3週間ぶりです。
久しぶりなのでテンプレートを模様がえしました。
前回のブログで、山登りの三拍子は「時間、体調、天気」と書きましたが、その3つはなかなかそろってくれません。昨日は久しぶりの休日でしたがあいにくの雨で、カッパを着て登るほどの登魂はなく、晴登雨読とばかりに本を読んで過ごしました。
愛読書、辻村伊助の「ハイランド」
この本の中に収めてある「飛驒山脈の縦走」が好きです。久しぶりに読み返しました。
これは明治42年に筆者が上高地から槍ヶ岳、双六、鷲羽岳、赤岳、黒岳、真砂、野口五郎、烏帽子岳を縦走し濁沢から大町に下山するまでの5日間の紀行文です。
100年以上前に書かれたものですが、文章に古臭さは一切なく、むしろ格調高くリズミカルです。なによりも書かれている内容が新鮮で、当時の山行の様子に憧憬を抱きます。
昨年北アルプスに登りましたが、宿泊と食事は山小屋を利用しました。
35年前のワンゲル時代はテント泊で、食事はブスを使っての自炊でした。
この本に記されている100年前の山行はすべて野宿です。(以前「旅と野宿は男の至福」にも書きましたが、「野宿」という言葉に冒険心がくすぐられます)
「劒岳 点の記」の劒岳登頂も明治の同じ時期ですが、あの測量チームはテント泊だったので、てっきり辻村氏達もテント泊だと思っていたら違っていました。桐油紙と言われる油を塗った紙一枚で夜露をしのいでいた様子が描かれています。そして食事はすべて焚き火。極めつけは、途中仕留めた雷鳥を味噌汁にして食する場面、今では考えられません。その場面を紹介します。
(三俣蓮華の山頂に立った後、濃霧でさんざん道に迷う。急斜面の雪渓を鉈で足場を刻みながら下り、ほうほうの体でさまよい歩いた後大きな岩に出会う)
「ここを一夜の宿と定める。火が焚かれ、飯が煮える、嘉門治が蓮華で打った雷鳥の味噌汁もできあがる。実はこれを取ったとき、まだろくに舞えぬ雛が、側でピーピー啼くのを聞いたら、何だか妙な心持ちがして、今夜の料理は断じて食うまいとまで、決心したけれど、肉となって鍋の中に浮いていれば、そんな心持ちは毛頭おこらない、忘却は人間至上の幸福である、肉を食わなくともあの雛を如何することもできないと、思い切って箸をとる、肉は鶉(うずら)に似てすこぶる美味だ。」
(文中の「嘉門治」はあの上條嘉門次さんのことですが、本書ではこう表記されています。)
宿泊の様子もダイナミックです。
「草の床に草鞋(わらじ)を枕にして寝ていると、嘉門治は自分の桐油紙を出して、我等の上に屋根を張ってくれた、わしは荷が軽いから疲れましねぇと、人足を焚き火の側に、自分は夜露のかかる草の中に寝ている。」
一泊目、槍ヶ岳手前の坊主小屋での宿泊の様子。
(「坊主小屋」は国土地理院の地図にも「坊主岩小屋」と記載されている槍岳開祖・播隆上人がこもったという単なる岩の穴)
「窟(いわや)の中には一面に雪が溜まって、外よりなお冷や冷やする、やむを得ず、焚き火の側に桐油をひっかぶって、ごつごつした岩の上に寝ることにする、例によって少しも眠れない。うとうとする瞳を貫いて、かっと電光がほとばしる。驚いて飛び上がる耳もとに、槍も崩れたかとばかりどっと雷が鳴った。あとは再び寂然として、槍ヶ岳の夜は太古のごとく森厳である。」
こんな感じで、100年前の飛驒山脈の縦走の様子が綴られています。読みながらワクワクします。何度読んでも憧れます。このようなワイルドな山行がしたい、と。
また、風景の描写も実に巧みです。出だしの一文だけ紹介します。気に入られた方はぜひ原文をお読みください。約20ページの山岳紀行文です。
「河沿いの、楊(やなぎ)も樺(かんば)も水音も、ただ一色の朝霧の底に鎖(と)ざされて、梓河原は呼ぶとも醒めぬ景色である。」
リズミカルで何と美しい文章でしょう。音読するといっそう味わい深いものになります。
ところで、辻村伊助氏は「日本アルプス」という当時はやりだしたこの言葉が嫌いです。
この本に収められている「登山の流行」の中に次のような一文を見つけました。
「かって、飛驒山脈の連峰、今、日本アルプスと云う不快な流行語を与えられている山岳地を…」
また、別の一文にはハッとさせられました。
「重い荷物を自ら背負い、幾度も幾度も瀑布のような激流を渡って、一歩一歩山に近づいて行った、かくして彼等は永久に絶えることのない希望を抱いて山また山と放浪したのだ。あるものは、幾度か生死の境を出入りした、そして彼等の心を理解し得ない人々の嘲笑に対して、無関心に、何等の弁明をしようとする気にすらならずに、一向に彼等の信念に基づいて行動した、登山の利益とか、弊害とか云うことは、彼等に対しては何等意味をなさなかったのだ。」 (「登山の流行」辻村伊助)
純粋に山に登っていたワンゲル時代のことが100年も前に書かれていたのです。
35年前、「なぜ山に登るのか?」という級友からの問に対して、同期の末永は
「山はすかん。すかんけん登るったい。」と答えていましたが、今は亡き彼の笑顔が思い出されました。
書きだしたらついつい長くなりました。辻村伊助氏についてはまた後日第2弾を出します。
晴登雨読、やがて昼になり、無性にうどんが食べたくなりました。
うどん屋は近くにも4、5軒あるのですがそれらを通り越してわざわざ順番待ちのできるうどん屋さんに出かけました。その店の手打ちうどんの食感が忘れられなかったのです。あまり食べ物にこだわらない自分としては珍しいことです。
お目あての「とり天ざる大盛り」
コシのあるうどん2玉とジューシーな鶏の唐揚げ5個のセットで、一度食べたらやみつきになります。
この店はいつも行列ができているのですが、並んででも食べたくなるおいしさです。
久しぶりなのでテンプレートを模様がえしました。
前回のブログで、山登りの三拍子は「時間、体調、天気」と書きましたが、その3つはなかなかそろってくれません。昨日は久しぶりの休日でしたがあいにくの雨で、カッパを着て登るほどの登魂はなく、晴登雨読とばかりに本を読んで過ごしました。
愛読書、辻村伊助の「ハイランド」
この本の中に収めてある「飛驒山脈の縦走」が好きです。久しぶりに読み返しました。
これは明治42年に筆者が上高地から槍ヶ岳、双六、鷲羽岳、赤岳、黒岳、真砂、野口五郎、烏帽子岳を縦走し濁沢から大町に下山するまでの5日間の紀行文です。
100年以上前に書かれたものですが、文章に古臭さは一切なく、むしろ格調高くリズミカルです。なによりも書かれている内容が新鮮で、当時の山行の様子に憧憬を抱きます。
昨年北アルプスに登りましたが、宿泊と食事は山小屋を利用しました。
35年前のワンゲル時代はテント泊で、食事はブスを使っての自炊でした。
この本に記されている100年前の山行はすべて野宿です。(以前「旅と野宿は男の至福」にも書きましたが、「野宿」という言葉に冒険心がくすぐられます)
「劒岳 点の記」の劒岳登頂も明治の同じ時期ですが、あの測量チームはテント泊だったので、てっきり辻村氏達もテント泊だと思っていたら違っていました。桐油紙と言われる油を塗った紙一枚で夜露をしのいでいた様子が描かれています。そして食事はすべて焚き火。極めつけは、途中仕留めた雷鳥を味噌汁にして食する場面、今では考えられません。その場面を紹介します。
(三俣蓮華の山頂に立った後、濃霧でさんざん道に迷う。急斜面の雪渓を鉈で足場を刻みながら下り、ほうほうの体でさまよい歩いた後大きな岩に出会う)
「ここを一夜の宿と定める。火が焚かれ、飯が煮える、嘉門治が蓮華で打った雷鳥の味噌汁もできあがる。実はこれを取ったとき、まだろくに舞えぬ雛が、側でピーピー啼くのを聞いたら、何だか妙な心持ちがして、今夜の料理は断じて食うまいとまで、決心したけれど、肉となって鍋の中に浮いていれば、そんな心持ちは毛頭おこらない、忘却は人間至上の幸福である、肉を食わなくともあの雛を如何することもできないと、思い切って箸をとる、肉は鶉(うずら)に似てすこぶる美味だ。」
(文中の「嘉門治」はあの上條嘉門次さんのことですが、本書ではこう表記されています。)
宿泊の様子もダイナミックです。
「草の床に草鞋(わらじ)を枕にして寝ていると、嘉門治は自分の桐油紙を出して、我等の上に屋根を張ってくれた、わしは荷が軽いから疲れましねぇと、人足を焚き火の側に、自分は夜露のかかる草の中に寝ている。」
一泊目、槍ヶ岳手前の坊主小屋での宿泊の様子。
(「坊主小屋」は国土地理院の地図にも「坊主岩小屋」と記載されている槍岳開祖・播隆上人がこもったという単なる岩の穴)
「窟(いわや)の中には一面に雪が溜まって、外よりなお冷や冷やする、やむを得ず、焚き火の側に桐油をひっかぶって、ごつごつした岩の上に寝ることにする、例によって少しも眠れない。うとうとする瞳を貫いて、かっと電光がほとばしる。驚いて飛び上がる耳もとに、槍も崩れたかとばかりどっと雷が鳴った。あとは再び寂然として、槍ヶ岳の夜は太古のごとく森厳である。」
こんな感じで、100年前の飛驒山脈の縦走の様子が綴られています。読みながらワクワクします。何度読んでも憧れます。このようなワイルドな山行がしたい、と。
また、風景の描写も実に巧みです。出だしの一文だけ紹介します。気に入られた方はぜひ原文をお読みください。約20ページの山岳紀行文です。
「河沿いの、楊(やなぎ)も樺(かんば)も水音も、ただ一色の朝霧の底に鎖(と)ざされて、梓河原は呼ぶとも醒めぬ景色である。」
リズミカルで何と美しい文章でしょう。音読するといっそう味わい深いものになります。
ところで、辻村伊助氏は「日本アルプス」という当時はやりだしたこの言葉が嫌いです。
この本に収められている「登山の流行」の中に次のような一文を見つけました。
「かって、飛驒山脈の連峰、今、日本アルプスと云う不快な流行語を与えられている山岳地を…」
また、別の一文にはハッとさせられました。
「重い荷物を自ら背負い、幾度も幾度も瀑布のような激流を渡って、一歩一歩山に近づいて行った、かくして彼等は永久に絶えることのない希望を抱いて山また山と放浪したのだ。あるものは、幾度か生死の境を出入りした、そして彼等の心を理解し得ない人々の嘲笑に対して、無関心に、何等の弁明をしようとする気にすらならずに、一向に彼等の信念に基づいて行動した、登山の利益とか、弊害とか云うことは、彼等に対しては何等意味をなさなかったのだ。」 (「登山の流行」辻村伊助)
純粋に山に登っていたワンゲル時代のことが100年も前に書かれていたのです。
35年前、「なぜ山に登るのか?」という級友からの問に対して、同期の末永は
「山はすかん。すかんけん登るったい。」と答えていましたが、今は亡き彼の笑顔が思い出されました。
書きだしたらついつい長くなりました。辻村伊助氏についてはまた後日第2弾を出します。
晴登雨読、やがて昼になり、無性にうどんが食べたくなりました。
うどん屋は近くにも4、5軒あるのですがそれらを通り越してわざわざ順番待ちのできるうどん屋さんに出かけました。その店の手打ちうどんの食感が忘れられなかったのです。あまり食べ物にこだわらない自分としては珍しいことです。
お目あての「とり天ざる大盛り」
コシのあるうどん2玉とジューシーな鶏の唐揚げ5個のセットで、一度食べたらやみつきになります。
この店はいつも行列ができているのですが、並んででも食べたくなるおいしさです。
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