉除離餓鬼趣(黒色なり)
○南無広博身如来、咽喉広大飲食充飽(黄色なり)
右の如くにして、或は三宝を念じ、或は懺悔の文を唱へ、或は念仏し、或は題目、或は盂蘭盆経を読み、或は余経神咒を誦するもよし、或は回向の文を読むべし、此外目連尊者が亡母を救ひ玉ふ所の画像を掛けて祭ることもあり、又荷葉の中に飲食及び美味珍物を盛りて備ふるもよし、そして後になりたらば、其供物等は地上又は水中に投ずべし、餓鬼は卑劣のものなるが故に、此の如き作法を行ふと雖も、我心に甘露の大施門開かざれば、畢竟労して功なし、一心の施門開くるときは、法界の餓鬼は皆な飽満して大歓喜を生ずべきこと疑ひなし、故に父母劬労の大恩に報せむと欲するものは、必ず年々七月十五日に此法を修して怠るべからず
前掲同著・第二十一問答・25~27頁
これは、曹洞宗の施食会で用いられる『甘露門』を非常に簡略化させたもので、施食棚(精霊棚)を作り、五如来を拝請して、読経などを促す内容である。これは勿論、誰も呼べる僧侶がいない場合の方便としてのやり方で、拙僧も紹介はしたものの、決して推奨しているわけでは無い。何故ならば、例えば僧侶への布施ということも、本来であれば必要な善行だと信じているためである。
今回の連載で取り上げているように、「盂蘭盆会」というのは僧侶への供養が主であるべきだ。上記内容では、あくまでも仏陀への供養のみが主となってしまう。そこに違和感を感じるのである。
ところで、末尾に江戸時代の学僧・面山瑞方禅師が詠まれた盂蘭盆会の偈頌を参究しておきたい。
盂蘭盆薦抜偈
目連の救母好因縁、力を励まして須く耕すべし三福田、
法界の群生皆な考妣、一時に安住す浄心の蓮。
『永福面山和尚広録』巻8
簡単に解説しておくと、目連の母を救った素晴らしい因縁こそが盂蘭盆会である、衆生は力を尽くして必ずや三福田を耕すべきである。法界の生きとし生けるものは、皆亡き父・亡き母である、この供養を通して一時に浄心の蓮に安住されるのだ、とでも出来ようか。まずは、この短期連載を10回分示して、今年の学びの結果としておきたい。
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