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震洋隊は小型ボートに爆弾を搭載し敵艦に体当たりするという攻撃だ。主に上陸時の輸送船から上陸用の舟艇に乗り込む時を狙って突撃し、上陸阻止を目的としている。
特攻隊としてはあまり知られていないが部隊は北は北海道、南は台湾、ボルネオ島に至るまで配属されている。
したがって沖縄戦や本土決戦直前の終戦直前辺りの最終兵器的役割で太平洋側に秘密基地として格納用の洞穴が本土各地に点在している。
高知県香南市住吉海岸にも震洋の特攻基地があるが、そこには大きな慰霊碑がある。
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昭和20年8月16日出撃準備命令が下され準備中に111名が亡くなるという悲惨な事故が起きている。
前日の15日に玉音放送が流れたとはいえ、戦闘停止命令が出なければ、戦闘態勢をとれるよう待機警戒していたことは当然である。
15日に大本営海軍軍令部総長が停戦命令を発していたようだが、敵が来攻してきた場合自衛のために応戦することは許容範囲であったのだ。したがって日本軍が一切の戦闘行為を停止させたのは8月22日となる。
爆発事故の原因については、震洋艇の1隻からガソリンが漏れていて、それに引火したとされている。
このような16日の状況で「土佐沖ニ敵艦ミユ」との情報が入り、第23突撃隊本部が配下の震洋隊に出撃準備命令を出したことは当然正当な命令となる。
更に発令したのは、出撃命令ではなく、「第一警戒配備トナセ」という出撃準備命令であり、終戦後の不法な命令はこれにあたらない。
爆発事故の原因については、震洋艇の1隻からガソリンが漏れていて、それに引火したとされている。
フィリピンのコレヒドール島に派遣されていた第7震洋隊でも90名が死亡する爆発事故が起きていることからも、如何に戦果を二の次とするギリギリのところで戦わざるを得なかったことが伺える。
戦後の左翼的戦争否定の観点から終戦後にも関わらず特攻命令を出し無用な事故で大惨事となった。という理解は現在ではその被害性を強調して靖国神社に向けられる。
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当時震洋の艇隊長であった岩井忠隈氏の証言がYouTubeにアップされている。
岩井氏は後半百田尚樹の永遠のゼロを取り上げて特攻賛美であり得ない、とても危険な話と痛烈に批判し、自身の体験から罪人まで区別無しに靖国神社の祭神となっていることに釈然とせず、神として拝むことが出来ないと胸の内を明かしている。
また天皇の為に死すことを忠臣とすることを思想の歪みと捉え靖国を釈然としない施設であるとしている。
A級戦犯を祀ることで外国から不信を買うのは当然とし、歴史修正主義を歴史を偽ることとして批判している。
また慰安婦に関しても戦地に赴くことを逃げようがないから強制連行であるとし、南京事件も連隊長の捕虜虐殺の話から憶測して、抹消的な数の問題でなく実際に有ったと断言している。
つまり、政治が歴史を歪めているのであって、自分達が戦後築き上げた外国からの信用を政治がぶち壊しているとの政権批判が岩井氏の思想の核にあるのだろう。
これだけ3時間以上も饒舌に語る95歳がいることに驚かされる。存命なら100歳である。
大学に関連し書籍も書いている岩井氏は歴史の証言者と歴史家を併せ持った人物だろう。彼が反戦を称えるのは許容するとしても、学徒出陣世代はその自身の戦争体験を被害と捉える。
したがって靖国神社を慰霊施設以上の顕彰施設として捉えがちとなる。戦争を否定的に捉えるあまり英霊を戦争被害者として分け隔ててしまうのである。
具体的に例を挙げれば、南方で戦死したのではなく、戦わず餓死した者達は明らかに国や軍の被害者であり、それを英霊などと神として祀ることは単にその責任逃れとしか思えないとする考えだ。
これが現在の靖国神社の直面する分祀論の根幹だろう。自分達の戦争被害をぶつける先が靖国神社になってしまっているのだ。
このように分祀論は戦争体験者の多くに見られ分祀を不可能とする靖国神社と対立している。
冒頭、戦後の震洋の大事故で亡くなった111名は戦闘で倒れた訳でなく、被害者的側面が大きいが、だからといって靖国に祀られない理由にはならないだろう。
つまり、靖国神社の合祀の基準が戦後変化していると言えるのだ。本来、戦前戦中の合祀基準は厳格であり、軍人に限定され、病死者は含まれない。更にA級戦犯と言われる指導的立場の人間は祀る側の立場であった。
戦後これらの基準が緩和して、対馬丸の児童、真岡郵便局の女性職員等の民間人も対象となり、鎮霊社には白虎隊や西郷隆盛、敵国兵士まで祀られている。つまり、所謂A級戦犯を合祀することが戦後の靖国神社の本質の変化を意味しているのである。
したがって靖国神社は岩井氏の考えるような当時の靖国とは変化していて、忠臣が神聖化される場から不戦の誓いと慰霊する場へと時を経て変質したと言えるのだろう。