魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【「安倍晋三には日本民族の血は一滴も流れて無い」👈の検証 (其の二)】

2018-12-05 20:28:00 | 安倍晋三の出自を暴く

【「安倍晋三には日本民族の血は一滴も流れて無い」👈の検証 (其の一)】

2018-12-05 03:05:46 | 安倍晋三の出自を暴く

[検証すべき事項] ① 安倍晋三の父晋太郎は朝鮮人の背乗りか?② 岸信介は日本民族か?③ 安倍洋子は岸信介と其の妾の上野の朝鮮酌婦との子か? ①を証明  李方子が母だとの説がある。方子は👇の伏見宮博義王と血縁である。博義王は蓮舫と顔が瓜二つである。蓮舫の祖母は博義王に近付いていた。  戦前は、養子、養女を政略の道具にすること等頻繁であった。  👆晩年の方子と安倍晋太郎は、似てると . . . 本文を読む

 扠、前回👆は、「何故晋太郎の容貌が彼れ程迄に方子と酷似して居るかであるが、」という文章で締め括ったが、此れには我なりの推論を働かそう。
 方子の母親梨本伊都子は鍋島藩11代藩主鍋島直大の次女であった。李晋の突然の死には日南鮮共に陰謀説で互いを責め合った。日朝統合の象徴として李方子は世継ぎを生むことは方子には責務として課されて居たことは当然の理であるが、「李晋の二の舞は避けねば為らない。」と方子夫妻と其の周囲が考えるのは当然のことである。李晋が生まれてから10年後、急逝してから9年後の1931年(昭和6年)に次子の玖を生んだのだが、其の間方子は一度流産してる。此の流産が何時かは分らんが、方子は世継ぎを産もうと必死であったことは、想像に難く無い。詰まり、方子は👆の9年の間、未だ晋暗殺死の恐怖を冷めやらず儘男子を生んだ可能性は否定出来まい。もし、此の男子が安倍晋太郎なら、そして、此の子を方子が西村真琴に預けたならば、後は西村真琴と安倍寛の関係を洗い出せれば、安倍晋太郎が紛い無く方子の実子で在ったとの推測の確実性が増すことに成る。

西村謙三 - Wikipedia

西村 謙三(にしむら けんぞう、文久元年9月13日(1861年 10月16日) - 1937年 7月10日)は、日本の教育者、郷土史家。 経歴 [1] 初代佐賀藩主鍋島勝茂に仕えた書家である洪浩然の子孫、洪安襲の三男として肥前国(現・佐賀県 佐賀市 ...

西村謙三(にしむら けんぞう)とは - コトバンク

1861-1937 大正-昭和時代前期の教育者,郷土史家。文久元年9月13日生まれ。西村真琴の次男。各県の中学の教諭,校長をへて,郷里佐賀の成美高女校長をつとめる。佐賀図書館長ののち,昭和2年鍋島家創立の徴古(ちょうこ)館長となり肥前 ...

西村真琴 - Wikipedia

西村 真琴にしむら まこと、1883年(明治16年)3月26日 - 1956年(昭和31年)1月4日)は、日本の生物学者。元・北海道帝国大学教授。マリモの研究や、人間型ロボット「學天則」の制作などで知られるほか、保育事業にも貢献した。次男 ...

西村 真琴(ニシムラ マコト)とは - コトバンク

20世紀日本人名事典 - 西村 真琴の用語解説 - 明治〜昭和期の植物学者,ロボット学者 北海道帝国大学理学部教授。 生年明治16(1883)年没年昭和31(1956)年1月4日出生地長野県松本学歴〔年〕広島高師卒経歴教員を務めたのち、明治43年 ...


 西村真琴は長野県の出身とされる。一方其の次男?とされる西村健三は洪公然の10代目で佐賀県が故郷であるとも書かれて居る。此れは如何いうことか?次回に譲る。


最新の画像もっと見る

コメントを投稿