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吉井勇が若き日に、新詩社の仲間五人と九州を旅した「五足の靴」の足跡を辿っています。
紀行文「五足の靴」には長崎の記述がすっぽりと抜けているので、消えた足跡を辿るのは簡単ではありません。
そこで、このことについて研究された鶴田文史氏の著書「西海の南蛮文化探訪『五足の靴』幻の長崎編・要の島原編」を参考にさせてもらい、氏が発掘された「『五足の靴』長崎ロード」を基に吉井と縁の所も加えながら長崎の街を歩くことにしました。
今回は西坂から筑後通りを歩きました。
西坂
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西坂は二十六聖人殉教の地です。明治40年の九州旅行「五足の靴」が「切支丹の遺跡探訪を主としたような旅行になってしまった」(「筑紫雑記一」)と吉井勇が述懐しているので、浦上天主堂から諏訪神社の途中にあったこの地には立ち寄ったかもしれません。もちろんその頃は写真にあるような記念館は建ってはいませんでしたが。
この西坂から諏訪神社まではお寺が続きます。昼に稲佐を出て、浦上天主堂、諏訪神社、そして夕刻には上野屋旅館に着くためには、筑後通りにあるお寺は素通りだったと思われますが、後年の吉勇と縁があるお寺もあるので今回の私の長崎探訪では本蓮寺、福済寺、聖福寺と訪ねました。
本蓮寺
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左上に見えているのが本堂です。「長崎三大寺」と言われるほどの大きな寺でしたが、原爆で焼失したそうです。写真の階段下にはかっての山門の礎石がそのまま残されています。写真上部の真ん中に日蓮上人の像が海に向かって建てられています。本蓮寺は「昔は野母半島をも望む景勝地だった」(長崎公式観光サイトtravel nagasaki)そうですが、今はビルが立ち並び、海は見ることができません。
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実はこの本蓮寺は吉井勇と縁のあるお寺になっています。それは吉井勇の蓬莱池を詠んだ歌碑がこの地に移されているからです。(この辺の経緯は →「本蓮寺に移されていた吉井勇の歌碑 「とこしへに水清かれと祈らまし…」)
本蓮寺にある吉井勇の歌碑
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とこしへに水きよかれと祈らまし蓬莱の池を見はるかしつつ
突如と現れる大観音様にドッキリ!
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あの観音様が次に行く福済寺です。
福済寺
福済寺は黄檗宗のお寺で「長崎4福寺」の一つですが、他の唐寺とは趣が異なります。昔は大きな寺で今の国宝にあたる特別保護建造物だったそうですが原爆で焼失し再建されました。戦後、原爆被災者と戦没者の冥福を祈って建てられたのが先ほど見えていた大きな観音様「万国霊廟長崎観音」です。
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この観音様の下はお堂になっていて、地下には平和について考えさせられる遺品や、原爆で焼けた瓦や戦前の写真などが展示されていました。
「シノザキと記した水筒」
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「シノザキと記してあり遺族を探しています」と。
「テニアン島にて」
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「テニアン島」の文字と、さらには「遺骨は13柱収集したが他の多くの遺骨は来年度収集に行く予定」の文字が心に残りました。
「テニアン島」は太平洋戦争末期の激戦地で、日本軍が玉砕した島であり、その後B-29の基地になった島です。そのテニアン島を飛び立ったB-29が祖母山系の障子岳付近で墜落する事故があったことを、障子岳に登ったときに知りました、「テニアン島」という名前も。
B-29墜落の地(障子岳から親父岳に伸びる尾根の鞍部)
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旧日本兵の遺骨収集や遺品を遺族に届ける活動をされているの方々と同じように、異国の地に墜落したB-29の遺族を探したり、いまだに機体の残骸を掘り出したりしている人たちとつい先日遭遇したばかりでした。「墜落の地」の説明板に書かれていた「テニアン島」の文字を、まさか長崎探訪のお寺で目にするとは思いもしませんでした。
焼け野原となった跡地に建てられた観音様
静かに長崎の街を見渡しておられます。
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同じく焼け野原に建立された「鎮魂の鐘」
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この鐘は原爆が投下された11時2分に、毎日7打(1打で1万人の魂を鎮める)されるそうです。
「五足の靴」当時の福済寺の写真も展示してありました。
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福済寺国宝大観門
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「国宝大観門ヨリ鐘鼓楼ヲ望ム」
貴重な建物でしたが、5人連れの一行は人力車の車窓より眺めただけで先を急いだことでしょう。
福済寺の隣に建つのが聖福寺です。
聖福寺
聖福寺も「五足の靴」当時は素通りしたと思われますが、後に吉井勇と関係の深いお寺となります。というのは、昭和27年に「じゃがたらお春」の歌碑がここの境内に建立されたからです。なお、その除幕式には夫人同伴で吉井は長崎を訪れています。
「じゃがたらお春」の歌碑
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長崎の鶯は鳴くいまもなほじゃがたら文のお春あはれと
除幕式にて詠んだ歌
長崎に来る旅人の目にながく残れよと思ふ碑にむかひて
今回聖福寺を訪れたら大掛かりな改修中でした。
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狭い通路を抜けていくと
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大雄宝殿はシートに覆われ見学できませんでした。
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2年前、改修前に訪ねた時の聖福寺の様子 → 「長崎探訪1 聖福寺」 2020年
2年前になかったのが坂本龍馬の像です。
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うん,凛々しい!
ここ聖福寺は幕末の「いろは丸事件」の会談が行われたところで、海援隊率いる坂本龍馬と縁の深いお寺です。
また最近では、さだまさし原作の映画「解夏」のロケ地になったことでも有名です。
さて、この日は稲佐、浦上天主堂、西坂、筑後町通りのお寺を回ったらお昼を過ぎていました。
聖福寺を出たところにあるホテル「セントヒル長崎」で昼食。
長崎名物ちゃんぽん
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「五足の靴」の長崎での足跡は、1日で回れるだろうと思っていたのですが、とても1日では回れそうにありません。
―続く―
紀行文「五足の靴」には長崎の記述がすっぽりと抜けているので、消えた足跡を辿るのは簡単ではありません。
そこで、このことについて研究された鶴田文史氏の著書「西海の南蛮文化探訪『五足の靴』幻の長崎編・要の島原編」を参考にさせてもらい、氏が発掘された「『五足の靴』長崎ロード」を基に吉井と縁の所も加えながら長崎の街を歩くことにしました。
今回は西坂から筑後通りを歩きました。
西坂
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西坂は二十六聖人殉教の地です。明治40年の九州旅行「五足の靴」が「切支丹の遺跡探訪を主としたような旅行になってしまった」(「筑紫雑記一」)と吉井勇が述懐しているので、浦上天主堂から諏訪神社の途中にあったこの地には立ち寄ったかもしれません。もちろんその頃は写真にあるような記念館は建ってはいませんでしたが。
この西坂から諏訪神社まではお寺が続きます。昼に稲佐を出て、浦上天主堂、諏訪神社、そして夕刻には上野屋旅館に着くためには、筑後通りにあるお寺は素通りだったと思われますが、後年の吉勇と縁があるお寺もあるので今回の私の長崎探訪では本蓮寺、福済寺、聖福寺と訪ねました。
本蓮寺
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左上に見えているのが本堂です。「長崎三大寺」と言われるほどの大きな寺でしたが、原爆で焼失したそうです。写真の階段下にはかっての山門の礎石がそのまま残されています。写真上部の真ん中に日蓮上人の像が海に向かって建てられています。本蓮寺は「昔は野母半島をも望む景勝地だった」(長崎公式観光サイトtravel nagasaki)そうですが、今はビルが立ち並び、海は見ることができません。
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実はこの本蓮寺は吉井勇と縁のあるお寺になっています。それは吉井勇の蓬莱池を詠んだ歌碑がこの地に移されているからです。(この辺の経緯は →「本蓮寺に移されていた吉井勇の歌碑 「とこしへに水清かれと祈らまし…」)
本蓮寺にある吉井勇の歌碑
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とこしへに水きよかれと祈らまし蓬莱の池を見はるかしつつ
突如と現れる大観音様にドッキリ!
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あの観音様が次に行く福済寺です。
福済寺
福済寺は黄檗宗のお寺で「長崎4福寺」の一つですが、他の唐寺とは趣が異なります。昔は大きな寺で今の国宝にあたる特別保護建造物だったそうですが原爆で焼失し再建されました。戦後、原爆被災者と戦没者の冥福を祈って建てられたのが先ほど見えていた大きな観音様「万国霊廟長崎観音」です。
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この観音様の下はお堂になっていて、地下には平和について考えさせられる遺品や、原爆で焼けた瓦や戦前の写真などが展示されていました。
「シノザキと記した水筒」
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「シノザキと記してあり遺族を探しています」と。
「テニアン島にて」
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「テニアン島」の文字と、さらには「遺骨は13柱収集したが他の多くの遺骨は来年度収集に行く予定」の文字が心に残りました。
「テニアン島」は太平洋戦争末期の激戦地で、日本軍が玉砕した島であり、その後B-29の基地になった島です。そのテニアン島を飛び立ったB-29が祖母山系の障子岳付近で墜落する事故があったことを、障子岳に登ったときに知りました、「テニアン島」という名前も。
B-29墜落の地(障子岳から親父岳に伸びる尾根の鞍部)
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旧日本兵の遺骨収集や遺品を遺族に届ける活動をされているの方々と同じように、異国の地に墜落したB-29の遺族を探したり、いまだに機体の残骸を掘り出したりしている人たちとつい先日遭遇したばかりでした。「墜落の地」の説明板に書かれていた「テニアン島」の文字を、まさか長崎探訪のお寺で目にするとは思いもしませんでした。
焼け野原となった跡地に建てられた観音様
静かに長崎の街を見渡しておられます。
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同じく焼け野原に建立された「鎮魂の鐘」
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この鐘は原爆が投下された11時2分に、毎日7打(1打で1万人の魂を鎮める)されるそうです。
「五足の靴」当時の福済寺の写真も展示してありました。
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福済寺国宝大観門
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「国宝大観門ヨリ鐘鼓楼ヲ望ム」
貴重な建物でしたが、5人連れの一行は人力車の車窓より眺めただけで先を急いだことでしょう。
福済寺の隣に建つのが聖福寺です。
聖福寺
聖福寺も「五足の靴」当時は素通りしたと思われますが、後に吉井勇と関係の深いお寺となります。というのは、昭和27年に「じゃがたらお春」の歌碑がここの境内に建立されたからです。なお、その除幕式には夫人同伴で吉井は長崎を訪れています。
「じゃがたらお春」の歌碑
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長崎の鶯は鳴くいまもなほじゃがたら文のお春あはれと
除幕式にて詠んだ歌
長崎に来る旅人の目にながく残れよと思ふ碑にむかひて
今回聖福寺を訪れたら大掛かりな改修中でした。
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狭い通路を抜けていくと
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大雄宝殿はシートに覆われ見学できませんでした。
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2年前、改修前に訪ねた時の聖福寺の様子 → 「長崎探訪1 聖福寺」 2020年
2年前になかったのが坂本龍馬の像です。
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うん,凛々しい!
ここ聖福寺は幕末の「いろは丸事件」の会談が行われたところで、海援隊率いる坂本龍馬と縁の深いお寺です。
また最近では、さだまさし原作の映画「解夏」のロケ地になったことでも有名です。
さて、この日は稲佐、浦上天主堂、西坂、筑後町通りのお寺を回ったらお昼を過ぎていました。
聖福寺を出たところにあるホテル「セントヒル長崎」で昼食。
長崎名物ちゃんぽん
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「五足の靴」の長崎での足跡は、1日で回れるだろうと思っていたのですが、とても1日では回れそうにありません。
―続く―
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