つらつら日暮らし

『宝物集』に見る持戒について

『宝物集』という文献は、平安時代末期の平康頼によって書かれた仏教典籍であるが、非常に独特な内容であり、しかも、その後にも多くの影響を与えたと思われるのである。本書には阿弥陀仏のおわします極楽浄土に往生するための、「十二門」が立てられている。そして、その中に「第三 戒をたもち仏になるべし」という一門では、冒頭に以下のように戒を護持する功徳を説く。

 如来の禁戒の城にいりぬれば、見思・塵沙・三毒・五蓋・十使・九十八煩悩・八万四千の悪業のいくさ、若干の勢をおこしてせめ来るといへども、またくおとさるゝ事なし。
 このゆへに、梵網経は、「持戒の人は、浄土人天の報をうく」といへり。
    岩波新古典文学大系『宝物集(他)』193頁


それで、ここで引用されている『梵網経』だが、現行よく知られている文献からではよく分からない。どうも、同じ文脈は無いようである。『大乗義章』巻14には、似たような文脈があるようだけれども、別段『梵網経』からとしているわけでもない。よって、繰り返しになるが、よく分からないということになる。

さて、続いて以下の指摘がある。

 戒のさま、ひろく申さば、菩薩戒より沙弥戒にいたるまで、八万の律儀、三千の威儀、四十八軽、三聚浄戒、十種得戒、八斎戒なんども侍れども、仏、妙海大王のために十戒をおしへ、提謂長者がためには五戒をさづけ給ふ。かるがゆへに、先しばらく、五戒のありさまを申侍るべきなり。
 五戒と云は、殺生・偸盗・邪婬・飲酒・妄語を申たるなり。
    前掲同著・193~194頁


本書について、確かに著者の平康頼本人は入道の人であったけれども、基本としては浄土信仰を持つ在家者向けに書かれたものであるらしく、上記のような教えが見える。要は、戒には様々な種類があるけれども、ここでは「五戒」のみを採り上げたいと語っているのである。

そして、後は五戒の一々について、インド以来の仏典や、中国・日本の諸説話などを採り入れつつ議論しているのだけれども、基本としては、持戒を実践することで、良い功徳が得られる、或いは実践出来なければ、その反対で悪い報いが来るという、善因善果・悪因悪果という立場を堅持したものであり、そこにはそれほど思想的な独自性が見られない。

ところで、「第五不妄語」に関連して、興味深い指摘がある。

ちかくは、紫式部が虚言をもつて源氏物語をつくりたる罪によりて、地獄におちて苦患しのびがたきよし、人の夢にみえたりけりとて、歌よみどものよりあひて、一日経かきて、供養しけるは、おぼえ給ふらんものを。
    前掲同著・229頁


なんと、紫式部はあのような「物語」を作ったことが、「虚言」と見做されて、妄語罪となり地獄に堕ちたという話があったらしい。恐ろしい話である。こうなると、現代的なフィクションを書く人も全滅する気がする。式部の場合は、一日経供養をして貰ったらしいが・・・

なお、持戒が出来なくて罪を作ってしまった場合、その罪を懺悔して仏道に入るという方法もあるという。それについては、また別の記事で採り上げておきたい。

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