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Oh!マツリ☆ゴト 昭和・平成のヒーロー&ピーポー
会期:2019年1月12日~3月17日
会場:兵庫県立美術館
美術批評・理論家
すがわら しんやの評論
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ねぶたの技法を用いて制作された会田誠の《MONUMENT FOR NOTHING V 〜にほんのまつり〜》(2019)は、本展タイトルの二重性を象徴的に示しているような作品である。すなわち、この作品は、お祭り(ねぶた)とまつりごと(国会)、昭和(陸軍二等兵の亡霊)と平成(国会)、ピーポー(陸軍二等兵の亡霊)とヒーロー(国会)(*1)といったように二分割を律儀なまでに提示し、両者の関係性を思考するよう我々に促しているのである。
本展は「まつりごと」、つまり政治をそのテーマのひとつとしているが、図録の「解題」によれば本展で「政治」という言葉を用いる場合、ハンナ・アレントの政治の定義を参照しているという。『政治の約束』においてアレントは「政治は人間の複数性(plurality)という事実に基づいている」(*2)と簡潔に述べている。換言すれば、彼女にとって政治とは、絶対的差異において平等に存在する複数の人々のあいだに立ち現れるものなのである。このことは最終第5章で提示されるピーポーとヒーローとの新たな関係性と関連づけて考えることができるだろう。じつはピーポーとヒーローは必ずしも相互排他的なものではない。この章に出品されている、しりあがり寿の四コママンガ『地球防衛家のヒトビト』(*3)では、ピーポーがピーポーでありつつも勇気を持ってささやかなヒーローとなる可能性が提示されている。それは、担当学芸員の小林公が図録において引用しているアレントの次のような言葉とも関わるだろう。「自分の素敵な隠れ場所を去って、自分が誰であるかを示し、自分自身を暴露し、身をさらす。勇気は、いや大胆ささえ、このような行為の中にすでに現れているのである」(*4)。そして小林が言うように「アレントはそのように公共空間に姿を現す人々のことを現実の世界に生きる主人公、英雄=ヒーローと呼んだ」 。
ここでは、ピーポーとヒーローとの関係性が完全に分離しないかたちでとらえ直され、ピーポーかつヒーローであるという新しい可能性が示されているのである。つまり、ピーポーの一人ひとりは勇気をもって公共空間に姿を現し、主人公、英雄となって、それぞれが絶対的な差異において複数のヒーローとして行動することができるのである。最後にそうした可能性を描き出して終わる本展は、ポピュリズムに顕著なようにピーポーとヒーローが結託することで自らと物事を一元化する可能性をはらんでいる現代において、物事を一面的にとらえることを拒否し、つねにその複数の様相を表すことによってアレント的「政治」における複数性をパフォーマティブに提示しているのである。
*1──ピーポー(陸軍二等兵)とヒーロー(国会)という対比は固定的なものではなく、戦死した兵士を「英霊」として祭り上げ英雄化することによって「ヒーローとしての兵士」と「ピーポーの代表としての国会」というかたちで、戦争動員のための国家主義的プロパガンダとして反転される場合もあるだろう。第4章に展示されている、戦没者の家族に送られた「誉の家」という表札はまさにそうした死者のヒーロー化という転倒を表している。
*2──ハンナ・アレント『政治の約束』ジェローム・コーン編、高橋勇夫訳、筑摩書房、2018年、p.181
*3──このタイトルもまたヒーロー(地球防衛家)とピーポー(ヒトビト)という2つの要素から成り立っていると考えることができるだろう。
*4──「Oh!マツリ☆ゴト 昭和・平成のヒーロー&ピーポー」展図録、p.221、ハンナ・アーレント『人間の条件』筑摩書房、1994年、p.303
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正直芸術なるもののセンスが問われるのだろうが、私には"ねぶた"からインスパイアされてこの日本兵は無いだろうと正直思う。
この日本兵の表情はまるでデスノートの悪魔にも共通の邪悪なものしか感じないからである。
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すなわち英霊を神格化しているとは到底思えないし、すがわら氏の解説もサッパリだ。
何でもグロテスクに誇張すれば芸術的と呼べるのなら悪いが現代美術への理解は一生無理かも知れない。
つまり、現代美術に於いて政治的メッセージが込められるのであれば慰安婦像や徴用工像、果ては
南京大記念館の像と同じモニュメント的要素が強く美術作品とは意味合いが異なるからである。
そのような考えの上で改めて日本兵の作品を見ると悪意しか感じず、作者は"ねぶた"よりは上記モニュメントからインスパイアされた可能性を感じてしまうのである。
これは個人的な感想であるが、勿論作者にも表現の自由があり、不快なら見なければ良いだけの話である。
しかしながら安倍総理のモノマネで『周辺諸国を植民地支配し、侵略戦争を起こしたことを謝罪する』作品?となると話は変わってくる。
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謂わば近隣諸国(特ア)と拗れているのは歴史認識からくる戦後賠償であり、この『』認識こそが間違いであるからである。
これを政府がオーストリアと友好のレセプションで公認開催支援することは国益を損なうどころの騒ぎではなく、今後歴史として語り継がれて永遠に日本の足枷となる可能性が極めて高いからだ。
会田誠の言い訳(資料、前ブログ)は私には到底理解し難いものであり、この問題を取り上げたshin氏をポチと揶揄し晒す人権侵害は芸術家のそれとはかけ離れた左翼活動家であることを露呈させたのである。