魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【陰謀と偽造の共産中国の1927年南京事件】②

2015-10-13 20:02:26 | 国際・政治
 中華人民共和国(中国共産党)の歴史教科書には、南京事件の国民革命軍の襲撃に触れることなく、「外国の軍隊が中国共産党の北部遠征軍に向かって革命を阻止する為に砲撃を加えたので、南京市民が2000人以上殺されました。」など書かれています。また、中共は日本は全く砲撃しなかったにも拘らず、「英国と米国と一緒に砲撃していた」と嘘を書かしています。彼らは堂々と偽造歴史を教えているのです。

 南京事件の10日後だった4月3日には、漢口の日本の租界が暴徒に襲われれ、彼らは恣に略奪し捲った(漢口事件)。

 租界は、条約によって獲得されていたもので列強が専有していた。だから、暴徒やゲリラが租界に殺到して略奪することは明らかに違法です。暴徒によって、工場を経営していたり、商業に従事していた人々が根こそぎ財産を失うことになりました。

 最後通告と成り兼ねない抗議文を発行しようとした列強の外交団は、首謀者の処罰と蒋介石に対して彼の謝罪を要求しようとした。また、彼等からは直ぐにも軍事行動を行うことを試みるとの強い意見も出ていた。このような状況にも拘らず、篠原外務大臣は、此れ迄のように慎重な態度でした。予想通り、篠原内閣は、米国や英国が厳しい措置を摂ら無いよう懇願しました。
「列強が厳しい措置を摂れば、蒋介石政権は統治力を失い、中国本土は、非常に混乱するでしょう。」篠原はそう考えていたのだった。結局、彼は蒋介石政府を救って上げることに成った。

 1927年3月24日に起きた南京事件の前にも漢口や九江の租界で暴動が在り、租界は国民軍に奪還された。日本の疎開も多大な被害にあったが、国民革命軍の掠奪暴行事件に日本は全く報復を試みなかった。イギリス外務省はあまりにも不甲斐ない日本の対応に疑心暗鬼となった。日本が同じ東洋人として白人を共同の敵として国民軍と結託して、中国大陸からの果実を独占しようとしていると勘ぐったのだ。

 これ以降、英国は支那に対する強圧的な態度を変えて、日本以上の「対支那への宥和政策」へと大転換した。そこで、英国は支那人が日本を憎むように画策した。こうして支那の革命運動、あるいは過激なナショナリズムは、このあと日本に矛先が集中するよう仕向けられてしまった。

 日本の外務省はこの英国の真意にまったく気づかなかった。「イギリスは漸く対支那宥和に転じ、われわれの立場に近づいてきた」などといって喜んでしまった。国民軍も日本の曖昧もことした対応に予てから疑心を抱いていたので、英国の策略は見事に成功し、このことが満州事変の淵源となったのだ。


 現在も、日本政府の対外政策はハッキリ物を言わない癖を持ち続けており、このことが東亜の国々をいらいらさせて、彼等が却って日本を責め続ける根源となっているのだが、日本政府は自らの愚行に一向に気付かず篠原内閣の過ちを繰り返し続けている。

 完 了.




次を続けます

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