自宅上空のそら
自我に正面からぶつかった本がある。
私とは何者であるか。自我とは何かを説明するのはなかなか難しいいのですが、平たく言えば、「私とは何か」を自分自身に問う意識で、「自己意識」と言ってもいいでしょう。自我が肥大化すると、がんじがらめになって容易にそこから抜け出せないことがあります。その病理的な肥大化は、相当深刻なところまできていて、「うつ」や「ひきこもり」といった心の病とも深くかかわっているようです。他者と相互に承認しあわない一方的な自我はありえないというのが、私のいまの実感です。もっと言えば、他者を排除した自我というものもありえないのです。(「悩む力」)
さて、自我を薄める方法はあるのだろうか。それはある。宇宙を意識して自己の役割を掘り下げて行けば、自我は薄まる。さらに自己称の停止を続けると、自己中心性が薄まる。自我が薄まると、うつ病が治る。身近に実例を知る。
自我は自己と我己に分かれる。このことは何度か書いた。自己は見えない。不思議なものだ。生命を操る何者かである。我己は、社会で着ているものである。親、部長、自治会長などである。この着物を着て、社会を演じている。ところで、過去にこのブログに載せた文章を再び紹介したい。
競争社会は自我が強くないと生きるのがむずかしくないか。
自我が強い社会はつかれやすくないか。
自我があると争ってしまわないか。
自我がないと生きていけなくはないか。
65億の自我が共鳴できれば楽しくないか。
60兆人体細胞のように調和ある社会はできないものか。
こころおだやかに生きることはできないものか。
ひとは、生まれて、命名により、初めて自我を意識する。自我が薄くなると、他者を、ゼロではないが、意識しなくなるものである。こころ思い乱れるなかでも、たんたんと、社会益を追う、日々となる。さて、こんな日々はあるのだろうか?
自己益=他者益=共同益の精神で、生きていますが。他者にもその精神がないと。他者からは、変人としか見られていない恐れがあります。
しかし、この天星自我は、この生き方をしています。
他者との衝突で、引きこもる。衝突を避けない、しかし、衝突が目的でない。こんな生き方。
心穏かに生きて行きたいですね。
青い空に向かって深呼吸をし、静かに雲の流れと共に心を自由自在に思いのままにですね。
自我の壁は、果たして、破れるのか。血縁あり、地縁あり、利害ありです。
だが、根本では、薄くすることが可能かな、と思っています。