魂魄の狐神

天道の真髄は如何に?

【中国共産党の陰謀と偽造の南京事件】 ➀

2017-08-05 21:23:13 | 大日本帝国の歴史

 更衣兵士と呼ばれていた兵士たちは、第二次日中戦争の時代を過ぎて壊滅していた。所謂、中国軍の兵士たちは、民間人の姿に変装し、ゲリラ活動にしていた。1937年。日本軍が南京に入城した後、夜間に城壁の上部に立っていた歩哨兵は、屡狙撃されていた。南京城内の砲撃で負傷をした中国軍の兵士の多くは、日本軍の看護施設で治療を受け、全快すると故郷に還されていた。

 如何して共産党中国は「日本軍の南京大虐殺」を制作し、それを喧伝する必要があるのでしょうか?
 実際、南京事件は1927年から1937年に掛けて2回あった。日本軍による南京城の城への勝利は1937年であった。

 北部遠征軍は、強力な軍隊を率いて、1927年に上海に近い南京に入城した。北部遠征軍に入った共産党員は、領事館、学校、企業、又は外国人住宅に侵入し、虐殺、暴行、略奪に殺到した。暫くして、女性や子供を含む数百人の一般市民も略奪に加わりました。女性に対する暴力、略奪の為の身体に対する暴行は非常に悲惨を極めた。毛沢東が指導者だった共産主義者のスローガンは、帝国主義の打倒にあった。彼らは外国人に対して凄惨な残虐行為をしたとしても許されると考えていた。

 勿論、英国と米国は怒り心頭だった。両国は長江の軍艦から南京に砲撃した。英国と米国は日本に一緒に行動する様に告げた。然し、日本の駆逐艦は長江にいたのだが、日本海軍艦隊は反撃には参加し無かった。日本政府が「中国を刺激しては成ら無い。」という指令を出したからだ。日本の軍艦は、命辛々逃げ様とする日本人を見捨て、長江の下流に向かって退避したのだった。日本人を保護する為に英国は共に軍を派遣し様と提案していたが、日本は此れについても対応し無かった。当時の日本政府は、幣原外交の非干渉原則であり、ニコライエフスク事件のような日本人全員の虐殺を恐れていた(※1)。

 中国の兵士たちは、日本が彼等を攻撃し無いと耳にしたので、彼等は日本領事館に襲い、暴行と略奪を続けた。其の時点で、総領事の夫人は27人が強姦され、日本人女性は30人が幼稚園の少女に至る迄暴行された。当時、日本領事館の従業員、日本の軍隊、避難していた日本の民間人は抵抗出来無かった。海軍旅団は武器も持たず領事館内に存在していたからだ。此の時点で、長江に居た戦艦には領事館にいた人々は誰一人として救けられ収容されて居ず、日本領事館に居た人々の安全を任務としてた荒木海軍の船長は、其の任務を果たせ無かったので自ら命を絶った(※ 敗戦後、日本国憲法を創案した此の
幣原とは何者か?)。

 此の南京事件の結果、避難命令が出されたが、此の避難命令によって、全ての財産を放棄し、長江流域から日本を帰還することは避けられ無かった。日本外務省は被害が軽微であると発表して以来、居住者であった被害者達は不満を募らせた。然し、彼等は外務省によって沈黙を強いられた。

 
南京事件を引き起こした軍の政治主任は共産党員だった。南京の事件は、ソ連君主と支那共産党の蒋介石の排除の陰謀であった。英国は其れに気付き、ソ連との外交関係を直ちに断ち切った。

 蒋介石が共産党の陰謀に気付いたとき、彼は共産党の権力の大粛清(上海クーデター)を実行していた。

 

幣原喜重郎 - Wikipedia

(※1) 幣原の此の時の中国共産軍兵士に対する対応が余りに軟弱なものであったので、中国大陸専有を日本が目論んでいるとの抜け駆けを日本が狙ったものと疑りを強め日本に対しての不信感を持つに至り、此の不信感が後に太平洋戦争の引き金にん成ったことは否めぬ事実とされた。


続く


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