天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

宗教と神様から天皇を考える

2017-10-27 07:57:04 | 歴史
宗教に必ず存在するもの、それは神様だろう。
神様とは別に開祖あるいは教祖と呼ばれるその宗教や宗派の創始者がいる。

アッラーフアクバル(アラーは偉大なり)と唱えながら人間を殺戮或いは爆死、戦死する兵士達を見ていると宗教が守るのは人ではなく神または信仰そのものそして国家と言う集合体である事がわかる。

イスラム教の戒律の厳しさは死後の天国、楽園での自由を手に入れる個人的欲求の達成の為の試練となる。

この言葉を唱えることにより、敵を倒す時も仲間が死ぬ時もまた自分自身が死を目前にする時も全て同じ高揚感に満ち溢れていることであろう。

この場合の神は人々の願いを叶えてくれる対象であり、一神教は総じて信じるものは救われるのである。

一方日本においての神は時として人々の命さえ奪う壮大で絶対的な力をもつものを抽象的に神としてきた歴史がある。

自然災害の多発する国土に於いて自然現象を神の怒りと考えるのは極当たり前のことであろう。

信じているが救われない場合が多い日本では"困った時の神頼み"と言う言葉があり、ただ神社に行って祈るだけでは願い事は叶わない、それなりの努力をするものだという常識が認知されている。

つまり、多神教の神は願いを叶えてはくれない願いを叶えるのはあくまでも自分という極めて明確で現実的な思考へ変化し、神頼みはそれに対するサポートとなりうるのである。

無心論者や無宗教の人間にとって神道こそが最も受け入れ安い合理的な習俗であるわけだ。

要するに日本の神は神道のkamiであって後にGODを神と訳しあてはめた。従って天皇、現人神は他宗がGODと崇める存在ではなく、開祖的側面を持つ神道の神といった方がより的確であろう。

この微妙なニュアンスの違いが戦後の天皇観を宗教的、カルト的に捉えて象徴天皇などと神格化を否定したのである。

天皇が新穀を天地の神に供え、自らもこれを食する宮中行事である新嘗祭は11月23日に執り行われる。
「夕の儀」午後六時より2時間
「暁の儀」午後十一時より2時間

天皇陛下は神嘉殿の堅い板の上に座布団も敷かずに二時間正座して祈られ、宮中祭祀のなかでも最も重要な神事だ。

日本国民が飢えぬように全身全霊で只管祈るのである。この様な御存在を日本国民は現人神または神として崇め護ってきたのである。

戦後の扱いはたとえ宮内庁でさえ疑問を感じる上、メディアや日教組の扱いは目に余るものがある。皇室を守る為と偽り伝統を無視し、女性宮家創設を推し進めようとする動きや、靖国神社への思いを無視し、切り離そうとする。御親拝中断を外交の障害と放置する日本。

日本国民の総意とは現在の日本人だけではない、遥か昔から現在そして未来の日本人の総意なのであり、我々はこれからも永遠に子孫へとこの総意を繋いでゆく使命を背負っているのである。

天皇陛下万歳とは日本万歳、日本国民万歳、世界万歳であり、自分万歳なのである。🙌