師、永明の道場に居すること十五載、弟子一千七百人を度す。開宝七年、天台山に入りて戒を度すは、約めて万余人なり。常に七衆の与に菩薩戒を受く。
『景徳伝灯録』巻26
これは、永明延寿(904~976)の伝記を示す一節であるが、天台山に入った後で、大変に多くの弟子達を導き、戒を授けて出家させたことが分かる。そして、出家以外にも、「七衆」のために菩薩戒を授けたという。
ここには、慎重な理解が必要である。特に、日本では多くの宗派が、菩薩戒のみで出家に至ると考える場合があるのだが、中国では基本、出家は沙弥戒と比丘戒とで行われており、菩薩戒にはそこまでの機能が求められていなかった。
そのため、ここで「常に七衆の与に菩薩戒を受く」というのは、「七衆」の一々について、菩薩以外から菩薩にするための役割が求められていた。いわば、大乗仏教の修行者に立場を変えさせたのである。この辺について、延寿は以下のように述べたことがある。
貞観十一年、四月三日、寺の後の松林に在りて坐禅す。三人有りて来るを見る。形貌、奇異なり。礼拝して菩薩戒を受けることを請し訖りて曰く、禅師、大利根なり。若し改心して大乗を信ぜざれば、千仏の出世するとも、猶お地獄に在り。
『宗鏡録』巻93
ここで、大乗仏教を信じることが、地獄を脱するという救済への将来を企図していることが分かる。そして、そのための受菩薩戒への希望ということなのだろう。無論、ここで受菩薩戒を希望している存在が、人間であるとは限らないのだが、しかし、「七衆」を含めて、諸存在に菩薩戒を許すのが、1つの特長ではある。
仏言わく、仏子よ、人の与に受戒せしむる時は、一切の国王・王子・大臣・百官、比丘・比丘尼、信男・信女、婬男・婬女、十八梵天、六欲天子、無根・二根、黄門、、一切の鬼神を簡択することを得ざれ。尽く戒を受け得しめよ。
『梵網経』下巻「第四十摂化漏失戒」
以上の通りである。人間以外の存在である鬼神などでも、受菩薩戒の対象になるのである。上記の一節からでは、菩薩戒を受けて、大乗の菩薩という位置になることは示すが、その価値が明示されているとはならない。とはいえ、「大乗を学ぶ価値」については、『梵網経』でも明示されている。
何度もいうが、菩薩戒を受ける価値の最大のものは、菩薩になることである。この菩薩とは、従来の出家/在家という枠組みとは、直接の関わりが無い。よって、出家菩薩も在家菩薩も存在する。とはいえ、学ぶことは大乗仏教である。大乗を学ぶことで、救済への未来が約束されるとすれば、それが重要だったのである。
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