天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

宇垣纏を擁護するvol.2

2016-02-14 19:02:33 | 歴史
まずこの問題を批判する前にあなた自身がもし、
第五航空艦隊司令長官の任に就いたと想像してみて下さい。


『参加兵力は、海軍の第5航空艦隊・第1機動基地航空部隊(在九州、司令長官:宇垣纏中将。なお、海軍指揮下の陸軍雷撃隊所属の雷撃機型の四式重爆撃機「飛龍」部隊2個飛行戦隊を含む)、第5基地航空部隊(在台湾)、および第3、第10航空艦隊の一部を主体とし、陸軍の第6航空軍(在九州、司令官:菅原道大中将)と第8飛行師団(在台湾、師団長:山本健児中将)も連合艦隊司令長官の指揮下に入ることとなった。そして、特攻作戦として海軍の「菊水作戦」と陸軍の「航空総攻撃」が準備されたのです。』

作戦は第一号(1945年4月6日-11日)から第十号(6月21日-22日)まで実施され、その後も終戦までの間、断続的に特攻が続けられたのです。
'

Wikiより引用です。

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『1945年(昭和20年)2月、第五航空艦隊司令長官に就任する。第五航空艦隊鹿屋特攻隊昭和隊所属の杉山幸照少尉は戦後「中将は自らが戦局打開の鍵を握っていると錯覚していた」と語っている。』

『時期や部隊運用の判断についても混乱があった。長駆鹿屋基地から3,000km離れた米軍機動部隊本拠地のウルシー環礁まで特攻攻撃に出した銀河部隊「梓隊」24機・誘導の二式飛行艇3機に対して「万一天候其ノ他ノ渉外ノ為指揮官ニ於テ成功覚束ナシト認メタル場合ハ 機ヲ失セズ善処シテ再挙ヲ計レ 決シテ事ヲ急グ必要ハナイ」と訓示、出撃時期を迷い、3月10日には発進した攻撃隊を一度引き返させている。3月11日の再出撃では、銀河のエンジン不調により24機中7機が脱落して帰投。さらに発進を1時間遅らせたため梓隊の到着は夜間となり、結果は米軍正規空母1隻(ランドルフ)を大破させたにとどまった。』

『本土空襲に来襲した米軍機動部隊に対し、3日間の通常攻撃及び70機の特攻機を散発的に出撃させ攻撃後、不十分な敵情把握と戦果の過大判断の末に4日目の3月21日現地部隊の反対を「必死必殺を誓っている若い連中を呼び戻すに忍びない」として押し切り桜花特攻部隊神雷部隊を出撃させ、護衛部隊の零式艦上戦闘機をのぞけば「桜花」は母機諸共全機帰還しなかった。』

『菊水一号作戦が発動されると一日の出撃数としては海軍特攻として過去最多の161機を出撃させたが、これも目標到達時間を統一しなかったことから飽和攻撃とはならず、結果的に散発的攻撃ではあったが、陸軍も第一次航空総攻撃(特攻機61機)を実施しており、7日の56機出撃と合わせると戦果は駆逐艦3隻、掃海艇4隻、揚陸艇 (LST) 2隻、貨物船2隻撃沈、正規空母1隻、護衛空母1隻、戦艦1隻、駆逐艦大破7隻を含む15隻、掃海艇7隻損傷(他に魚雷艇2隻、LCIなど)にまで上った。この際、連合艦隊司令部の強引な作戦指導により戦艦「大和」以下第二艦隊が米軍機動部隊航空機の猛攻により壊滅している。宇垣は突然決まった水上特攻作戦に不満を抱きつつも、特攻隊護衛機の一部を割いて第二艦隊の上空護衛を行っている。この2日間の戦闘で損傷した正規空母は「ハンコック」中破のみであり、主力艦で言えば護衛空母が2隻、戦艦が3隻小中破した程度であった。』

『戦艦「大和」以下の第二艦隊による水上特攻作戦(坊ノ岬沖海戦)の際、連合艦隊司令部は第二艦隊に対し護衛戦闘機を出す事を計画していなかったが、宇垣は第五航空歓待長官の権限で大和以下の艦隊に護衛戦闘機(零戦)部隊を出撃させた。護衛戦闘機搭乗員には他の任務がある都合上、途中までの護衛となる。』

『その後も菊水作戦は6月以降まで行われたが兵力の枯渇や、散発的な使用により、果果しい戦果を挙げられないまま終戦に至った。8月10日付で第五航空艦隊司令長官の職を解かれた。』

『宇垣の用兵に対し、「特攻隊を人と見るより物と見る思想」、「軍人は死ぬことが名誉であると思っていた」という批判が戦後軍令部や関係者からなされた』

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まずはじめに当時の中将クラスでは部下はおよそ1万人くらいだったと言われています。この作戦はその中将クラスを数名指揮下においたもので宇垣中将は事実上大将とみても良いかもしれません。

停戦命令としては3日に分けて完全な停戦命令が発せられています。

8月15日宇垣からは訣別電があり、「敵空母見ユ」「ワレ必中突入ス」を最後に無電は途絶えたことになっていますが16日であったとの説が次の記録から有力とされています。
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「蒼空の果てに」宇垣特攻八月十六日説
の記事より抜粋、

そこで、鶴谷一尉が終戦当時
大分基地の通信室に
勤務していたと言うので、
「鶴さん、宇垣長官の最後の電報だけど、
あんな堅苦しい文章が暗号に組めるの?
それとも、平文で打ってきたの?」と、尋ねた。

「隊長、あんた何んにも分かってないねー、
あの訓示は出発する前、
封筒に入れて通信士
に預けて行ったのよ……、
飛行機から打ってきたのは、
開封の指示と時間だけなのよ……」
「それに、皆はあれを八月十五日だと
思っているけど、
本当は十六日なのよ……」
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秦郁彦は16日の48号が正式な停戦命令であると主張します。様々な批判意見がある中で16日を15日に変え、正式な軍の命令を採用したかの擁護する工作がなされているとも言えます。


◆大海令第四十七号(積極的攻撃を禁止)

昭和二十年八月十五日
奉勅 軍令部総長 豊田副武
小沢海軍総司令長官ニ命令
何分ノ令アル迄対米英蘇支積極進攻作戦ハ之ヲ見合ハスベシ

◆大海令第四十八号(戦闘を中止、但し自衛は可)

昭和二十年八月十六日
奉勅 軍令部総長 豊田副武
草鹿南東方面艦隊司令長官
大川内南西方面艦隊司令長官
小沢海軍総司令長官ニ命令
一、 南東方面艦隊司令長官、南西方面艦隊司令長官
及海軍総司令長官ハ指揮下海陸軍全部隊ヲシテ
即時戦闘行動ヲ停止セシムベシ
但シ停戦交渉成立ニ至ル間敵ノ来攻ニ当リテハ止ムヲ得ザル
自衛ノ為ノ戦闘行動ハ之ヲ妨ゲズ
二、 前項各司令長官ハ戦闘行動ヲ停止セバ
其ノ日時ヲ直ニ報告スベシ
三、 細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ指示セシム

◆大海令第四十九号(一切の戦闘停止)

昭和二十年八月十七日
奉勅 軍令部総長 豊田副武
草鹿南東方面艦隊司令長官
大川内南西方面艦隊司令長官
小沢海軍総司令長官ニ命令
一、 南東方面艦隊司令長官、南西方面艦隊司令長官
及海軍総司令長官ハ別ニ定ムル時機以後指揮下
海陸軍全部隊ヲシテ一切ノ戦闘行為ヲ停止セシムベシ
二、 前項各司令長官ハ指揮下各部隊(艦艇)ヲシテ
給養ニ便ナル適宣ノ地域(固有繋留港内地所在ノモノハ
成ル可ク所属軍港)ニ集結シ爾後ノ処理ニ関シ
準備セシムルコトヲ得
三、 細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ指示セシム

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刊行された『戦藻録』にはその序文の一部と第6巻
がなくなっています。

その序文は1941年(昭和16年)10月22日に宇垣が第一航空艦隊の人事につき山本五十六に「南雲長官と草鹿参謀長を更迭し長官後任に小沢治三郎を用いるよう進言し山本から同意を得たという記述の部分です。

また第六巻1943年(昭和18年)4月頃までの日記は欠落して、戦後に連合艦隊先任参謀であった「黒島亀人」が東京裁判の証人として利用するとして借受も紛失する。冨士信夫によれば、黒島が証人として東京裁判に出廷したことはないことがわかっています。

第六巻の範囲は1943年1月1日から4月2日。ガダルカナル島撤収作戦、東部ニューギニアのラエ増援作戦、4月に予定された航空大攻勢の準備について記載があったであろうと考えられています。


黒島亀人海軍少将はわずか3才でロシアに出稼ぎの父を亡くし、母親に捨てられ黒島家に養子に入っています。連合艦隊首席(先任)参謀、兼第一艦隊首席参謀を異例の4年以上続けられたのは山本五十六大将に寵愛されていたからです。

戦後企業し山本の妻を副社長に迎えています。恐らく黒島は山本五十六に関する部分を抜いたのでしょう。変わり者、悪人のように言われますが、
歴史に"もし"は、ありませんが、彼が山本の地位にいたら日本はこの戦いに勝っていたかも知れないぐらいの人物なのです。


宇垣の批判は停戦命令に違反して若者を連れて特攻した事と「もし成功していたら停戦協定違反に怒った米軍の報復爆撃で死ななくてもいい日本人が更に沢山死んでいた」とのものが殆どです。

宇垣が絶賛した芙蓉部隊の美濃部正少佐は「この世で罪人以外は自らの命を他人に命じられて失うことはおかしい」と大西瀧治郎に語り、「こんなむごい戦争があるか」と声を荒らげ、特攻に反対した人物です。

その美濃部も戦後に「戦後よく特攻戦法を批判する人がいるが、それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎない。
当時の軍籍に身を置いた者にとって負けてよい戦法は論外である。
不可能を可能とすべき代案なきかぎり特攻もまたやむをえないと今でも思う。
戦いの厳しさはヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない」と語っています。
また「ああいう愚かな作戦をなぜあみだしたか、私は今もそれを考えている」とも語っています。

特攻が無駄死、犬死とまで批判される戦後の行き過ぎた反省は戦没者の犠牲を全て指導者の責任にして、勝てる見込みの無い無謀な戦争を始めたとします。

少しでも粗があれば頭ごなしに否定的で非情な歴史観へとなっていくのです。vol.3では宇垣中将と共に特攻した中都留大尉に関してです。






宇垣纏を擁護するvol.1

2016-02-14 14:19:46 | 歴史

宇垣纏海軍中将は終戦の詔勅後の特攻を決行したことで有名ですが、戦後の彼への誹謗抽象或いは否定的な論評を分析することで、数多くの部下達の特攻を見送った中将としての心境に近付けると思い、今回はその事と宇垣と言えば陣中日記の『戦藻録』の欠落部分が何故紛失したのかをその部分の出来事から逆説的に紛失理由を推測しようと思います。

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『すでに戦争は終わってるんですから、戦後処理と国家の再建を考えなければなりません。
そんなときに自分ひとりで死にに行くのならともかく、列機を引きつれ無駄死にさせたってのはエゴの極みです。
百歩譲ったとしても、認めてもいいのは操縦員と2人だけで単機の出撃までです。』


『大西中将は一人で死にました。しかし宇垣さんは部下を連れていったので後に批判されています。たしか部下の遺族も抗議したような…』

『一人で腹を切って責任を果たし、自分が死に追いやった部下たちの後を追うというのは美談。
でも、
自分が乗る航空機を若い搭乗員に操縦させて、若者たちを巻き添えに特攻するのは個人的なわがまま。』

『おそらく自分の娘婿と部下数名と沖縄に向かったからでしょう。若者を巻き添えにしたと。宇垣は操縦が出来なかったのでやむおえないのですが、それなら割腹しろという所ではないでしょうか。』

『既に戦争は終わり、天皇の玉音放送もあり、海軍総隊から戦闘停止の命令が出ていたにも拘わらず、部下に特攻機の準備を命じ、彗星二型艦爆11機で出撃。大変軽はずみで思慮のない行為でした。戦争が終わってこれから日本の再建の為にがんばってもらうべき若者を道連れにした宇垣の勝手な行動は許されません。そしてこの特攻攻撃は完全な失敗に終わりましたが、もし成功していたら停戦協定違反に怒った米軍の報復爆撃で死ななくてもいい日本人が更に沢山死んでいたでしょうね。

宇垣特攻を知った海軍総隊司令長官の小沢治三郎中将は「陛下の終戦の大命をなんと心得るか。私情で部下を道連れにするなどはもってのほかである。死ぬのなら一人で死ね!」と激怒したそうです。隊長の中津留大尉は若妻と生まれたばかりの子供を残して死にました。中津留大尉は一人息子でしたが、父親は「海軍は息子を返してくれ」と泣いたそうです。この様に宇垣の道連れになって16名の若者が戦争が終わったあとに無駄に死にました。』

『靖国神社に今でも合祀されていない。』


『草鹿龍之介は宇垣を「木で鼻をくくったような冷淡な男」と評しているが、宇垣の死に触れた草鹿は「彼もまた偉い武人であった」と評している』





冒頭に戦後の彼への誹謗抽象或いは否定的な論評を分析することで、数多くの部下達の特攻を見送った中将としての心境に近付けると思い・・・と書きましたが、批判文を読み進めるうちに、私と同じ思いの反論文を見つけましたので今回はこちをご覧下さい。手抜きして申し訳ありません。
vol.2から頑張ります。


【宇垣中将の心境ですが、そもそも、この戦争に反対の立場であり、自分の本心(開戦反対)と軍人としての(あくまで勝利を目指す)矛盾を最終的に解決してくれるであろう、死を迎える事で安著の心境に達した、って感じではないでしょうか。
特攻隊の後を追う事が出来る、と言うのもあったでしょう。特攻に対しては批判的であったので尚更、先に亡くなった特攻隊員に対して責任を感じていたでしょうしね。

また、戦死した山本五十六大将との関係で、開戦当初からしばらくは山本五十六大将に無視されていた様な感じでしたが、宇垣中将は一貫して忠実に補佐しており、山本大将の方はともかく、宇垣中将は山本大将を尊敬し好意的な感情を持って居た様で、その山本大将の戦死に責任を痛感していて、特攻隊の後を追うのと同時に山本大将の元に挨拶に行ける、と言う感情もあったと思います。
それともう一点、宇垣中将は家庭人として愛妻家であり、昭和15年頃に最愛の知子夫人を亡くし、その後も日記にしばしば夫人に対する愛惜が記載されています。いよいよ特攻隊の後を追うに当たって、山本大将同様、最愛の妻の元に行ける、と言う事で自然と微笑みが浮かんだのではないでしょうか。


補足
別の方が宇垣を「非情」とおっしゃってますが、この第五航空艦隊の指揮権が特攻を前提としたもので、それは軍令部からの命令です。ですから、特攻艦隊の司令長官としては、誰であろうと特攻の前提を崩す様な発言・進言を許すことは特攻の是非とは別に容れられるものではありません。皆が「自分に自信があるから」と言い出しかねない。そんな事になれば、指揮系統が崩壊してしまいます。経緯が記録されていると言う事は多勢の中での話しでしょうから、大勢の人間が聞いている場所で、それを許せる訳ないでしょ。それを「非情」と言うのはいかがなものかと。
あくまで特攻や最後の出撃の是非とは別です。】




如何でしょうか私も【最後の方】の意見に近く、賛同します。失礼ながら更に補足すれば、
現在では靖国神社に合祀されております。

2機は米軍キャンプの直前で体当たりを回避して自爆し6機は、米艦にまさに突入する直前に、やはり突撃を回避して自爆。残る6機は、沖縄にたどり着く前にエンジン不調で、不時着しています。自爆した8機には、18名が搭乗。全員が散華されております。

山本五十六大将が撃墜された日、別の機に搭乗し宇垣も怪我を負っています。(海軍甲事件)
手に持った単刀がこの時形見にもらったものです。


















軍事技術のスピンオフを考える

2016-02-14 05:28:40 | 歴史
軍事技術のスピンオフとはつまり民生転用の事です。軍事技術の歴史に於いて金属を加工する技術が造兵に応用されるようになると技術力が戦争に及ぼす影響力は拡大してきました。

つまりそれまでの青銅器は鉄器に比べるととても脆く、紀元前1600年、バビロン王朝は鉄器を使用していたヒッタイト軍の侵攻で滅亡したといわれます。

軍事技術の発展が戦争を格段に進歩させ、拡大したことを我々日本人は広島、長崎で身をもって知る事となります。

幸か不幸かこの痛ましい被害があるからこそマンハッタン計画が発電へ、 米レイセオン社(Raytheon)のレーダー開発の副産物として誕生した電子レンジ。軍用のGPS衛星による衛星測位システムはカーナビへとスピンオフしたのです。

その逆スピンオンという場合もあります。鉄条網や飛行機です。あまりぱっとしません、如何にスピンオフが多いかまたその技術が軍事目的で開発されたかがわかります。

世界的な動きが軍縮そして平和へと向かう中、北朝鮮がロケットを打ち上げました。その開発の流れは世界のスピンオフとは逆の流れで開発されているようです。

その国の性格上それは時代に逆行しての軍事開発がスピンオフなのかオンなのかの判断の難しさに恐怖を感じるのです。

その恐怖は言うまでもなく核爆弾を小型化して弾頭にする技術と大気圏を再突入して正確な照準を合わせる技術なのです。

つまり軍事開発そのものが抑止力となる国、これだけ経済制裁を行っても着実に核実験、ミサイルを放つ事が出来るのは中国の後ろ盾があるからでしょう。

制裁に慎重になる理由は日米韓の反応を見つつ緊張のバランスをうかがっているからに他ならず、それはまるで北朝鮮が中国からスピンオフしたかの様相を呈しているのです。