天皇陛下の靖国神社御親拝を希望する会会長

日本人の歴史認識は間違っています。皇紀2675年こんなに続いた国は世界の何処を探しても日本しかありません。

恐怖 救命士のマッチポンプ

2016-02-18 13:54:02 | 事件


消防士が自ら火を放ち自分で消す、所謂マッチポンプは実際には勤務中に放火など出来ないので主に自作自演の場合に比喩表現として使われる言葉
だ。

そんなマッチポンプを使うことも憚れる残忍な事件がおこってしまった。救急救命士の資格を持つ介護職の男が介護老人をビルから突き落とし3人も殺害してしまった。

自分で救う為に落としたことを自供したようだが
常軌を逸している。

何故この様な残忍な事件が起きてしまうのだろうか?

犯人は周囲に認めてもらいたかったと供述しているようだが、スキルアップと受け入れる職場のズレがあるように思える。

彼を弁護するつもりは微塵もないが、救急救命士の資格を取得したが、実際には夜勤の看護師という日の当たらない激務だ。

戦後の利己的な個人主義は国の為に命をかけることの愚かさを強調し徹底的に排除してきたが、公私ともに命の概念に無頓着となり、他人からの評価や賞賛が最重要な生きる課題となる。

戦前の大切な道徳観や倫理観まで宗教観と伴に否定してしまったことに問題があるとすれば、戦後教育の偏差値重視とビジネスとしての教育が齎した弊害とも言えるのではないだろうか。

日本の心を大切にする党が蔑ろにされているこの時代の利己的な日本人にはこの事件が恐らく対岸の火事としか写っていないのかと思うと遣る瀬無い気持ちになる。

これからも似たような事件が頻発する気がしてならない。


女子差別撤廃委員会対日審査って

2016-02-18 01:13:38 | 時事


日本政府は16日午後、国連欧州本部で開かれた女子差別撤廃委員会の対日審査で慰安婦問題に関する事実関係を説明した。

どうやら未だに海外から性奴隷を人身売買し中国で大虐殺を行った国としてこの日本は見られているようだ。

案の定韓国からは国連での日本の主張を日韓合意を裏切る行為と批判があがっている。

慰安婦問題は日本が女子差別撤廃条約を締約した1985(昭和60)年以前のことで、同条約は締結以前に生じた問題については遡(さかのぼ)って適用されないことから「慰安婦問題を同条約の実施状況の報告で取り上げるのは適切ではないということが、日本政府の基本的な考え方だ」とも述べたが、過去に触れないようにすればする程
意図せぬ誤解を招きかねない。

そもそも日本の朝日新聞の誤報、捏造記事と日本人の吉田証言に端を発しているとする言い訳を外国人が理解出来るのかという問題もある。

これらすべての元凶は東京裁判史観にある。つまり、日本人の手によって日本軍を貶めている限り小手先の慰安婦、南京大虐殺の歴史捏造でさえ覆そうとすれば、リビジョニスト、リビジョニズムに写ってしまう。

今頃慰安婦の弁解を敵国条項の日本が国連で主張しても欧米諸国からは奇異な行為とみられてしまう。中韓のロビー活動は潤沢な資金で二歩も三歩も先を行っている。

ドイツが国連でガス室は無かったと主張している感覚に同化してしまうのだ。

中国は南沙諸島で軍備を増強させているが、南京大虐殺を覆そうとすれば格好の理由を与えることにも成り得てしまう。

つまり日本は良い国だったとセンセーショナルなデビューをした田母神俊雄元航空幕僚長の出現に危機意識、危険人物との視線を浴びせた自民党与党は彼を更迭したが、今まさに世界はあの時と同じ視線で日本を見ているに違いない。

これが自国の近現代史を70年教えていないことの証であり、東京裁判史観で高度成長した日本の宿命かもしれない。

侵略と植民地支配を認めた日本が慰安婦、大虐殺は無かったと主張することがどんなふうに写っているかを非常に不適切だが解りやすい例えで例えて終わりにする。


未成年はここまでで終わりです。これより下は見ないで下さい。非常に不適切な表現があります。











































【女性物の下着を上下に付けコートを羽織り、そのポケットには数点の自前の下着を入れた中年男性が下着ドロボーの嫌疑をかけられている状態】











百人斬り訴訟を忘れないこと

2016-02-17 01:43:35 | 歴史
「市中引き回しの上打ち首獄門」
時代劇で良く耳にする言葉ですが、罪状を書いたものと罪人を馬に乗せ市中を回り打ち首をして晒すのです。一般的な死罪ですが、特徴は晒すという罰が死罪に付加されていることでしょうか。

現代の価値観では残忍と思われるかも知れませんが、それ以前は苦痛の伴う張り付けにされて槍で突くといったより残忍なものが徐々に軽減されていった事を加味すれば自然な流れかも知れません。

川崎中学一年生殺害の犯人は9年以上13年以下の不定期刑が確定したようですが、被害者家族は当然のことながら世間でも甘すぎるとの怒りを交えた声があがっています。

甘いとすら感じる検察の求刑よりも軽い司法の判断が死者と遺族に対しては余りに非情で残忍な判決となって帰ってくるのです。

これが仇討が禁止され極刑が絞首刑とされる死人に口なしの人権もクソも無い悪人に優しい現行司法であり、世間の常識からも乖離する傾向にあるようです。

つまり犯罪が残虐化しても刑法が固定されている以上司法判断に限界があるために起こるべくして起こっている現象なのかもしれません。

このような被害者と遺族は蚊帳の外の裁判が痛感される訴訟が原告敗訴の結果として記憶に新しい
百人斬り訴訟が思い出されます。




まずなによりお二人の遺書をお読み下さい。

向井少尉遺書(抜粋)
「我は天地天命に誓い捕虜住民を殺害せる事全然なし。南京虐殺事件等への罪は絶対に受けません。死は天命と思い日本男児として立派に中国の土になります。然れ共魂は大八洲に帰ります。わが死を以て中国抗戦八年の苦杯の遺恨流れ去り、日華親善、東洋平和の因となれば捨石となり幸いです。中国の奮闘を祈る。中国万歳、日本万歳、天皇陛下万歳、死して護国の鬼となります」

野田少尉遺書(抜粋)
「俘虜、非戦闘員の虐殺、南京虐殺事件の罪名は絶対にお受けできません。お断りいたします。死を賜りましたことについては天なりと観じ命なりと諦め、日本男児の最後の如何なるものであるかをお見せ致します。
今後は我々を最後として我々の生命を以て、残余の戦犯嫌疑者の公正なる裁判に代えられん事をお願いいたします。宣伝や政策的意味を以て死刑を判決したり、面目を以て感情的に判決したり、或は抗戦八年の恨み晴らさんが為、一方的裁判をしたりなされない様祈願いたします。我々は死刑を執行されて雨花台に散りましても貴国を怨むものではありません。我々の死が中国と日本の楔となり、両国の提携となり、東洋平和の人柱となり、ひいては世界平和が到来することを喜ぶものであります。何卒、我々の死を犬死、徒死たらしめない様、これだけを祈願いたします。中国万歳、日本万歳、天皇陛下万歳」

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百人斬り訴訟とは当時の戦意向上のための前線勇士の武勇談として創作されたもので、全くの虚構であったものが真実として南京大虐殺の虚構と混ざり合いながら日本軍の汚点として扱われたのです。

毎日新聞は国民を煽り強い日本を美化賞賛していたのです。その意味では当時の国民側を残虐な空気が支配し日本軍を盛り立てていたことは紛れも無い事実でしょう。

しかしながら毎日新聞は創作であることを認めないばかりか、朝日新聞、柏書房、本多勝一はその反省から遺族と二人の名誉毀損にあたる行為を書き続けたのです。

遺族が原告となって訴訟をおこしましたが、
毎日新聞、朝日新聞、柏書房、本多勝一の勝訴、原告敗訴が確定しています。

日本軍悪玉論とも言われる東京裁判史観が司法に与える最大の過失性が認められる裁判ではないでしょうか。

選挙のついでに✖︎をつけるだけの原始的な裁判官の選出方法さえ疑問に思える昨今、司法判断と一般的民意の乖離は見過ごすことの出来ない問題として声を上げ続けなければならないし、無罪となったものたちの偽善性も国民の手で「市中引き回し」ぐらいは行うべきだと確信します。

宇垣纒を擁護するvol.3

2016-02-16 01:24:21 | 歴史





中都留達雄大尉に関して下記のような記事を見つけました。小学生に対して話すにはこれでよいかも知れませんが、1箇所重要な部分のニュアンスが
平和の為に改竄されています。


平成27年度
大分市立横瀬西小学校
学校通信よりコピペ----------------------------

「中都留大尉の遺徳を偲んで」

前々任校の堅徳小学校の校区に堅浦という地区があり,その道路沿いに「中津留達雄大尉のお墓」という案内板が立っています。 本日、登校日の全校平和集会時に,この中津留達雄 大尉のことを子どもたちに,話しました。 昭和20年(1945)年8月15日夕刻、終戦直後に上官の命令で、沖縄のアメリカ軍基地に向け大分基地から特攻出 撃し新婚1年4ヶ月の妻と3週間前に生まれたばかりの愛娘を残して23歳の若さで亡くなった大尉(のち少佐)の
お話です。子どもの頃から成績優秀、温和な性格で思慮深く職務に忠実、技量に優れ部下に大変慕われていた方です。

城山 三郎著「指揮官たちの特攻―幸福は花びらのごとく」(新潮社)では次のように推測しています。 「その夜、特攻機は沖縄・伊平屋島の米軍基地に到達した。日本の無条件降伏で米軍の勝利が確定したことから、米 軍の対空砲火を受けなかった。明々と電灯がつけられた同基地では、平和と勝利を喜ぶパーティーの最中であった。 宇垣長官の独断であり国の命令ではないことを悟った中津留は、特攻機彗星の操縦桿を左に切り、基地を避けて岩礁 に激突したのである。続く部下機もまた、基地を越えて、水田に自爆した。」


大分県津久見の堅浦地区の墓の入り口の案内板に

最後の特攻隊長として、堅浦地区 のお墓の入り口には案内板があり、お墓には、搭乗機の大きさの10分の1の約1メートル大の模型が設置されてい ます。この設置については、2009年9月24日付け大分合同新聞にも取り上げられています。記事には、除幕式にそ の時の5年生21人も参加したとあります。また当時区長だった方の「城山さんの本を涙ながらに読んで功績を知っ た。語り継ぐことが世界平和につながることを願っています。」との挨拶も記されています。もし、終戦なのに、部 下の機を引き連れ、突入していたなら、どうなったか。アメリカのその後の占領政策もさらに過酷で違っていたもの になっていたろうともいわれます。・・私も3年前の16日,蝉時雨の中にあって,凜として建つ お墓にお参りしてお花を供えさせていただいたことを昨日のように思い出しています。

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「新婚1年4ヶ月の妻と3週間前に生まれたばかりの愛娘を残して23歳の若さで亡くなった大尉の
お話です。子どもの頃から成績優秀、温和な性格で思慮深く職務に忠実、技量に優れ部下に大変慕われて」となれば、まずなにより先に「可哀想」
という同情の感情からの涙があふれます。

宇垣中将の独断で終戦を知らされず、途中で気付き目標を避ける。となればもう騙されて死ななくても良い命を宇垣中将の為に落としてしまった。

と指導者としての資質に問題をスライドさせて、軍国主義は悪、戦争責任は指導者にあり。

この様に平和の為なら何でも改竄、疑わしきものには蓋をする。といったことが占領軍の指導の元に東京裁判史観として戦後語り伝えられてきました。

現代の価値観(愛国心の欠落した)で考えれば、宇垣中将は一人で切腹すれば良かったなどと考えてしまいますが、皆さんはどのように感じるでしょうか。

宇垣中将が通信士に渡し、機上から電文として送ったとされている最後の言葉です。


『過去半歳にわたる麾下各部隊の奮戦にかかわらず、
驕敵を撃砕し神州護持の大任を果すこと能わざりしは、
本職不敏の致すところなり。

本職は皇国無窮と天航空部隊特攻精神の昂揚を確信し、
部隊隊員が桜花と散りし沖縄に進攻、
皇国武人の本領を発揮し驕敵米艦に突入撃沈す。

指揮下各部隊は本職の意を体し、

来るべき凡ゆる苦難を克服し、
精強なる国軍を再建し、
皇国を万世無窮ならしめよ。

天皇陛下万歳』

『皇室の永遠と特攻精神の高揚』は果たされているのでしょうか?



宇垣は「彗星」を5機用意するように部下の宮崎先任参謀、田中航空参謀、中津留達雄大尉に命じた。特攻機は6機多い11機が用意され、これに対し宇垣は「命令は5機」と発言したが、指揮所前には22名の搭乗員たちが整列しており、そのことについて宇垣が問いかけると、中津留大尉は「出動可能機全機で同行する。命令が変更されないなら命令違反を承知で同行する」と答えたのです。



最後に兵舎前に集められた22名の特攻兵たちの前で、第五航空艦隊司令部長官である宇垣纏中将が、訓示をしする写真です。

『本日、わが国はポツダム宣言を受諾した。

小官は幾多 の特攻隊員を犠牲にしてきて、誠に遺憾にたえない。

これから沖縄に最後の殴り込みを掛けるから、諸君、ついて行ってくれないか』

と訓示というより嘆願の言葉を投げかけたのです。

この時の22名と宇垣は皆敗戦を確信し同じ気持ちで一体となっていたのでしょう。
しかし、待っていたのは暴風の様な艦砲射撃では無い事で目標を見失ったのでしょう。
彼等以前に特攻で亡くなったものと18人は全て卑劣な特攻、無惨な特攻で無駄死したのではなく
日本の存続の為、平和の為に散っていったのです。

否定的に批判するのでなく、彼等の記憶は日本を守る不撓不屈の精神は語り継いでいかなければならないと感じます。



宇垣纏を擁護するvol.2

2016-02-14 19:02:33 | 歴史
まずこの問題を批判する前にあなた自身がもし、
第五航空艦隊司令長官の任に就いたと想像してみて下さい。


『参加兵力は、海軍の第5航空艦隊・第1機動基地航空部隊(在九州、司令長官:宇垣纏中将。なお、海軍指揮下の陸軍雷撃隊所属の雷撃機型の四式重爆撃機「飛龍」部隊2個飛行戦隊を含む)、第5基地航空部隊(在台湾)、および第3、第10航空艦隊の一部を主体とし、陸軍の第6航空軍(在九州、司令官:菅原道大中将)と第8飛行師団(在台湾、師団長:山本健児中将)も連合艦隊司令長官の指揮下に入ることとなった。そして、特攻作戦として海軍の「菊水作戦」と陸軍の「航空総攻撃」が準備されたのです。』

作戦は第一号(1945年4月6日-11日)から第十号(6月21日-22日)まで実施され、その後も終戦までの間、断続的に特攻が続けられたのです。
'

Wikiより引用です。

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『1945年(昭和20年)2月、第五航空艦隊司令長官に就任する。第五航空艦隊鹿屋特攻隊昭和隊所属の杉山幸照少尉は戦後「中将は自らが戦局打開の鍵を握っていると錯覚していた」と語っている。』

『時期や部隊運用の判断についても混乱があった。長駆鹿屋基地から3,000km離れた米軍機動部隊本拠地のウルシー環礁まで特攻攻撃に出した銀河部隊「梓隊」24機・誘導の二式飛行艇3機に対して「万一天候其ノ他ノ渉外ノ為指揮官ニ於テ成功覚束ナシト認メタル場合ハ 機ヲ失セズ善処シテ再挙ヲ計レ 決シテ事ヲ急グ必要ハナイ」と訓示、出撃時期を迷い、3月10日には発進した攻撃隊を一度引き返させている。3月11日の再出撃では、銀河のエンジン不調により24機中7機が脱落して帰投。さらに発進を1時間遅らせたため梓隊の到着は夜間となり、結果は米軍正規空母1隻(ランドルフ)を大破させたにとどまった。』

『本土空襲に来襲した米軍機動部隊に対し、3日間の通常攻撃及び70機の特攻機を散発的に出撃させ攻撃後、不十分な敵情把握と戦果の過大判断の末に4日目の3月21日現地部隊の反対を「必死必殺を誓っている若い連中を呼び戻すに忍びない」として押し切り桜花特攻部隊神雷部隊を出撃させ、護衛部隊の零式艦上戦闘機をのぞけば「桜花」は母機諸共全機帰還しなかった。』

『菊水一号作戦が発動されると一日の出撃数としては海軍特攻として過去最多の161機を出撃させたが、これも目標到達時間を統一しなかったことから飽和攻撃とはならず、結果的に散発的攻撃ではあったが、陸軍も第一次航空総攻撃(特攻機61機)を実施しており、7日の56機出撃と合わせると戦果は駆逐艦3隻、掃海艇4隻、揚陸艇 (LST) 2隻、貨物船2隻撃沈、正規空母1隻、護衛空母1隻、戦艦1隻、駆逐艦大破7隻を含む15隻、掃海艇7隻損傷(他に魚雷艇2隻、LCIなど)にまで上った。この際、連合艦隊司令部の強引な作戦指導により戦艦「大和」以下第二艦隊が米軍機動部隊航空機の猛攻により壊滅している。宇垣は突然決まった水上特攻作戦に不満を抱きつつも、特攻隊護衛機の一部を割いて第二艦隊の上空護衛を行っている。この2日間の戦闘で損傷した正規空母は「ハンコック」中破のみであり、主力艦で言えば護衛空母が2隻、戦艦が3隻小中破した程度であった。』

『戦艦「大和」以下の第二艦隊による水上特攻作戦(坊ノ岬沖海戦)の際、連合艦隊司令部は第二艦隊に対し護衛戦闘機を出す事を計画していなかったが、宇垣は第五航空歓待長官の権限で大和以下の艦隊に護衛戦闘機(零戦)部隊を出撃させた。護衛戦闘機搭乗員には他の任務がある都合上、途中までの護衛となる。』

『その後も菊水作戦は6月以降まで行われたが兵力の枯渇や、散発的な使用により、果果しい戦果を挙げられないまま終戦に至った。8月10日付で第五航空艦隊司令長官の職を解かれた。』

『宇垣の用兵に対し、「特攻隊を人と見るより物と見る思想」、「軍人は死ぬことが名誉であると思っていた」という批判が戦後軍令部や関係者からなされた』

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まずはじめに当時の中将クラスでは部下はおよそ1万人くらいだったと言われています。この作戦はその中将クラスを数名指揮下においたもので宇垣中将は事実上大将とみても良いかもしれません。

停戦命令としては3日に分けて完全な停戦命令が発せられています。

8月15日宇垣からは訣別電があり、「敵空母見ユ」「ワレ必中突入ス」を最後に無電は途絶えたことになっていますが16日であったとの説が次の記録から有力とされています。
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「蒼空の果てに」宇垣特攻八月十六日説
の記事より抜粋、

そこで、鶴谷一尉が終戦当時
大分基地の通信室に
勤務していたと言うので、
「鶴さん、宇垣長官の最後の電報だけど、
あんな堅苦しい文章が暗号に組めるの?
それとも、平文で打ってきたの?」と、尋ねた。

「隊長、あんた何んにも分かってないねー、
あの訓示は出発する前、
封筒に入れて通信士
に預けて行ったのよ……、
飛行機から打ってきたのは、
開封の指示と時間だけなのよ……」
「それに、皆はあれを八月十五日だと
思っているけど、
本当は十六日なのよ……」
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秦郁彦は16日の48号が正式な停戦命令であると主張します。様々な批判意見がある中で16日を15日に変え、正式な軍の命令を採用したかの擁護する工作がなされているとも言えます。


◆大海令第四十七号(積極的攻撃を禁止)

昭和二十年八月十五日
奉勅 軍令部総長 豊田副武
小沢海軍総司令長官ニ命令
何分ノ令アル迄対米英蘇支積極進攻作戦ハ之ヲ見合ハスベシ

◆大海令第四十八号(戦闘を中止、但し自衛は可)

昭和二十年八月十六日
奉勅 軍令部総長 豊田副武
草鹿南東方面艦隊司令長官
大川内南西方面艦隊司令長官
小沢海軍総司令長官ニ命令
一、 南東方面艦隊司令長官、南西方面艦隊司令長官
及海軍総司令長官ハ指揮下海陸軍全部隊ヲシテ
即時戦闘行動ヲ停止セシムベシ
但シ停戦交渉成立ニ至ル間敵ノ来攻ニ当リテハ止ムヲ得ザル
自衛ノ為ノ戦闘行動ハ之ヲ妨ゲズ
二、 前項各司令長官ハ戦闘行動ヲ停止セバ
其ノ日時ヲ直ニ報告スベシ
三、 細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ指示セシム

◆大海令第四十九号(一切の戦闘停止)

昭和二十年八月十七日
奉勅 軍令部総長 豊田副武
草鹿南東方面艦隊司令長官
大川内南西方面艦隊司令長官
小沢海軍総司令長官ニ命令
一、 南東方面艦隊司令長官、南西方面艦隊司令長官
及海軍総司令長官ハ別ニ定ムル時機以後指揮下
海陸軍全部隊ヲシテ一切ノ戦闘行為ヲ停止セシムベシ
二、 前項各司令長官ハ指揮下各部隊(艦艇)ヲシテ
給養ニ便ナル適宣ノ地域(固有繋留港内地所在ノモノハ
成ル可ク所属軍港)ニ集結シ爾後ノ処理ニ関シ
準備セシムルコトヲ得
三、 細項ニ関シテハ軍令部総長ヲシテ指示セシム

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刊行された『戦藻録』にはその序文の一部と第6巻
がなくなっています。

その序文は1941年(昭和16年)10月22日に宇垣が第一航空艦隊の人事につき山本五十六に「南雲長官と草鹿参謀長を更迭し長官後任に小沢治三郎を用いるよう進言し山本から同意を得たという記述の部分です。

また第六巻1943年(昭和18年)4月頃までの日記は欠落して、戦後に連合艦隊先任参謀であった「黒島亀人」が東京裁判の証人として利用するとして借受も紛失する。冨士信夫によれば、黒島が証人として東京裁判に出廷したことはないことがわかっています。

第六巻の範囲は1943年1月1日から4月2日。ガダルカナル島撤収作戦、東部ニューギニアのラエ増援作戦、4月に予定された航空大攻勢の準備について記載があったであろうと考えられています。


黒島亀人海軍少将はわずか3才でロシアに出稼ぎの父を亡くし、母親に捨てられ黒島家に養子に入っています。連合艦隊首席(先任)参謀、兼第一艦隊首席参謀を異例の4年以上続けられたのは山本五十六大将に寵愛されていたからです。

戦後企業し山本の妻を副社長に迎えています。恐らく黒島は山本五十六に関する部分を抜いたのでしょう。変わり者、悪人のように言われますが、
歴史に"もし"は、ありませんが、彼が山本の地位にいたら日本はこの戦いに勝っていたかも知れないぐらいの人物なのです。


宇垣の批判は停戦命令に違反して若者を連れて特攻した事と「もし成功していたら停戦協定違反に怒った米軍の報復爆撃で死ななくてもいい日本人が更に沢山死んでいた」とのものが殆どです。

宇垣が絶賛した芙蓉部隊の美濃部正少佐は「この世で罪人以外は自らの命を他人に命じられて失うことはおかしい」と大西瀧治郎に語り、「こんなむごい戦争があるか」と声を荒らげ、特攻に反対した人物です。

その美濃部も戦後に「戦後よく特攻戦法を批判する人がいるが、それは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎない。
当時の軍籍に身を置いた者にとって負けてよい戦法は論外である。
不可能を可能とすべき代案なきかぎり特攻もまたやむをえないと今でも思う。
戦いの厳しさはヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない」と語っています。
また「ああいう愚かな作戦をなぜあみだしたか、私は今もそれを考えている」とも語っています。

特攻が無駄死、犬死とまで批判される戦後の行き過ぎた反省は戦没者の犠牲を全て指導者の責任にして、勝てる見込みの無い無謀な戦争を始めたとします。

少しでも粗があれば頭ごなしに否定的で非情な歴史観へとなっていくのです。vol.3では宇垣中将と共に特攻した中都留大尉に関してです。