ただし、禅が日本文化に影響しているという時、どの辺りが期待されていたのだろうか。気になった一節を紹介しておきたい。例えば、大拙居士は日本文化における禅宗が果たした役割の源泉を、以下のように指摘する。
一、禅は精神に焦点をおく結果、形式を無視する。
二、すなわち、禅はいかなる種類の形式のなかにも精神の厳存をさぐりあてる。
三、形式の不十分、不完全なる事によって、精神がいっそう表われるとされる。形式の完全は人の注意を形式に向けやすくし、内部の真実そのものに向けがたくするからである。
四、形式主義、慣例主義、儀礼主義を否定する結果、精神はまったく裸出してきて、その孤絶性、孤独性に還る。
〈五、以下略〉
大拙居士『禅と日本文化』10頁
こういう文章について、確かに多くの類似した見解を見てきたのだが、果たして禅とはここまで「精神に焦点をおく」ものだったり、「形式を無視」したりするものなのだろうか?ということである。ただし、急いで註記をしておくと、精神性に注目すること自体、起こり得ることだとは思う。例えば、唐の時代の禅の中には、悟りを重視する余りに、修行などを否定する場合がある。
それらを思う時、確かにここでいう精神に重きを置いて、形式を無視することになるかもしれないとは思う。
ただし、中国禅でも、五代十国の時代を過ぎて、宋朝禅にまで入ってくると、「清規」の整備も進み、修行にも形式が採り入れられるようになってくる。これを、精神性の後退と見るべきか、それとも、物心両面を重視したと肯定するか、この辺の対処の仕方で、大拙居士の見解への可否も分かれてくると思う。
当方などは、近年、仏教の戒律を学ぶ機会を得て、形式を無視した精神性のみの強調に疑問を持っている。ただし、上記に引いた文章の通りで、大拙居士も形式を一概に否定しているわけでもないとは思う。何故ならば、形式を肯定しつつ、精神の厳存を探り当てることを禅だとしており、更には、形式自体にも、その完成・完全が精神性を阻害することを指摘しつつ、「形式主義・慣例主義・儀礼主義」を否定することによって、精神性が裸出するとしているからである。
ただ、どこかやはり、精神性を重視していることに、当方では疑問を持つ。もちろん、形式・慣例・儀礼が一種の固着化したイデオロギーになった場合の問題はあると思う。とはいえ、裸出してきた精神に、どこまでの価値があるのか?というと、ここにも疑問を持たざるを得ない。それは、形式によって精神は初めて形を得ることで、現在化するからである。
つまり、形式や儀礼を通して、初めて「功夫」や「鍛錬」といった要素の介入を認め、その結果、精神はより鍛えられるともいえる。そしてその鍛えられた精神によって、より形式や儀礼は洗練される。ここで話を「文化」に置いてみると、文化とはこの「形式」や「儀礼」を通して、初めて現在化し、その結果、我々にとって認識される。その形式の中に精神性を感じ取ることもあるとは思うが、まずは形式などがなければ、受け継いでいくことも出来ないし、その文化に参入したりすることも出来ない。
以上の結果、この記事で言いたいことがだいたいまとまってきたのだが、禅には精神のみを重視した時代もあれば、物心両面を重視した時代もあると思われる。ただし、日本で何らかの文化的展開に禅が寄与したとすれば、物心両面を重視した時代、つまりは宋朝禅の導入の結果だと言える。
もちろん、一方で形式をただの束縛と見て、それからの離脱を理想とする考えもある。寒山・拾得のような仙人を慕う傾向はその一例であろう。とはいえ、やはり彼らは理想でしかない。現実を相対化するための手段としての讃歎はあり得るが、それ以上でも以下でもない。そして繰り返すが、文化はこの現実に於いて形作られ、維持され、参入される。それを精神性をもって相対化しようとしても意味は無い。
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