魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【安倍晋三の出自を暴く~記事逐次追加版】第三談

2015-09-19 11:45:28 | 安倍晋三の出自を暴く
 渤海楽は、日本古代音楽の一つ。中国,東北地方 (旧満州) にあった渤海国から伝来した舞楽で,平安時代中期に高麗楽 に整理,吸収された。渤海国を建てたツングース系の民族が靺鞨 と称したことから,靺鞨楽ともいわれる。

 「江戸時代後期の18世紀に、山形県尾花沢の鈴木清蔵氏が京都で雅楽学び、その伝授書を故郷へ持ち帰った。

その伝授書には

 「強いご執心と懇望によって当家伝来の秘伝だが、特に伝授する。絶対に他人に漏らしたり、曲譜を見せてはいけない」とする趣旨の文言が書かれ、「篳篥(ひちりき)」の楽譜も記されているそうです。

 そしてこれを授けたのが、当時の雅楽助・安倍季康。


 安倍季康は江戸時代中~後期(1731-1802)の雅楽家で、三大楽書の一つである、楽家録を著した安倍季尚(すえひさ)の曾孫にあたります。

 篳篥にすぐれていたといわれ、内侍所御神楽のとき、秘曲「宮人」の篳篥音取を復興。

 著作には「篳篥曲譜」などがあります。

 またこの子には「山鳥秘要抄」「催馬楽曲笛譜」などを著した、安倍季良(すえはる)がいます。


 「山鳥秘要抄」については安倍季昌先生のご著書「雅楽 篳篥 千年の秘伝」で紹介されていますね。



 今回この記事中にもあるように、安倍季昌先生は季康の子孫で、京都方楽家安倍家の29代目の当主でいらっしゃいます。


 以前に資料を拝見させていただいたことがありますが、安倍家の方々を始め、昔の方は皆さん、とても几帳面に様々な記録を残されるのですよね。

 だからこうして、200年も前の出来事をちゃんと2013年の私たちが詳しく知ることができるわけです。

 現在では、このように文字の記録などはデジタルに頼ってしまい、私自身もすっかり文字を手書きする機会が減ってきてしまいました。
そうなってみると、尚更、筆をとり記録し続けた先人たちには、頭の下がる思いがします。
「楽器・装束・歴史」カテゴリの最新記事」(2012.11.17 山形新聞)




  天平年間、渤海の人が出羽国に漂着したことが記載されてい る。

提供館
(Library) 山形県立図書館 (2110039) 管理番号
(Control number) 2009-0052
事例作成日
(Creation date) 2011年12月14日 登録日時
(Registration date) 2011年12月14日 11時33分 更新日時
(Last update) 2011年12月21日 17時00分
質問
(Question)
天平年間、渤海の人が出羽国に漂着したことが記載されている山形県史又は地方史はあるか。
回答
(Answer)
当館が所蔵する本県日本海沿岸地域の地方史は下記のとおりですが、そのうち次の資料にご質問に関する記載がありました。

資料①P84 (「第一編 出羽の国と酒田湊のあけぼの 第六節 渤海人の来航」 から抜粋)
また私入朝もあった。天平十八年(746)には、渤海人と鉄利の1100余人が出羽に着き、化を慕いとあるから帰化を望んだのであろう。朝廷は衣糧を与え放還している。
資料②P225 (「第二編 古代の遊佐 第二章 出羽国の成立 第二節奈良時代の社会」 から抜粋)
渤海人は多人数の来着であり、日本への帰化を目的としたこともあった。天平十八年には渤海・鉄利人1100人がきて帰化を求めており、出羽国でもてなしている。これらの帰化は許可されなかった。

続日本紀の記載内容(資料③、資料④から抜粋)
この年、渤海人及び鉄利、惣て千百余人、化を慕いて来朝す。出羽国に安置し、衣粮を給いて放還す。(読み下し)


 唱門師(松陰の出自?)が卑賤に落とされたのは、恐らく、「秀吉は数年に及ぶ唱門師大弾圧を行った。 唱門師はシャーマンとして心理を操り、トランス状態を招くことができ、霊的処術が可能だった。『如何わしい魔術もあった』かもしれないと考えられたからだ。 」ということに由来があったものだろう。唱門師は万歳師とも言われる。

 「起源については定かではないが、奈良時代の「踏歌(とうか)」(踏歌は宮中などにおいて春を寿ぐ行事で、男踏歌の舞人が舞楽の「万春楽(ばんすらく)」を足を踏み鳴らすように舞う際には万春楽と囃し、女踏歌の時は千春楽(せんずらく)と囃した)より、変遷したものと考える説がある。また雅楽には君主の長久を祝うめでたい曲として、千秋楽と共に萬歳楽(まんざいらく)という曲が伝えられていて、ここから千秋萬歳(せんずまんざい)となり、単に萬歳となったともいわれる。(Wikiより)」

 もし、吉田松陰の出自が唱門師のものであり、安倍晋三のルーツが雅楽に関係するならば、此の両者の祖先ばかりか、長州藩の下賤野武士達の源流が勃海からの流民であるとすれば、此れまた面白い。

*奥州藤原氏・安倍氏の源流は雅楽師?

 「応保元(1161)年3月16日の、九条殿での舞御覧でこの曲があり、序30拍子、破6帖が演奏されました。

 また、文永7(1270)年10月4日、法皇(後嵯峨上皇)宸筆御経供養の習礼が嵯峨殿であり、序30拍子、破6帖が演奏されました。その時の舞人は、地下が狛真葛・狛朝葛・狛則氏・狛繁真・狛定継、堂上の舞人は皇后宮大夫藤原公藤・土御門大納言中院通頼・四条二位房名の3人、地下の笙は豊原近秋・豊原政秋・豊原重秋、篳篥は安倍季茂・安倍季俊・(三宅?)守保、この守保は先祖からの篳篥吹ではないが、光葛が許可したものである。笛は堂上が花山院大納言長雅・花山院三位中将家長、大神仲賢の弟子である。地下は大神景貞・大神仲賢・大神景好の3人。鞨鼓は豊原景秋、太鼓は大神重賢、琵琶は堂上で藤原孝時の弟子である春宮大夫花山院師継。このとき、序の太鼓を31打ち、破五帖の太鼓を21打ったがこれは間違いであるとあります。」


続く。

 

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