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別冊正論26号より
平成28年
西川京子(元自民党歴史議連事務局長)
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《九年前に総括された「南京」の捏造》
自民党の歴史議連「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」は平成19年6月に記者会見を開き、
「南京攻略戦は通常の戦場以上でも以下でもなかった」とする
『南京問題小委員会の調査検証の総括』を発表した。
同議連は、中国側が主張する〝大虐殺〟などなかった根拠として、「第百会期国際連盟理事会(1938年1月26日―2月2日)の議事録」などの一次資料に当たった。
その結果として、
①日本軍による南京陥落直後の1938年昭和13年、当時の国際連盟で中国の顧維鈞代表が「日本軍による2万人の虐殺と数千の女性に対する暴行があった」と報告し、国際連盟に「行動を要求」したが、「日本非難決議」として採択されなかった
②南京戦の総司令官、松井石根大将は、残虐行為を阻止しようとする義務を怠ったとして東京裁判で死刑判決を受けたが、「平和に対する罪」「人道に対する罪」の訴因は無罪だった―ことなどを挙げた。
記者会見にはAP、AFP、ロイターなど海外のメディアを含む、内外の三十数社が出席し、この問題に対する関心の高さをうかがわせた。
朝日新聞は、その「調査検証の総括」を同8月23日付『南京事件議論再燃』の記事で、〝日本側の主張〟として、南京問題小委の調査結果を引いた上、「日本 虐殺否定の動き活発化」「中国『犠牲30万』見直し論争も」と小見出しを付け〝両論併記〟で報じた。
いかにもバランスを取っているようだが、当時の中国の顧代表の国際連盟での演説を、「中国の政治宣伝の原点」としたことには触れていない。
実は、それこそが最も重要であり、現在に至る、この問題での中国の対日非難プロパガンダの始まりだったのである。
調査検証に際し、我々は中国側が〝南京大虐殺〟があったと主張する1937年昭和12年12月13日から翌13年2月までの公文書を重要な一次資料と判断して、入手に努めた。その一つが前述した「第百会期国際連盟理事会(1938年1月26日―2月2日)の議事録」である。
それを見ると、1938年2月2日正午から開催された第六回会合(非公開会議、次いで公開会議)において、中華民国の顧(こ)代表は、確かに「南京で2万人の虐殺と数千人の女性への暴行」があったと演説し、国際連盟の「行動を要求」している。
《デマ援用で日本非難宣伝を開始》
当時、日本はすでに国際連盟を脱退しており、〝反日的なムード〟に支配されていたと思われる。それにもかかわらず、国際連盟は、「行動要求」について、1937年10月6日の南京・広東に対する「日本軍の空爆を非難する案」のようには採択をしなかったのである。
しかも、国際連盟議事録にある「2万人虐殺」は、蒋介石軍からの報告ではなく、アメリカ人のベイツ教授やフィッチ牧師の伝聞を記事にした米ニューヨーク・タイムズなどの新聞報道に基づくものだった。ベイツ教授もフィッチ牧師も、単なる公平な「第三者」ではなかったのである。
フィッチ牧師は、反日活動をしていた朝鮮人の金九を自宅に匿った前歴のある人物であり、ベイツ教授は、中華民国政府の顧問だった。
蒋介石軍の将兵は、1938年1月になると、南京城内安全区から脱出して蒋介石に南京城陥落に関した軍事報告をしている。その時点で、「戦時国際法違反」を実証できる報告を蒋介石が受けていたならば、顧維鈞(いきん)代表は、国際連盟での演説に取り入れていたであろう。だが、そうした事実を確認できなかったために、「デマ」に基づく新聞記事を援用せざるを得なかったのだ。
この「2万人」という数字は、東京裁判での「20万人」や中華人民共和国が主張している公式見解の「30万人」とはケタが違うことが分かるだろう。民国時代の一番、事実を正確に把握していたであろう時に出した主張が「2万人の虐殺」なのである。繰り返すが、それすら、国際連盟で「否定」された。この議事録は、中国側の主張を覆す上で、「白眉」の資料と言っていい。
南京陥落直後から、中国国民党は、約300回もの記者会見を行ったが、その中で一度も、「南京虐殺があった」とは言っていない。
この国際連盟議事録はまさに、そのことを裏付けることができる決定的な資料である。国際連盟の会議の場で、顧代表が〝南京虐殺〟を訴えて、無視されたことを、中華民国は再度、記者会見で訴えられなかったのである。
ここで当時、この問題を討議した国際連盟の動きを詳しく振り返ってみたい。
中国の顧代表が演説をした国際連盟理事会の第6回会合は、1938年2月2日水曜日正午から、本部のあるスイスのジュネーブで開催されている。だが、その理事会の前の1月31日に、一つの重要な会議が開かれていた。決議案の草案を検討した「四国(英、仏、蘇、支)会議」がそれである。
我々が発見した、昭和13年2月18日付外務省機密文書「第百回国際連盟理事会に於ける日支問題討議の経緯」の「四国会談に於ける決議案作成事情」によると、「…顧(代表)が第一に提出したる対日制裁の点は英仏の拒絶に依り(略)」とある。つまり、中国側が、決議案に対日制裁を盛り込むことを求めたのに対し、英仏がこれを拒否したのである。
当時、日本は、国際連盟を脱退していたが、第百会期国際連盟理事会終了後、約2週間で理事会の内容は翻訳され、当時の広田弘毅外相に報告されていた。だが、この文書は機密扱いとされ、いまだに公開されていない。
《狡猾な中国を批判した理事国》
そして、中国の主張が決議案に盛り込まれないまま2月2日の理事会が開かれた。出席したのは、ベルギー、ボリビア、イギリス、中華民国、フランス、イランなど15カ国。議題は四〇一三、中華民国政府によるアピール・議事運営手続きの問題である。
議事録を見ると、理事会前の四国会議で、決議案の草案がすでに固まっており、それをめぐって各国の代表が不満や異議を唱えていることが分かる。
◇
議長 「―議事手続きについて何か意見がありますか?」
ポーランド代表 「私は決議案の投票を棄権すること、その際に棄権の理由を説明することを提案しなければなりません」
ペルー代表 「私もまた、私の投票について公開で説明することを提案します」
中国代表 「…この議事手続きの問題は公開の会議ではなく、非公開の場で話し合うようお願いします(略)」
ペルー代表 「全世界の報道陣がこの問題に寄せている注目度のことを考えた場合、議事手続きの問題は公開セッションで議論されるべきだと思います。(略)中華民国代表を含む理事会の諸メンバーによって起草された提案の知らせを、私は数日前に受けました(略)」
エクアドル代表 「報道されているステートメントについて、理事会のどのメンバーも賛成していないと私は思います」
ペルー代表 「…理事会は予備草案を検討するために、数日前に会合することもできたはずですが、そうではなくて、私たちは間際になっていくつかの点で曖昧な、またいくつかの点でそれに内在する不明瞭さの故に気がかりなところが残る草案を与えられました。昨日、私たちが文言のすべての明細については合意に達しなかったことを、理事会は知っています。それらの理由から、遺憾ながら、私はこうした態度を取らねばなりません」
中国代表 「…私は決議の作成者の一人として引用される名誉に値しません。決議は意見の交換の結果で、理事会による決定の基礎としてできあがるものです。私は討議に参加しました(略)」
◇
そして、英仏の反対で修正された決議案が議長によって報告された。
◇
議長 「本議題に関して作成した決議案の文言は次のとおりです」
『本理事会は、極東における情勢を考慮し遺憾ながら、中国における敵対行為は継続し、本理事会の前回会合の時よりも激化したと認め、政治的また経済的復興期にある中華民国政府の努力と成果に鑑(かんが)みれば、この状況悪化を一層残念と認め、総会は、1937年10月6日付決議により、中国に対する道徳的支援を表明し、国際連盟加盟国が中国の抵抗力を弱体化し、またそれにより現在の紛争にあってその困難を増幅する効果をもつ、いかなる行動も慎み、またどのようにして諸国が個別に中国に支援を提供できるかを検討すべきであることを勧告したことを想起し、上記決議の文言に対してもっとも深甚な注意を払うことを国際連盟に求め、この状況に特別の関心を有する理事会に出席する諸国が、他の同様の関心をもつ諸国と協議して、極東における紛争の公正な解決に寄与するさらなる措置の可能性を調査する機会を失わないと信じる』
◇
この決議案が提案された後、ポーランド代表は「私は評決を棄権することを提案します」とし、ペルー代表は「決議案を作成した国が、決議案作成にあたり、他国の日常的な参加もなく、日々の意見の交換も行わなかったという事実にあります。参加や意見交換は、決議の正確な範囲を理解するための欠かせない前提条件です。(略)私は私が言及した手続き上の理由により、棄権する意思を表明いたします」として、棄権した。
一方、フランス代表は、決議案作成に参加したことを自ら明らかにして「フランス政府の考えや憂慮を誠実に反映して、弾力的なものとなっています」と述べ、決議案に賛成している。
《演説で連盟の対日行動を要求》
そして、決議案はポーランドとペルーの二国が棄権し、採択されるのだが、その前に、中国の顧代表の問題の演説が行われた。当時の外務省が広田外相に送った報告書には「日本の侵略の事実、日本軍の暴行、第三国の権益侵害、等を述べ連盟の行動を要求する趣旨の演説を為せり」とある。
顧演説の内容は次のとおりである。
◇
議長、私が皆様の前で決議案についての中国政府の見解を表明する前に、国際連盟理事会がこの状況にあって為し得ること、また私どもがぜひ希望することに関して、この数カ月間に発生した変化(註・日本軍の南京攻略)の状況を私が皆様に説明することをお認めいただけると私は信じます。
日本軍航空隊は、世界各国一致の非難を無視して無防備都市の無差別爆撃を継続し、中国市民の大量虐殺を行っています。(略)しかもその大部分は婦女子です。また、軍規厳正を常に誇りとしていた日本軍が占領した地域での残虐かつ野蛮な行為は、戦争に巻き込まれた人々の苦しみと困難を増幅し、良識と人間性の感覚に衝撃を与えました(註・ここまでは中華民国政府としての見解)。
その多くの例が中立的な目撃者によって報道され、外国の新聞に公表されていますので、その証拠をここで示す必要もほとんどありません。
説明としては、ニューヨーク・タイムズ紙の特派員の描写を引用すれば十分でしょう。これは日本軍が南京を占領下の同市で起きた恐怖の光景で、1937年12月20日にロンドンのタイムズ紙に報道されたものです。記者は言葉少なくこう述べています。「大略奪、婦女暴行、市民虐殺、住居強制立ち退き、捕虜の大量処刑、頑健者には焼き印」
日本軍が南京と杭州で犯した残虐行為につき、アメリカの大学教授や宣教師たちの報告に基づいた信頼のおける記事がもうひとつ。1938年1月28日付のデイリーテレグラフ紙とモーニングポスト紙にも掲載されています。
日本軍が南京で虐殺した中国市民の数は二万人と推定され、また若い娘を含む何千という女性が陵辱されました。(略)日本陸海軍およびその他いくつかの英米両国の船舶への砲撃、駐南京米国大使館館員への襲撃、それにいくつかの欧米諸国の国旗に対する侮辱などが挙げられます。これらの事件は「暴行、謝罪また暴行」という日本の政策に見られる欧米諸国への軽視であるばかりでなく、極東における欧米諸国の重要な権益の存在そのものを巻き込んだ重大な問題であります。
これは「中立国の権利および利益の尊重」を保障するという日本の宣伝の重要性に対して、世界の眼を荒々しくかつ苦悩を持って開かせることになりました。
《蒋介石日記に凄まじい自軍の暴虐》
演説にあるニューヨーク・タイムズなどの「大略奪、婦女暴行、市民虐殺…」について、歴史議連の総括では、国民党軍の軍紀の乱れを記述した蒋介石の日記を引用した。
それは「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の略奪場と化してしまった。戦争前には思いもよらなかった事態だ。(略)敗れたときの計画を先に立てるべきだった。撤兵時の略奪強姦など軍紀逸脱の凄(すさま)まじさにつき、世の軍事家が呼称を考えるよう望むのみだ」と自軍兵士の犯罪を嘆いているのである。
演説ではまた、諸外国の同情を引く為に、パネイ号、レディバード号とアリソン領事殴打事件まで持ち出したが、この三事件を分析することで、逆に〝南京大虐殺〟は虚構だったことを証明することになった。
歴史議連の総括によれば「ニューヨーク・タイムズとロンドン・タイムズの一九三七年十二月と一九三八年一月の記事を検証すると、一九三七年十二月は両紙ともパネイ号(米)の撃沈とレディバード号(英)が攻撃された記事が最大のニュースである。ニューヨーク・タイムズでは、その関連記事を同13日から30日まで連続18日間報道。ロンドン・タイムズでも同13日から31日まで四日間の休刊以外、連続15日間報道していた」。両紙とも、市民が〝大虐殺〟されたなど、記者が確認した記事として報道していない。
また、「第百会期国際連盟理事会」が開催された1938年1月26日―2月2日までの間、ニューヨーク・タイムズとロンドン・タイムズの重大ニュースは、1月26日のアリソン領事殴打事件である。この期間は、戦後〝南京大虐殺〟が実行されていたと喧伝されている時期と重複している。
アリソン殴打事件とは、事件調査に日本軍憲兵と同行してきたアリソン氏が、日本軍中隊長の制止を無視して、無理に家屋内に進入しようとしたため、憲兵隊伍長にアリソン氏と同行のアメリカ人一人が殴打された事件である。日本軍の陳謝に対して、アリソン氏も「検察官的不遜な態度と領事としての立場を逸脱していたこと」を詫びている。
このアリソン事件は、ニューヨーク・タイズムが、1月28日―30日まで三日連続で、ロンドンータイムズでも1月28日、29日(30日休刊)、31日と同じく三日間報道していた。現在、中国が「ホロコーストと比肩される南京大虐殺が実行されていた」と喧伝している期間内に、「約一週間もの間、ロンドン、上海、マニラのラジオニュースで大々的に報道された(略)」のがアリソン殴打事件だった。この事実は、1938年1月26日以降、一週間、アリソン殴打事件を上回る強姦、殺人事件がなかったことを示す。
顧代表の政治宣伝は尚も続く。極めつきは「田中上奏文」である。「田中上奏文」とは、南京で出版された『時事月報』に漢文で初めて掲載され、英文パンフレットとなって世界に広がった。日本政府は当初から偽書と断じ、現在では世界でも本物と見る者はいない。
《偽書まで持ち出し欧州を恫喝》
偽書「田中上奏文」を引用した顧代表の演説に戻る。
◇
「日本による中国の軍事占領の強化とその地域の拡大は、その支配征服という悪意ある政策を明らかにしています。(略)これは中国の征服、アジアの支配および最終的には世界の支配を目指したプログラムの概要を記載した田中上奏文に明らかになっています。(略)田中上奏文は、中国に対する日本の継続的侵略行為のみならず、日本軍が中国における第三国の外国公館、外国の財産、および民間人に加える用意周到な攻撃を理解するに必要な背景になっています。(略)中国は、規約第十条、第十一条および第十七条に基づき連盟に提訴しました。連盟の忠実かつ献身的な加盟国として自国の領土の保全および政治的独立に対する外部からの侵略に対する保障を求める権利を十分に有します。
この三カ条は、それだけで侵略国を抑制し、侵略の犠牲となった国を支援するための広範囲の行動を認めています。中国政府は、そのため、この義務を遂行するために必要な措置を取ることを理事会に対し、要請します(註・中国は演説のここで、連盟の「行動を要求」。また1937年9月28日と10月6日の日本非難決議は効力がないとして、再度連盟「行動を要求」している)。
連盟に対する信頼を回復しその権威を取り戻すような効果的な措置をとることが義務でもあり機会でもあることを、中国政府は心から信じます。極東における破廉恥な侵略に対処するにあたり、断固とした建設的な政策を採用することは、世界の平和愛好国家の何億人という人々の承認と支持を受けるでしょう」
◇
そして、顧代表は、日本製商品の世界的なボイコットを組織的に実行することを求め、最後まで、日本を制裁することは、「世界的な重要性」とか、「欧州の平和の要因」などと述べて、「日本の対中侵略が野放しに放置されているかぎり、欧州の平和も危機に瀕し、欧州全体の和解も実現が難しくなります」と恫喝まがいの弁説をふるい、連盟の行動を求めて終了したのである(連盟議事録の翻訳は衆議院翻訳センター)。
ちなみに、この議事録は『ドイツ外交官の見た南京事件』(石田勇治編集・翻訳、大月書店、平成十三年)でも要約され、紹介されている。しかし、「2万人の虐殺」と「何千人もの女性が辱めを受けた」という中国側の主張は掲載されているのに、顧代表が国際連盟に行動を要求した最重要部分を「以下、略」として削除しているのだ。このため、議事録の資料価値を低くみる研究者がいるが、それは最重要部分が明らかにされていなかったからなのである。
《見せかけ見抜いた当時の外務省》
中国の顧代表の演説は、理事会での決議案採択前に行われた。だが、中国は理事会の前に行われた「四国会議」にも参加しており、英仏の反対で「日本への制裁」が拒絶されたことも十分に承知しての会議で日本非難決議が通らないことを承知していたのにも拘わらず、顧代表が執拗に国際連盟の「行動を要求」していたのである。
これは中国による「政治宣伝」にほかならない。中国の〝南京大虐殺〟の政治宣伝の原点が、顧代表の国際連盟の演説にあり、まさにここからすべてがスタートしていたと見ることができるのだ。
こうした中国側の狙いについては、昭和13年2月18日付外務省機密文書「第百回国際連盟理事会に於ける日支問題討議の経緯」でも触れられている。
その分析の中では、「二月一日午後零時半ヨリ秘密会議ニ於テ一月三十一日ノ四国会談ニテ作成セル決議案ヲ上程シニ時迄審議セルガ、波乱ハ理事会外ニ於テ少数大国ノミガ勝手ニ協議シテ其ノ結果ヲ理事会二押付ケントスルガ如キ方法ニハ同意シ得ズトノ趣旨ニテ棄権ノ旨ヲ述べ披露、『エクワドル』モ本件ヲ理事会以外ニテ審議シ来レル手続ニ関シテ異議ヲ唱へ政府ニ請訓ノ要アル旨ヲ述ベタル為手続問題ニ付種々論議アリ結局一先ヅ散会シテ此等代表ニ請訓ノ余裕ヲ与フルコトト為リタリ」と理事会が紛糾したことがまず報告されている。
その上で、中国側の演説について、「今次理事会ノ決議ハ国民政府支援ノ方針ヲ維持シヌ極東ニ特殊ノ利害関係ヲ有スル諸国間ニ於テ紛争ヲ解決スル機会ヲ検討スルコトヲ期待シテ紛争解決ニ付国民政府ヲ見離サザル『ジェスチュア』ヲ示シタルハ注意ニ値スルモ大体ニ於テ昨年十月総会決議ノ範囲ヲ得出テズ、右決議中特殊利害関係アル国家卜云ヘルハ米国ヲ引入レントスル為ナルベク、今後共所謂特殊利害関係国間ニ於テ連盟二依リ又八九国条約ニ基キテ極東問題ヲ協議セントスル建前ハ崩サザルモノト認メラル」としているのだ。
つまり、当時の外務省は、顧代表の「日本非難演説」を「ジェスチュア」と見抜き、注意を喚起していたのだ。また、中国がアメリカを引き込む狙いがあった点も分析していた。つまり当時の外務省は、これが、中国の政治宣伝であることを把握していたのである。
《国民党も共産党も変わらぬデマ体質》
ただ、肝心の「南京で2万人の虐殺」という数字が報告されていない。もしこの時点で、中国が主張した「2万人」を日本側が論破していれば、今日の〝南京大虐殺〟論争などなかったであろう。
これまで〝南京大虐殺〟の政治宣伝は、英マンチェスター・ガーディアン紙記者、ティンパーリーによる『戦争とは何か=中国における日本軍の暴虐』(1938年7月、中国語に翻訳)が原点とされてきた。その中では、政治宣伝としての虐殺数は「四万人」となっていた。今回、歴史議連の総括で〝南京大虐殺〟の原点が「2万人」と判明したことは、中国の政治謀略を解明する上で、決定的な意味がある。
中国の政治謀略は、政権が国民党から共産党に代わっても本質は何ら変わることがなかった。
この点について、歴史議連は総括の中で、「国民政府政治部は陳誠を部長に、周恩来を副部長とし、その下に四つの庁を置いて抗日宣伝、情報収集等を行っていた。『戦争とは何か』は、1938年7月、中国語に訳され、郭沫若が序文を書き、抗日宣伝の教材として頒布された」と明らかにした。
南京戦当時、抗日宣伝をしていた周恩来と郭沫若は戦後、中国共産党政府の首相と副首相に就任しているのだ。これを見ても、中国の政治謀略の一体性が分かるではないか。
この国際連盟の議事録の問題は、平成19年2月21日の衆院内閣委員会で取り上げられ、自民党の戸井田徹議員の質問に対し、外務省は、「(当時)中国代表の顧維鈞という人物が、南京における旧日本軍兵士による殺害や略奪行為について言及した(略)。一方、決議においては明示的な言及はなかった」と明確に答弁しているのだ。
《不可解な調査検証時の外務省》
しかし、そこに至るまでの歴史議連・南京問題小委員会の調査に対し、外務省は〝資料隠し〟とも言える不可解な行動に終始した。
戸井田議員が今年2月9日、南京問題小委員長に就任した直後、外務省に対し、南京戦前後の国際連盟決議および議事録の提出を求めたが、同省は戸井田議員が質問に立った同月二十一日の衆院内閣委員会までに、〝読める状態〟での資料提出をしなかった。このため、戸井田議員は内閣府を通じて、「第百会期国際連盟理事会」議事録の原文を入手したのである。
しかも、中国が主張する「南京での虐殺と暴行」が決議に採択されたか否かについて、戸井田議員が外務省に問い合わせたところ、担当者は、「私の一存では答えられない」の一点張り。戸井田議員が再度「21日の内閣委員会で質問するから答えられるようにしておいてください」と申し入れると、ようやく観念したのか、同日の午前四時半になって和文タイプで打った旧字の「決議文」がファクスで送られてきた。彼らはいったいどこの国の公務員なのだろうか。
さらに、戸井田議員が「旧字の決議文」だけでなく、口語文に翻訳された全文の提出を求めたところ、外務省は「これだけしかありません」と回答している。ところが、再び、内閣府に問い合わせてみると、「第百会期国際連盟理事会」の議事録を翻訳した当時の外交文書が出てきたのである。これでは、「外務省を信用しろ」という方が無理であろう。
「歴史議連」の南京問題の調査は、さまざまな角度から検証を試みた結果、「南京攻略戦は、通常の戦場以上でも以下でもない、と判断するに至った」と総括したのである。
この総括文書の反響は、常識的に判断できるところに説得力があった。
それは、「世田谷区よりも狭いところに、朝日新聞一社だけでも約80人(毎日は約70人)の取材班が出入りしていたとなると、電信柱一―二本が倒れても気が付く取材精度を維持していたと推察される。(略)戦後、新聞労連の活動を熱心にしていた朝日と毎日の数人以外、南京で〝虐殺〟があったと語ったものはいない」との記述だけでも、「やっぱりなかったんだよね」と言ってくれた方もいる。
平成19年6月19日の歴史議連記者発表の挨拶で、当時会長だった中山成彬元文部科学相は「嘘と欺瞞が世界を席巻することになれば、近代国家の宝である自由と民主主義にとって危機的状況になる(略)。いま米国、カナダなどで作られている南京に関係した政治宣伝映画を見過ごすことはできない」と指摘した。
さらに「明治5年、横浜に停泊中のアメリカに向かう奴隷船マリア・ルーズ号の船長を裁判にかけ、監禁されていた中国人苦力230人を解放して、中国に送り返した」ことなどを実例に示して、19年当時に米下院で審議中だった慰安婦に関する日本非難決議案に苦言を呈した。
《繰り返される過ち断ち切るために》
私は不思議に思ったことがある。南京問題小委員会の勉強会で、戸井田小委員長が次々と提示してくれた資料の中に、東京裁判の判決で日本軍が「南京で二十万人の虐殺(松井総司令官個人の判決では十万人)」をしたという数字を根底から覆す「スクープ記事」の存在だ。
例えば〈〝南京虐殺〟数の積算根拠は、「『南京事件』後四カ月間に11万2267人の遺体を処理したという崇善堂の埋葬記録を検察側が加算した結果である。しかし、南京事件後四カ月間、崇善堂が活動していなかった事は、昭和60年8月10日付産経新聞が報道した阿羅健一氏のスクープ記事で証明されている〉と総括文書に記載されていたのである。
ところが、この「スクープ記事」は〝南京大虐殺〟否定派の著書で、それまでほとんど紹介されたことがなかった。それぞれの立場で検証し、明らかになったことは、互いにフェアに認め合い、積み上げて行くことが大切だと思う。
歴史議連の総括は、一次資料を中心に、戸井田衆院議員が、阿羅健一氏、佐藤和男氏、水間政憲氏の協力によって客観的にまとめられたものである。
現在、北東アジアの政治情勢は、「南京戦」以前に戻りつつある感がする。
さらに、共産党政権の中国は、反日宣伝を一層強化し、南京攻略戦から70年後の平成19年には、アメリカ下院本会議「従軍慰安婦非難決議」を実現させ、27年には国連のユネスコをも籠絡し「南京大虐殺文書」を世界記憶遺産に登録させた。
それゆえ「南京戦」を詳細に調査検証することは、非常に重要なことである。
繰り返される過ちを、断ち切るためにも。
(平成19年11月発行「別冊正論8」)
別冊正論26号より
平成28年
西川京子(元自民党歴史議連事務局長)
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《九年前に総括された「南京」の捏造》
自民党の歴史議連「日本の前途と歴史教育を考える議員の会」は平成19年6月に記者会見を開き、
「南京攻略戦は通常の戦場以上でも以下でもなかった」とする
『南京問題小委員会の調査検証の総括』を発表した。
同議連は、中国側が主張する〝大虐殺〟などなかった根拠として、「第百会期国際連盟理事会(1938年1月26日―2月2日)の議事録」などの一次資料に当たった。
その結果として、
①日本軍による南京陥落直後の1938年昭和13年、当時の国際連盟で中国の顧維鈞代表が「日本軍による2万人の虐殺と数千の女性に対する暴行があった」と報告し、国際連盟に「行動を要求」したが、「日本非難決議」として採択されなかった
②南京戦の総司令官、松井石根大将は、残虐行為を阻止しようとする義務を怠ったとして東京裁判で死刑判決を受けたが、「平和に対する罪」「人道に対する罪」の訴因は無罪だった―ことなどを挙げた。
記者会見にはAP、AFP、ロイターなど海外のメディアを含む、内外の三十数社が出席し、この問題に対する関心の高さをうかがわせた。
朝日新聞は、その「調査検証の総括」を同8月23日付『南京事件議論再燃』の記事で、〝日本側の主張〟として、南京問題小委の調査結果を引いた上、「日本 虐殺否定の動き活発化」「中国『犠牲30万』見直し論争も」と小見出しを付け〝両論併記〟で報じた。
いかにもバランスを取っているようだが、当時の中国の顧代表の国際連盟での演説を、「中国の政治宣伝の原点」としたことには触れていない。
実は、それこそが最も重要であり、現在に至る、この問題での中国の対日非難プロパガンダの始まりだったのである。
調査検証に際し、我々は中国側が〝南京大虐殺〟があったと主張する1937年昭和12年12月13日から翌13年2月までの公文書を重要な一次資料と判断して、入手に努めた。その一つが前述した「第百会期国際連盟理事会(1938年1月26日―2月2日)の議事録」である。
それを見ると、1938年2月2日正午から開催された第六回会合(非公開会議、次いで公開会議)において、中華民国の顧(こ)代表は、確かに「南京で2万人の虐殺と数千人の女性への暴行」があったと演説し、国際連盟の「行動を要求」している。
《デマ援用で日本非難宣伝を開始》
当時、日本はすでに国際連盟を脱退しており、〝反日的なムード〟に支配されていたと思われる。それにもかかわらず、国際連盟は、「行動要求」について、1937年10月6日の南京・広東に対する「日本軍の空爆を非難する案」のようには採択をしなかったのである。
しかも、国際連盟議事録にある「2万人虐殺」は、蒋介石軍からの報告ではなく、アメリカ人のベイツ教授やフィッチ牧師の伝聞を記事にした米ニューヨーク・タイムズなどの新聞報道に基づくものだった。ベイツ教授もフィッチ牧師も、単なる公平な「第三者」ではなかったのである。
フィッチ牧師は、反日活動をしていた朝鮮人の金九を自宅に匿った前歴のある人物であり、ベイツ教授は、中華民国政府の顧問だった。
蒋介石軍の将兵は、1938年1月になると、南京城内安全区から脱出して蒋介石に南京城陥落に関した軍事報告をしている。その時点で、「戦時国際法違反」を実証できる報告を蒋介石が受けていたならば、顧維鈞(いきん)代表は、国際連盟での演説に取り入れていたであろう。だが、そうした事実を確認できなかったために、「デマ」に基づく新聞記事を援用せざるを得なかったのだ。
この「2万人」という数字は、東京裁判での「20万人」や中華人民共和国が主張している公式見解の「30万人」とはケタが違うことが分かるだろう。民国時代の一番、事実を正確に把握していたであろう時に出した主張が「2万人の虐殺」なのである。繰り返すが、それすら、国際連盟で「否定」された。この議事録は、中国側の主張を覆す上で、「白眉」の資料と言っていい。
南京陥落直後から、中国国民党は、約300回もの記者会見を行ったが、その中で一度も、「南京虐殺があった」とは言っていない。
この国際連盟議事録はまさに、そのことを裏付けることができる決定的な資料である。国際連盟の会議の場で、顧代表が〝南京虐殺〟を訴えて、無視されたことを、中華民国は再度、記者会見で訴えられなかったのである。
ここで当時、この問題を討議した国際連盟の動きを詳しく振り返ってみたい。
中国の顧代表が演説をした国際連盟理事会の第6回会合は、1938年2月2日水曜日正午から、本部のあるスイスのジュネーブで開催されている。だが、その理事会の前の1月31日に、一つの重要な会議が開かれていた。決議案の草案を検討した「四国(英、仏、蘇、支)会議」がそれである。
我々が発見した、昭和13年2月18日付外務省機密文書「第百回国際連盟理事会に於ける日支問題討議の経緯」の「四国会談に於ける決議案作成事情」によると、「…顧(代表)が第一に提出したる対日制裁の点は英仏の拒絶に依り(略)」とある。つまり、中国側が、決議案に対日制裁を盛り込むことを求めたのに対し、英仏がこれを拒否したのである。
当時、日本は、国際連盟を脱退していたが、第百会期国際連盟理事会終了後、約2週間で理事会の内容は翻訳され、当時の広田弘毅外相に報告されていた。だが、この文書は機密扱いとされ、いまだに公開されていない。
《狡猾な中国を批判した理事国》
そして、中国の主張が決議案に盛り込まれないまま2月2日の理事会が開かれた。出席したのは、ベルギー、ボリビア、イギリス、中華民国、フランス、イランなど15カ国。議題は四〇一三、中華民国政府によるアピール・議事運営手続きの問題である。
議事録を見ると、理事会前の四国会議で、決議案の草案がすでに固まっており、それをめぐって各国の代表が不満や異議を唱えていることが分かる。
◇
議長 「―議事手続きについて何か意見がありますか?」
ポーランド代表 「私は決議案の投票を棄権すること、その際に棄権の理由を説明することを提案しなければなりません」
ペルー代表 「私もまた、私の投票について公開で説明することを提案します」
中国代表 「…この議事手続きの問題は公開の会議ではなく、非公開の場で話し合うようお願いします(略)」
ペルー代表 「全世界の報道陣がこの問題に寄せている注目度のことを考えた場合、議事手続きの問題は公開セッションで議論されるべきだと思います。(略)中華民国代表を含む理事会の諸メンバーによって起草された提案の知らせを、私は数日前に受けました(略)」
エクアドル代表 「報道されているステートメントについて、理事会のどのメンバーも賛成していないと私は思います」
ペルー代表 「…理事会は予備草案を検討するために、数日前に会合することもできたはずですが、そうではなくて、私たちは間際になっていくつかの点で曖昧な、またいくつかの点でそれに内在する不明瞭さの故に気がかりなところが残る草案を与えられました。昨日、私たちが文言のすべての明細については合意に達しなかったことを、理事会は知っています。それらの理由から、遺憾ながら、私はこうした態度を取らねばなりません」
中国代表 「…私は決議の作成者の一人として引用される名誉に値しません。決議は意見の交換の結果で、理事会による決定の基礎としてできあがるものです。私は討議に参加しました(略)」
◇
そして、英仏の反対で修正された決議案が議長によって報告された。
◇
議長 「本議題に関して作成した決議案の文言は次のとおりです」
『本理事会は、極東における情勢を考慮し遺憾ながら、中国における敵対行為は継続し、本理事会の前回会合の時よりも激化したと認め、政治的また経済的復興期にある中華民国政府の努力と成果に鑑(かんが)みれば、この状況悪化を一層残念と認め、総会は、1937年10月6日付決議により、中国に対する道徳的支援を表明し、国際連盟加盟国が中国の抵抗力を弱体化し、またそれにより現在の紛争にあってその困難を増幅する効果をもつ、いかなる行動も慎み、またどのようにして諸国が個別に中国に支援を提供できるかを検討すべきであることを勧告したことを想起し、上記決議の文言に対してもっとも深甚な注意を払うことを国際連盟に求め、この状況に特別の関心を有する理事会に出席する諸国が、他の同様の関心をもつ諸国と協議して、極東における紛争の公正な解決に寄与するさらなる措置の可能性を調査する機会を失わないと信じる』
◇
この決議案が提案された後、ポーランド代表は「私は評決を棄権することを提案します」とし、ペルー代表は「決議案を作成した国が、決議案作成にあたり、他国の日常的な参加もなく、日々の意見の交換も行わなかったという事実にあります。参加や意見交換は、決議の正確な範囲を理解するための欠かせない前提条件です。(略)私は私が言及した手続き上の理由により、棄権する意思を表明いたします」として、棄権した。
一方、フランス代表は、決議案作成に参加したことを自ら明らかにして「フランス政府の考えや憂慮を誠実に反映して、弾力的なものとなっています」と述べ、決議案に賛成している。
《演説で連盟の対日行動を要求》
そして、決議案はポーランドとペルーの二国が棄権し、採択されるのだが、その前に、中国の顧代表の問題の演説が行われた。当時の外務省が広田外相に送った報告書には「日本の侵略の事実、日本軍の暴行、第三国の権益侵害、等を述べ連盟の行動を要求する趣旨の演説を為せり」とある。
顧演説の内容は次のとおりである。
◇
議長、私が皆様の前で決議案についての中国政府の見解を表明する前に、国際連盟理事会がこの状況にあって為し得ること、また私どもがぜひ希望することに関して、この数カ月間に発生した変化(註・日本軍の南京攻略)の状況を私が皆様に説明することをお認めいただけると私は信じます。
日本軍航空隊は、世界各国一致の非難を無視して無防備都市の無差別爆撃を継続し、中国市民の大量虐殺を行っています。(略)しかもその大部分は婦女子です。また、軍規厳正を常に誇りとしていた日本軍が占領した地域での残虐かつ野蛮な行為は、戦争に巻き込まれた人々の苦しみと困難を増幅し、良識と人間性の感覚に衝撃を与えました(註・ここまでは中華民国政府としての見解)。
その多くの例が中立的な目撃者によって報道され、外国の新聞に公表されていますので、その証拠をここで示す必要もほとんどありません。
説明としては、ニューヨーク・タイムズ紙の特派員の描写を引用すれば十分でしょう。これは日本軍が南京を占領下の同市で起きた恐怖の光景で、1937年12月20日にロンドンのタイムズ紙に報道されたものです。記者は言葉少なくこう述べています。「大略奪、婦女暴行、市民虐殺、住居強制立ち退き、捕虜の大量処刑、頑健者には焼き印」
日本軍が南京と杭州で犯した残虐行為につき、アメリカの大学教授や宣教師たちの報告に基づいた信頼のおける記事がもうひとつ。1938年1月28日付のデイリーテレグラフ紙とモーニングポスト紙にも掲載されています。
日本軍が南京で虐殺した中国市民の数は二万人と推定され、また若い娘を含む何千という女性が陵辱されました。(略)日本陸海軍およびその他いくつかの英米両国の船舶への砲撃、駐南京米国大使館館員への襲撃、それにいくつかの欧米諸国の国旗に対する侮辱などが挙げられます。これらの事件は「暴行、謝罪また暴行」という日本の政策に見られる欧米諸国への軽視であるばかりでなく、極東における欧米諸国の重要な権益の存在そのものを巻き込んだ重大な問題であります。
これは「中立国の権利および利益の尊重」を保障するという日本の宣伝の重要性に対して、世界の眼を荒々しくかつ苦悩を持って開かせることになりました。
《蒋介石日記に凄まじい自軍の暴虐》
演説にあるニューヨーク・タイムズなどの「大略奪、婦女暴行、市民虐殺…」について、歴史議連の総括では、国民党軍の軍紀の乱れを記述した蒋介石の日記を引用した。
それは「抗戦の果てに東南の豊かな地域が敗残兵の略奪場と化してしまった。戦争前には思いもよらなかった事態だ。(略)敗れたときの計画を先に立てるべきだった。撤兵時の略奪強姦など軍紀逸脱の凄(すさま)まじさにつき、世の軍事家が呼称を考えるよう望むのみだ」と自軍兵士の犯罪を嘆いているのである。
演説ではまた、諸外国の同情を引く為に、パネイ号、レディバード号とアリソン領事殴打事件まで持ち出したが、この三事件を分析することで、逆に〝南京大虐殺〟は虚構だったことを証明することになった。
歴史議連の総括によれば「ニューヨーク・タイムズとロンドン・タイムズの一九三七年十二月と一九三八年一月の記事を検証すると、一九三七年十二月は両紙ともパネイ号(米)の撃沈とレディバード号(英)が攻撃された記事が最大のニュースである。ニューヨーク・タイムズでは、その関連記事を同13日から30日まで連続18日間報道。ロンドン・タイムズでも同13日から31日まで四日間の休刊以外、連続15日間報道していた」。両紙とも、市民が〝大虐殺〟されたなど、記者が確認した記事として報道していない。
また、「第百会期国際連盟理事会」が開催された1938年1月26日―2月2日までの間、ニューヨーク・タイムズとロンドン・タイムズの重大ニュースは、1月26日のアリソン領事殴打事件である。この期間は、戦後〝南京大虐殺〟が実行されていたと喧伝されている時期と重複している。
アリソン殴打事件とは、事件調査に日本軍憲兵と同行してきたアリソン氏が、日本軍中隊長の制止を無視して、無理に家屋内に進入しようとしたため、憲兵隊伍長にアリソン氏と同行のアメリカ人一人が殴打された事件である。日本軍の陳謝に対して、アリソン氏も「検察官的不遜な態度と領事としての立場を逸脱していたこと」を詫びている。
このアリソン事件は、ニューヨーク・タイズムが、1月28日―30日まで三日連続で、ロンドンータイムズでも1月28日、29日(30日休刊)、31日と同じく三日間報道していた。現在、中国が「ホロコーストと比肩される南京大虐殺が実行されていた」と喧伝している期間内に、「約一週間もの間、ロンドン、上海、マニラのラジオニュースで大々的に報道された(略)」のがアリソン殴打事件だった。この事実は、1938年1月26日以降、一週間、アリソン殴打事件を上回る強姦、殺人事件がなかったことを示す。
顧代表の政治宣伝は尚も続く。極めつきは「田中上奏文」である。「田中上奏文」とは、南京で出版された『時事月報』に漢文で初めて掲載され、英文パンフレットとなって世界に広がった。日本政府は当初から偽書と断じ、現在では世界でも本物と見る者はいない。
《偽書まで持ち出し欧州を恫喝》
偽書「田中上奏文」を引用した顧代表の演説に戻る。
◇
「日本による中国の軍事占領の強化とその地域の拡大は、その支配征服という悪意ある政策を明らかにしています。(略)これは中国の征服、アジアの支配および最終的には世界の支配を目指したプログラムの概要を記載した田中上奏文に明らかになっています。(略)田中上奏文は、中国に対する日本の継続的侵略行為のみならず、日本軍が中国における第三国の外国公館、外国の財産、および民間人に加える用意周到な攻撃を理解するに必要な背景になっています。(略)中国は、規約第十条、第十一条および第十七条に基づき連盟に提訴しました。連盟の忠実かつ献身的な加盟国として自国の領土の保全および政治的独立に対する外部からの侵略に対する保障を求める権利を十分に有します。
この三カ条は、それだけで侵略国を抑制し、侵略の犠牲となった国を支援するための広範囲の行動を認めています。中国政府は、そのため、この義務を遂行するために必要な措置を取ることを理事会に対し、要請します(註・中国は演説のここで、連盟の「行動を要求」。また1937年9月28日と10月6日の日本非難決議は効力がないとして、再度連盟「行動を要求」している)。
連盟に対する信頼を回復しその権威を取り戻すような効果的な措置をとることが義務でもあり機会でもあることを、中国政府は心から信じます。極東における破廉恥な侵略に対処するにあたり、断固とした建設的な政策を採用することは、世界の平和愛好国家の何億人という人々の承認と支持を受けるでしょう」
◇
そして、顧代表は、日本製商品の世界的なボイコットを組織的に実行することを求め、最後まで、日本を制裁することは、「世界的な重要性」とか、「欧州の平和の要因」などと述べて、「日本の対中侵略が野放しに放置されているかぎり、欧州の平和も危機に瀕し、欧州全体の和解も実現が難しくなります」と恫喝まがいの弁説をふるい、連盟の行動を求めて終了したのである(連盟議事録の翻訳は衆議院翻訳センター)。
ちなみに、この議事録は『ドイツ外交官の見た南京事件』(石田勇治編集・翻訳、大月書店、平成十三年)でも要約され、紹介されている。しかし、「2万人の虐殺」と「何千人もの女性が辱めを受けた」という中国側の主張は掲載されているのに、顧代表が国際連盟に行動を要求した最重要部分を「以下、略」として削除しているのだ。このため、議事録の資料価値を低くみる研究者がいるが、それは最重要部分が明らかにされていなかったからなのである。
《見せかけ見抜いた当時の外務省》
中国の顧代表の演説は、理事会での決議案採択前に行われた。だが、中国は理事会の前に行われた「四国会議」にも参加しており、英仏の反対で「日本への制裁」が拒絶されたことも十分に承知しての会議で日本非難決議が通らないことを承知していたのにも拘わらず、顧代表が執拗に国際連盟の「行動を要求」していたのである。
これは中国による「政治宣伝」にほかならない。中国の〝南京大虐殺〟の政治宣伝の原点が、顧代表の国際連盟の演説にあり、まさにここからすべてがスタートしていたと見ることができるのだ。
こうした中国側の狙いについては、昭和13年2月18日付外務省機密文書「第百回国際連盟理事会に於ける日支問題討議の経緯」でも触れられている。
その分析の中では、「二月一日午後零時半ヨリ秘密会議ニ於テ一月三十一日ノ四国会談ニテ作成セル決議案ヲ上程シニ時迄審議セルガ、波乱ハ理事会外ニ於テ少数大国ノミガ勝手ニ協議シテ其ノ結果ヲ理事会二押付ケントスルガ如キ方法ニハ同意シ得ズトノ趣旨ニテ棄権ノ旨ヲ述べ披露、『エクワドル』モ本件ヲ理事会以外ニテ審議シ来レル手続ニ関シテ異議ヲ唱へ政府ニ請訓ノ要アル旨ヲ述ベタル為手続問題ニ付種々論議アリ結局一先ヅ散会シテ此等代表ニ請訓ノ余裕ヲ与フルコトト為リタリ」と理事会が紛糾したことがまず報告されている。
その上で、中国側の演説について、「今次理事会ノ決議ハ国民政府支援ノ方針ヲ維持シヌ極東ニ特殊ノ利害関係ヲ有スル諸国間ニ於テ紛争ヲ解決スル機会ヲ検討スルコトヲ期待シテ紛争解決ニ付国民政府ヲ見離サザル『ジェスチュア』ヲ示シタルハ注意ニ値スルモ大体ニ於テ昨年十月総会決議ノ範囲ヲ得出テズ、右決議中特殊利害関係アル国家卜云ヘルハ米国ヲ引入レントスル為ナルベク、今後共所謂特殊利害関係国間ニ於テ連盟二依リ又八九国条約ニ基キテ極東問題ヲ協議セントスル建前ハ崩サザルモノト認メラル」としているのだ。
つまり、当時の外務省は、顧代表の「日本非難演説」を「ジェスチュア」と見抜き、注意を喚起していたのだ。また、中国がアメリカを引き込む狙いがあった点も分析していた。つまり当時の外務省は、これが、中国の政治宣伝であることを把握していたのである。
《国民党も共産党も変わらぬデマ体質》
ただ、肝心の「南京で2万人の虐殺」という数字が報告されていない。もしこの時点で、中国が主張した「2万人」を日本側が論破していれば、今日の〝南京大虐殺〟論争などなかったであろう。
これまで〝南京大虐殺〟の政治宣伝は、英マンチェスター・ガーディアン紙記者、ティンパーリーによる『戦争とは何か=中国における日本軍の暴虐』(1938年7月、中国語に翻訳)が原点とされてきた。その中では、政治宣伝としての虐殺数は「四万人」となっていた。今回、歴史議連の総括で〝南京大虐殺〟の原点が「2万人」と判明したことは、中国の政治謀略を解明する上で、決定的な意味がある。
中国の政治謀略は、政権が国民党から共産党に代わっても本質は何ら変わることがなかった。
この点について、歴史議連は総括の中で、「国民政府政治部は陳誠を部長に、周恩来を副部長とし、その下に四つの庁を置いて抗日宣伝、情報収集等を行っていた。『戦争とは何か』は、1938年7月、中国語に訳され、郭沫若が序文を書き、抗日宣伝の教材として頒布された」と明らかにした。
南京戦当時、抗日宣伝をしていた周恩来と郭沫若は戦後、中国共産党政府の首相と副首相に就任しているのだ。これを見ても、中国の政治謀略の一体性が分かるではないか。
この国際連盟の議事録の問題は、平成19年2月21日の衆院内閣委員会で取り上げられ、自民党の戸井田徹議員の質問に対し、外務省は、「(当時)中国代表の顧維鈞という人物が、南京における旧日本軍兵士による殺害や略奪行為について言及した(略)。一方、決議においては明示的な言及はなかった」と明確に答弁しているのだ。
《不可解な調査検証時の外務省》
しかし、そこに至るまでの歴史議連・南京問題小委員会の調査に対し、外務省は〝資料隠し〟とも言える不可解な行動に終始した。
戸井田議員が今年2月9日、南京問題小委員長に就任した直後、外務省に対し、南京戦前後の国際連盟決議および議事録の提出を求めたが、同省は戸井田議員が質問に立った同月二十一日の衆院内閣委員会までに、〝読める状態〟での資料提出をしなかった。このため、戸井田議員は内閣府を通じて、「第百会期国際連盟理事会」議事録の原文を入手したのである。
しかも、中国が主張する「南京での虐殺と暴行」が決議に採択されたか否かについて、戸井田議員が外務省に問い合わせたところ、担当者は、「私の一存では答えられない」の一点張り。戸井田議員が再度「21日の内閣委員会で質問するから答えられるようにしておいてください」と申し入れると、ようやく観念したのか、同日の午前四時半になって和文タイプで打った旧字の「決議文」がファクスで送られてきた。彼らはいったいどこの国の公務員なのだろうか。
さらに、戸井田議員が「旧字の決議文」だけでなく、口語文に翻訳された全文の提出を求めたところ、外務省は「これだけしかありません」と回答している。ところが、再び、内閣府に問い合わせてみると、「第百会期国際連盟理事会」の議事録を翻訳した当時の外交文書が出てきたのである。これでは、「外務省を信用しろ」という方が無理であろう。
「歴史議連」の南京問題の調査は、さまざまな角度から検証を試みた結果、「南京攻略戦は、通常の戦場以上でも以下でもない、と判断するに至った」と総括したのである。
この総括文書の反響は、常識的に判断できるところに説得力があった。
それは、「世田谷区よりも狭いところに、朝日新聞一社だけでも約80人(毎日は約70人)の取材班が出入りしていたとなると、電信柱一―二本が倒れても気が付く取材精度を維持していたと推察される。(略)戦後、新聞労連の活動を熱心にしていた朝日と毎日の数人以外、南京で〝虐殺〟があったと語ったものはいない」との記述だけでも、「やっぱりなかったんだよね」と言ってくれた方もいる。
平成19年6月19日の歴史議連記者発表の挨拶で、当時会長だった中山成彬元文部科学相は「嘘と欺瞞が世界を席巻することになれば、近代国家の宝である自由と民主主義にとって危機的状況になる(略)。いま米国、カナダなどで作られている南京に関係した政治宣伝映画を見過ごすことはできない」と指摘した。
さらに「明治5年、横浜に停泊中のアメリカに向かう奴隷船マリア・ルーズ号の船長を裁判にかけ、監禁されていた中国人苦力230人を解放して、中国に送り返した」ことなどを実例に示して、19年当時に米下院で審議中だった慰安婦に関する日本非難決議案に苦言を呈した。
《繰り返される過ち断ち切るために》
私は不思議に思ったことがある。南京問題小委員会の勉強会で、戸井田小委員長が次々と提示してくれた資料の中に、東京裁判の判決で日本軍が「南京で二十万人の虐殺(松井総司令官個人の判決では十万人)」をしたという数字を根底から覆す「スクープ記事」の存在だ。
例えば〈〝南京虐殺〟数の積算根拠は、「『南京事件』後四カ月間に11万2267人の遺体を処理したという崇善堂の埋葬記録を検察側が加算した結果である。しかし、南京事件後四カ月間、崇善堂が活動していなかった事は、昭和60年8月10日付産経新聞が報道した阿羅健一氏のスクープ記事で証明されている〉と総括文書に記載されていたのである。
ところが、この「スクープ記事」は〝南京大虐殺〟否定派の著書で、それまでほとんど紹介されたことがなかった。それぞれの立場で検証し、明らかになったことは、互いにフェアに認め合い、積み上げて行くことが大切だと思う。
歴史議連の総括は、一次資料を中心に、戸井田衆院議員が、阿羅健一氏、佐藤和男氏、水間政憲氏の協力によって客観的にまとめられたものである。
現在、北東アジアの政治情勢は、「南京戦」以前に戻りつつある感がする。
さらに、共産党政権の中国は、反日宣伝を一層強化し、南京攻略戦から70年後の平成19年には、アメリカ下院本会議「従軍慰安婦非難決議」を実現させ、27年には国連のユネスコをも籠絡し「南京大虐殺文書」を世界記憶遺産に登録させた。
それゆえ「南京戦」を詳細に調査検証することは、非常に重要なことである。
繰り返される過ちを、断ち切るためにも。
(平成19年11月発行「別冊正論8」)