まずこの問題を批判する前にあなた自身がもし、
第五航空艦隊司令長官の任に就いたと想像してみて下さい。
『参加兵力は、海軍の第5航空艦隊・第1機動基地航空部隊(在九州、司令長官:宇垣纏中将。なお、海軍指揮下の陸軍雷撃隊所属の雷撃機型の四式重爆撃機「飛龍」部隊2個飛行戦隊を含む)、第5基地航空部隊(在台湾)、および第3、第10航空艦隊の一部を主体とし、陸軍の第6航空軍(在九州、司令官:菅原道大中将)と第8飛行師団(在台湾、師団長:山本健児中将)も連合艦隊司令長官の指揮下に入ることとなった。そして、特攻作戦として海軍の「菊水作戦」と陸軍の「航空総攻撃」が準備されたのです。』
作戦は第一号(1945年4月6日-11日)から第十号(6月21日-22日)まで実施され、その後も終戦までの間、断続的に特攻が続けられたのです。
'
Wikiより引用です。
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『1945年(昭和20年)2月、第五航空艦隊司令長官に就任する。第五航空艦隊鹿屋特攻隊昭和隊所属の杉山幸照少尉は戦後「中将は自らが戦局打開の鍵を握っていると錯覚していた」と語っている。』
『時期や部隊運用の判断についても混乱があった。長駆鹿屋基地から3,000km離れた米軍機動部隊本拠地のウルシー環礁まで特攻攻撃に出した銀河部隊「梓隊」24機・誘導の二式飛行艇3機に対して「万一天候其ノ他ノ渉外ノ為指揮官ニ於テ成功覚束ナシト認メタル場合ハ 機ヲ失セズ善処シテ再挙ヲ計レ 決シテ事ヲ急グ必要ハナイ」と訓示、出撃時期を迷い、3月10日には発進した攻撃隊を一度引き返させている。3月11日の再出撃では、銀河のエンジン不調により24機中7機が脱落して帰投。さらに発進を1時間遅らせたため梓隊の到着は夜間となり、結果は米軍正規空母1隻(ランドルフ)を大破させたにとどまった。』
『本土空襲に来襲した米軍機動部隊に対し、3日間の通常攻撃及び70機の特攻機を散発的に出撃させ攻撃後、不十分な敵情把握と戦果の過大判断の末に4日目の3月21日現地部隊の反対を「必死必殺を誓っている若い連中を呼び戻すに忍びない」として押し切り桜花特攻部隊神雷部隊を出撃させ、護衛部隊の零式艦上戦闘機をのぞけば「桜花」は母機諸共全機帰還しなかった。』
『菊水一号作戦が発動されると一日の出撃数としては海軍特攻として過去最多の161機を出撃させたが、これも目標到達時間を統一しなかったことから飽和攻撃とはならず、結果的に散発的攻撃ではあったが、陸軍も第一次航空総攻撃(特攻機61機)を実施しており、7日の56機出撃と合わせると戦果は駆逐艦3隻、掃海艇4隻、揚陸艇 (LST) 2隻、貨物船2隻撃沈、正規空母1隻、護衛空母1隻、戦艦1隻、駆逐艦大破7隻を含む15隻、掃海艇7隻損傷(他に魚雷艇2隻、LCIなど)にまで上った。この際、連合艦隊司令部の強引な作戦指導により戦艦「大和」以下第二艦隊が米軍機動部隊航空機の猛攻により壊滅している。宇垣は突然決まった水上特攻作戦に不満を抱きつつも、特攻隊護衛機の一部を割いて第二艦隊の上空護衛を行っている。この2日間の戦闘で損傷した正規空母は「ハンコック」中破のみであり、主力艦で言えば護衛空母が2隻、戦艦が3隻小中破した程度であった。』
『戦艦「大和」以下の第二艦隊による水上特攻作戦(坊ノ岬沖海戦)の際、連合艦隊司令部は第二艦隊に対し護衛戦闘機を出す事を計画していなかったが、宇垣は第五航空歓待長官の権限で大和以下の艦隊に護衛戦闘機(零戦)部隊を出撃させた。護衛戦闘機搭乗員には他の任務がある都合上、途中までの護衛となる。』
『その後も菊水作戦は6月以降まで行われたが兵力の枯渇や、散発的な使用により、果果しい戦果を挙げられないまま終戦に至った。8月10日付で第五航空艦隊司令長官の職を解かれた。』
『宇垣の用兵に対し、「特攻隊を人と見るより物と見る思想」、「軍人は死ぬことが名誉であると思っていた」という批判が戦後軍令部や関係者からなされた』
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まずはじめに当時の中将クラスでは部下はおよそ1万人くらいだったと言われています。この作戦はその中将クラスを数名指揮下においたもので宇垣中将は事実上大将とみても良いかもしれません。
停戦命令としては3日に分けて完全な停戦命令が発せられています。
8月15日宇垣からは訣別電があり、「敵空母見ユ」「ワレ必中突入ス」を最後に無電は途絶えたことになっていますが16日であったとの説が次の記録から有力とされています。
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「蒼空の果てに」宇垣特攻八月十六日説
の記事より抜粋、
そこで、鶴谷一尉が終戦当時
大分基地の通信室に
勤務していたと言うので、
「鶴さん、宇垣長官の最後の電報だけど、
あんな堅苦しい文章が暗号に組めるの?
それとも、平文で打ってきたの?」と、尋ねた。
「隊長、あんた何んにも分かってないねー、
あの訓示は出発する前、
封筒に入れて通信士
に預けて行ったのよ……、
飛行機から打ってきたのは、
開封の指示と時間だけなのよ……」
「それに、皆はあれを八月十五日だと
思っているけど、
本当は十六日なのよ……」
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秦郁彦は16日の48号が正式な停戦命令であると主張します。様々な批判意見がある中で16日を15日に変え、正式な軍の命令を採用したかの擁護する工作がなされているとも言えます。
◆大海令第四十七号(積極的攻撃を禁止)
昭和二十年八月十五日
奉勅 軍令部総長 豊田副武
小沢海軍総司令長官ニ命令
何分ノ令アル迄対米英蘇支積極進攻作戦ハ之ヲ見合ハスベシ
◆大海令第四十八号(戦闘を中止、但し自衛は可)
昭和二十年八月十六日
奉勅 軍令部総長 豊田副武
草鹿南東方面艦隊司令長官
大川内南西方面艦隊司令長官
小沢海軍総司令長官ニ命令
一、 南東方面艦隊司令長官、南西方面艦隊司令長官
及海軍総司令長官ハ指揮下海陸軍全部隊ヲシテ
即時戦闘行動ヲ停止セシムベシ
但シ停戦交渉成立ニ至ル間敵ノ来攻ニ当リテハ止ムヲ得ザル
自衛ノ為ノ戦闘行動ハ之ヲ妨ゲズ
二、 前項各司令長官ハ戦闘行動ヲ停止セバ
其ノ日時ヲ直ニ報告スベシ
三、 細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ指示セシム
◆大海令第四十九号(一切の戦闘停止)
昭和二十年八月十七日
奉勅 軍令部総長 豊田副武
草鹿南東方面艦隊司令長官
大川内南西方面艦隊司令長官
小沢海軍総司令長官ニ命令
一、 南東方面艦隊司令長官、南西方面艦隊司令長官
及海軍総司令長官ハ別ニ定ムル時機以後指揮下
海陸軍全部隊ヲシテ一切ノ戦闘行為ヲ停止セシムベシ
二、 前項各司令長官ハ指揮下各部隊(艦艇)ヲシテ
給養ニ便ナル適宣ノ地域(固有繋留港内地所在ノモノハ
成ル可ク所属軍港)ニ集結シ爾後ノ処理ニ関シ
準備セシムルコトヲ得
三、 細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ指示セシム
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刊行された『戦藻録』にはその序文の一部と第6巻
がなくなっています。
その序文は1941年(昭和16年)10月22日に宇垣が第一航空艦隊の人事につき山本五十六に「南雲長官と草鹿参謀長を更迭し長官後任に小沢治三郎を用いるよう進言し山本から同意を得たという記述の部分です。
また第六巻1943年(昭和18年)4月頃までの日記は欠落して、戦後に連合艦隊先任参謀であった「黒島亀人」が東京裁判の証人として利用するとして借受も紛失する。冨士信夫によれば、黒島が証人として東京裁判に出廷したことはないことがわかっています。
第六巻の範囲は1943年1月1日から4月2日。ガダルカナル島撤収作戦、東部ニューギニアのラエ増援作戦、4月に予定された航空大攻勢の準備について記載があったであろうと考えられています。
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黒島亀人海軍少将はわずか3才でロシアに出稼ぎの父を亡くし、母親に捨てられ黒島家に養子に入っています。連合艦隊首席(先任)参謀、兼第一艦隊首席参謀を異例の4年以上続けられたのは山本五十六大将に寵愛されていたからです。
戦後企業し山本の妻を副社長に迎えています。恐らく黒島は山本五十六に関する部分を抜いたのでしょう。変わり者、悪人のように言われますが、
歴史に"もし"は、ありませんが、彼が山本の地位にいたら日本はこの戦いに勝っていたかも知れないぐらいの人物なのです。
宇垣の批判は停戦命令に違反して若者を連れて特攻した事と「もし成功していたら停戦協定違反に怒った米軍の報復爆撃で死ななくてもいい日本人が更に沢山死んでいた」とのものが殆どです。
宇垣が絶賛した芙蓉部隊の美濃部正少佐は「この世で罪人以外は自らの命を他人に命じられて失うことはおかしい」と大西瀧治郎に語り、「こんなむごい戦争があるか」と声を荒らげ、特攻に反対した人物です。
その美濃部も戦後に「戦後よく特攻戦法を批判する人がいるが、それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎない。
当時の軍籍に身を置いた者にとって負けてよい戦法は論外である。
不可能を可能とすべき代案なきかぎり特攻もまたやむをえないと今でも思う。
戦いの厳しさはヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない」と語っています。
また「ああいう愚かな作戦をなぜあみだしたか、私は今もそれを考えている」とも語っています。
特攻が無駄死、犬死とまで批判される戦後の行き過ぎた反省は戦没者の犠牲を全て指導者の責任にして、勝てる見込みの無い無謀な戦争を始めたとします。
少しでも粗があれば頭ごなしに否定的で非情な歴史観へとなっていくのです。vol.3では宇垣中将と共に特攻した中都留大尉に関してです。