第十談の終わりで次談は「(招魂社☛靖國神社②)を書くとしたが、此のシリーズは明治維新の史実の断片を悉く明らかにするものでは無く、「安倍晋三の出自を暴く」為に欠かせぬ事実の実証を綴るものなので、其の一環としての史実が靖国神社の前進が「招魂社」で在ったということである。
前段で言いたかったことは、「『靖国神社』は元々長州藩の志士達が大陸や半島の「招魂」と言う精神文化を持ち続けていたことから造られていたもので、明治維新が薩長の在日先住朝鮮族達が中枢に成って行われた。」と言うことを分かって貰う為に書いた一談である。「東京招魂社」から「靖国神社」に変わったのは明治八年に成ってからで、その経緯と「靖国神社」に関する様々な逸話は各自調べて戴きたい。
東洋史の権威である故宮崎市定翁の「幕末の攘夷論と開国論ー佐久間象山暗殺の背景ー」(『古代大和朝廷』筑摩学芸文庫所収、1995年、340-355頁)には、亜細亜史の俯瞰に基づく「長州史観」である論考があったので、その抜粋と我の勝手な解釈を☟に書き現す。
「日本の幕末維新史は、長い間、いわゆる明治の元勲たちの圧迫をうけて、非常にゆがんだ形で述べられてきた。戦後になって自由な研究が許されるようになったといっても、一度ゆがんだ形はなかなか真の姿が取り戻せない。・・・・・ なにゆえに薩長二藩の財政が豊富であったかと言えば、皮肉にも、それは幕府の鎖国政策の結果であったのである。・・・経済統制は、きびしければきびしいほど、密貿易の利益はそれに比例して多くなるものである。この密貿易を挙藩一致して大々的に行ったのが、実に薩摩と長州とであった。…
…長州は朝鮮に近い。… 朝鮮貿易の実利をつかむのは長州であった。…
開国が実現されれば、彼らの密貿易の利益は当然なくなってしまう。
薩長を中心とする利己的な、きたない攘夷論であって、その本音は自分たちの密貿易の利益を温存するにあった。 …幕府の開国体制をくつがえさなければならない。これが薩摩と長州とに利害の共通した立場であり … 自明の理であったのである。… そこであらたな意味を持った攘夷運動は、薩長二藩によって、全力をあげて展開され、執拗に継続されたのである。さいわいに二藩は当分の間、幕府も及ばないほど財政面に余裕がある。そこで思い切って金銀をばらまき、自藩の脱走者にはもちろん、他藩の浮浪人をも誘って、尊王論を強調し、その蔭に攘夷論をしのばせて、徳川政権を揺り動かそうとしたのであった。… 佐久間象山の開国論に共鳴した吉田松陰が・・・長州に送り返されて蟄居を命ぜられると、今度は急に攘夷論に早替わりしたのはなぜか。これは長州という土地固有の利己的攘夷論に同化されたと考えなければ、何としても理解できない不思議である。 ・・・・・ (象山は)河上彦斎のために、左脇を深く刺されて即死した。河上は久坂(玄瑞)と親しく、久坂は当時山崎まで進出した長州兵を指揮していたので、その使嗾によったものであろう。… 象山はきたない攘夷論者の手先にかかって倒れたのである。」
宮崎翁の著書は我も単行本の幾つかを持っていて、自己の歴史観に大いに影響された。其の著書は大部に亘り其の学識には唯感嘆するばかりである。
☝の文書の冒頭では、「明治維新の元勲達が維新に走った動機を余りに美化し過ぎて解釈している」矛盾を翁は突いている。然し、このことに関する我の史観は翁のものとは少し外れたものである。そして、其の動機の矛盾は「長州藩自体の悪道を隠蔽して美化する」ことを、長州藩は「明治の元勲」達に摩り替えているが、維新の志士達は幕末の混乱を奇禍として自己の上昇志向を実現したかったことにある。長州藩が幕藩体制を犯す密貿易を護らんとして後の明治の元勲達を使ったことは間違い無いが、明治の元勲達そのものが密貿易を護らんとして「尊皇攘夷論」を唱えていた訳では無い。其の証拠として、英国に一時遊学した伊藤博文は英国の先進振りを観て最もアッサリと攘夷論を捨て去り、自身等に都合の良い(☚なぜ都合良く変わったかは後に述べる)開国論に主張を変えた。当初の彼等の動機の不純は、飽く迄、「幕末の混乱を奇禍として自己の上昇志向を実現したかった」ことにある。此の続きは次談以降に。
続く。
前段で言いたかったことは、「『靖国神社』は元々長州藩の志士達が大陸や半島の「招魂」と言う精神文化を持ち続けていたことから造られていたもので、明治維新が薩長の在日先住朝鮮族達が中枢に成って行われた。」と言うことを分かって貰う為に書いた一談である。「東京招魂社」から「靖国神社」に変わったのは明治八年に成ってからで、その経緯と「靖国神社」に関する様々な逸話は各自調べて戴きたい。
東洋史の権威である故宮崎市定翁の「幕末の攘夷論と開国論ー佐久間象山暗殺の背景ー」(『古代大和朝廷』筑摩学芸文庫所収、1995年、340-355頁)には、亜細亜史の俯瞰に基づく「長州史観」である論考があったので、その抜粋と我の勝手な解釈を☟に書き現す。
「日本の幕末維新史は、長い間、いわゆる明治の元勲たちの圧迫をうけて、非常にゆがんだ形で述べられてきた。戦後になって自由な研究が許されるようになったといっても、一度ゆがんだ形はなかなか真の姿が取り戻せない。・・・・・ なにゆえに薩長二藩の財政が豊富であったかと言えば、皮肉にも、それは幕府の鎖国政策の結果であったのである。・・・経済統制は、きびしければきびしいほど、密貿易の利益はそれに比例して多くなるものである。この密貿易を挙藩一致して大々的に行ったのが、実に薩摩と長州とであった。…
…長州は朝鮮に近い。… 朝鮮貿易の実利をつかむのは長州であった。…
開国が実現されれば、彼らの密貿易の利益は当然なくなってしまう。
薩長を中心とする利己的な、きたない攘夷論であって、その本音は自分たちの密貿易の利益を温存するにあった。 …幕府の開国体制をくつがえさなければならない。これが薩摩と長州とに利害の共通した立場であり … 自明の理であったのである。… そこであらたな意味を持った攘夷運動は、薩長二藩によって、全力をあげて展開され、執拗に継続されたのである。さいわいに二藩は当分の間、幕府も及ばないほど財政面に余裕がある。そこで思い切って金銀をばらまき、自藩の脱走者にはもちろん、他藩の浮浪人をも誘って、尊王論を強調し、その蔭に攘夷論をしのばせて、徳川政権を揺り動かそうとしたのであった。… 佐久間象山の開国論に共鳴した吉田松陰が・・・長州に送り返されて蟄居を命ぜられると、今度は急に攘夷論に早替わりしたのはなぜか。これは長州という土地固有の利己的攘夷論に同化されたと考えなければ、何としても理解できない不思議である。 ・・・・・ (象山は)河上彦斎のために、左脇を深く刺されて即死した。河上は久坂(玄瑞)と親しく、久坂は当時山崎まで進出した長州兵を指揮していたので、その使嗾によったものであろう。… 象山はきたない攘夷論者の手先にかかって倒れたのである。」
宮崎翁の著書は我も単行本の幾つかを持っていて、自己の歴史観に大いに影響された。其の著書は大部に亘り其の学識には唯感嘆するばかりである。
☝の文書の冒頭では、「明治維新の元勲達が維新に走った動機を余りに美化し過ぎて解釈している」矛盾を翁は突いている。然し、このことに関する我の史観は翁のものとは少し外れたものである。そして、其の動機の矛盾は「長州藩自体の悪道を隠蔽して美化する」ことを、長州藩は「明治の元勲」達に摩り替えているが、維新の志士達は幕末の混乱を奇禍として自己の上昇志向を実現したかったことにある。長州藩が幕藩体制を犯す密貿易を護らんとして後の明治の元勲達を使ったことは間違い無いが、明治の元勲達そのものが密貿易を護らんとして「尊皇攘夷論」を唱えていた訳では無い。其の証拠として、英国に一時遊学した伊藤博文は英国の先進振りを観て最もアッサリと攘夷論を捨て去り、自身等に都合の良い(☚なぜ都合良く変わったかは後に述べる)開国論に主張を変えた。当初の彼等の動機の不純は、飽く迄、「幕末の混乱を奇禍として自己の上昇志向を実現したかった」ことにある。此の続きは次談以降に。
続く。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます