自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

欲望は悟りに必要だと、肯定するタントラ

2023年06月13日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)


仏教にも通じる”無執着“   2023年6月13日
**************************

”欲望は捨てなさい” ~ それが、解脱の邪魔になる・・・
と、大概の導師たちは、弟子にそう説くようです。

スピリチュアルな悟りを得るためにも、この欲望は必然だと、
教える導師はいるのでしょうか?

はい、います。
この欲望を 悟りのために不可欠だとして、真正面から
取り組んでいるのが、インドのタントラの教義です。

今、手元に、一冊の本(*1)があります。

1970年代から80年代にかけて、タントラを世界的に
知らしめたラジニーシ氏(*1)の側近に仕えた高弟よって、
書かれた本です。

彼は、この大師のそばで、10年近く仕えたイギリス人で、
著書の内容は、その集団の信仰活動と、導師の魅力と
ともに、導師の矛盾した行動などの協会の内部告発本とも
いえるものです。(2)

 著者によると、世界的に有名な、日本人、作曲家のK氏も、
初期の信者でありダイアナ・ロスや、多くの著名人が、
この導師のもとを訪れていることも、この本から、知りえます。

特記すべきは、チャールズ皇子の血をひく、貴族も道場で
修練している様子が描かれまてます。

私も、”存在の詩”(2)というラジニーシ氏’OSHO)の
著書を、20代の頃読み、感動した覚えがあります。

”空”について、”実在の真理”について、とても、説得力のある、
短い詩の形状で、語られて多くの人たちが魅了された本
の一つでしょう。

それには、あまり、タントラ的な要素はありませんでしたが、
次第にタントラ的な要素が前面に出てきたようです。

以下の詩は、大師の著 ”TANTRA The Supreme Understanding”①
の中から”物質”について、”人間”について書かれた言葉です。

この詩からわかるように、タントラを主軸とする、ラジニーシ氏の
考え方は、ある意味、普遍的なスピリチュアル性を基盤としている
ことがわかると思います。

 ****(以下引用)
*あなたは所有をすべきじゃない。
それがすべてだ。

あなたは物や人を所有しようとすべきじゃない。
あなたはただ、その所有の世界からドロップアウトするのだ・
 取るか与えるか、などという問題じゃない。

それは両方とも、所有の世界に属するものにすぎないからだ。

あなたが与えられるのは、あなたが所有しているものだけだ。
どうして自分が所有していないものを与えられる?

あなたが与えられるのは
それ以前に、あなたが、ぶんどったものだけだ。
あなたが与えられるのは、それ以前にあなたが取ったもの
だけだ。
そうでなかったら、どうしてそれをあげられる?

あなたはこの世界に何も持たずにやって来た
無一物で---
あなたはまた無一物でこの世界から出て行く
この世界で、あなたは、これらのどちら側にもつける

もっと、もっとを求め
もっともっと取り
そして、もっともっと、吸い込んで自分を肥らせ続ける側か?

それでなければ、もう一方の
もっともっと、与えに与え続け、やせてやせて、やせきって
しまう側かだ

仏陀は所有すべからずと言った

あなたはそのどちらも選ぶべきじゃない
ただ”無所有という状態”にいればいい、と
・・・・・
(引用以上)
**************

無所有という状態・・を男女の愛の中に、彼は
持ってきた。

種族の保存や、本能発露のためではなくて、無執着
のまま、相手に対し、情熱的感情をぬきにして、心身、
特に、肉体的表現が行われれば、そこは、祭壇と同様の、
神聖な場となると説いたのがラジニーシ氏でした。

欲望を真正面からとらえて・・というのは、そこに、無執着
かどうか?
愛か本能か?
相手を尊重しているか、自分勝手な行為か?

というような、俯瞰的な眼で、心の内から見据える第三の眼
意識してこそ、できることです。

それが、メンタルの強化につながり、小自我を滅するという
修行の一つとなり、ラジニーシ氏の普遍的教えの中に、
タントラ性色合いが、濃く打ち出されてきた背景といえそう
です。


続く

 
(1) ヒュー・ミルン 『ラジニーシ――堕ちた神』第三書館)1991年(再版)
(2)『存在の詩―バグワン・シュリ・ラジニーシ、タントラを語る』
(めるくまーる、1977年)
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本能的欲望は悟りに有害か否か?

2023年06月06日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

第一チャクラ・エネルギーのスピリチュアルな

必然性 2023年6月6日

********************

かなり昔、10年ほど前になるでしょうか?

私は、”タントラ”という表題で、原始的エネルギーについて

書きました。

人がもつ、本能的な生命力です。


ヨガでいえば、第一チャクラから発する性的エネルギーです。

この話題が、スピリチュアルと自称する方たちの間でも、

なんとなく、避けられるのは、なぜか? 

私たちは、このエネルギーとともに生きているのにも

かかわらず、人前ではあまり、公然とせず、隠していることが

慎みがあるように、感じられています。

一方、求道者でありながら、それで苦しんでいる人たちも

少なくないはずです。

これが、どんなに、大切なエネルギーかということを語る

のには、意味があると想い、今日から、数回にわたり、

まとめてみました。


タントラを語ることが、スピリチュアル的な探求と矛盾しない

という、建設的な視点でまとめたいと思います。

タントラに関しては、インドで多少学びました。

私がインドに滞在していた当時の、タントラの第一人者は、

プーナに本拠地を構えていた、OSHO(ラジニーシ氏)

が有名でした


教養あるインド人から、タントラには近づくな・・と

助言されましたがある側面では、ヒンズー教からみて、

正当的でないということもわかり、ある側面では、

タントラは、とても、スピリチュアル的だということに、

私は気がつきました。


ラジニーシの元には、世界中から、国籍を問わず、

何十万という信者が、彼のアシュラム(修行場)に

集まってきていました。

私の親しい知人は、日本から、ここに移り住み、

OSHOから世捨て人称号名前(修行者としての名前)

をもらいました。

彼女に、OSHOのことを端的に紹介して欲しいと頼んだら、

以下のような紹介原稿を書いてくれました;

 
OSHO:オショー、
本名、チャンドラ、モハン、ジャイン(1931-1990)
インド人神秘家。

現代人のために新しい瞑想法を編み出し指導。
個人の意識開花のためのガイダンスとして約7千回に
のぼる講話を行った。

インド西部、プーネのアシュラム(道場)、
アメリカ、オレゴン州のコミューンには世界中から
内なる旅をする者たちが集まって来た。

いまでもプーネの
アシュラムには多くの人々が訪れ、瞑想やセラピー、
ダンスやペインティングなどの創造性のワークショップが
開催されている

 

ここには、彼女の師匠であるラジニーシ氏が、タントラの

第一人者だとは、触れていません。

彼女は、とても精神的に、自己啓発をし続けている人ですが、

もしかしたら、彼女自身の生き様が、とてもタントラ的なの

かもしれません。


客観的にそれを語るのは、難しいのかもしれません。

タントラの教えは、彼女にとって、空気のように自然に、

日常に、溶け込んでいるのだろうと、想像しました。


 話が戻りますが、今日から数回にわたり、タントラについて

書こうと思った理由は、次です;

タントラの主軸となる、”人間の本質的欲望との向き合い方”を、

偏見や社会的常識の路線から離れた、無色透明な心で

理解すると、そこに、普遍的で、誰にでもあてはまる、

精神的な法則があるからです

そして、この協会で目指す、健全なる”自然治癒力”も、

タントラへの理解と多少、関係あると思ったからです


病になるか、ならないか、病が癒えるか否か、も、

欲望(全般的)を持つ自分に、どこまで、肯定的で

いられるか?が大きな鍵になっているような気がします。


ただし、欲望と、強欲とは、違います。

ここでいう、欲望とは、本能的な生物学的にサヴァイヴ

をするために必要なそれを指しています。

おおらかに、自分の中の欲望を含めて、自分全体を

愛せること、それは、自然治癒力の発動に、大切な要素

ですから・・・

自分を否定しない・・ことが、免疫システムの働きにも、

関係して来るのも事実です。
 
否定とか、恐れとか、焦りとか 批判とかの感情思考・・

それらは、”今”の”状態”に、マイナス的な態度を示す思考

であるのが共通しています。

自分は、愛されるに足る、実際、大いに天から愛されて

いるのだと、”思い出せば”、ほとんどの、病は、良くなる

はずです。

もちろん、この”思いだす”ことは、一生かけて、なされる
人生のゴールでもあります。

決して、容易ではないのも、事実なのですが・・・


では、次回に続きます・・・・・

 

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太陽王朝と超古代文明

2023年03月31日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

太陽とヨガと、日の元の国

*******************

 

インド時代、アパートの

二階に住んでいる20歳の

若者と屋上に続く階段で

朝、出会った。

彼は毎朝、太陽を拝して

ポットに入れられた聖水を

太陽神(スーリアー写真左)

に向けて両手で救い上げ

注ぐ儀式をしていた。

太陽への信仰は、世界至る

ところでみられるのだろう。

エジプトにも 太陽の神、

ラー神(写真右)が

古代神として存在していた。

そして秀真伝えでは 天之

御中主神(あめのみなかぬし

のかみ)が、

宇宙を顕現した天元神

(あもとがみ)の個別神として

地上に現れて、国常立尊

くにとこたちのみこと)

として、地球八面に8体の神

を産み置き、それぞれの土地で

国造りをしたと書かれている。

地球八面の場所とは、それぞれ、

インドや、エジプト、中国

など古代文明が盛んになった

所と考えられている。

その中で、トの神と、エの

神は’やまとの国’、つまり、日本

を担当した神であった。

(因みに、八国とは トの国、

ホの国、というように、

と、ほ、か、み、え、ひ、た、

の八神をさす)

 

最近、縄文文化に注目が集まり

日本文化の原点と結び付けている

人たちが多い。

が、本当にそうなのだろうか?

私には、縄文文化は、真に日本

分化が栄えた後の蝋燭の最後の

灯のような感じがしている。

偉大な超古代やまと文明の

燃え尽きんとする、その前の姿

と映る。

地球の誕生から、縄文文化が

発祥するまでは、日本には

もっと偉大な文明が存在して

いた可能性があるからだ。

それは日本のみならず、他

の超古代文明発祥地でも

同様の現象が起きていた

のだろう。

たとえば、インドを例に

とってみよう。

サイババ師によると、確かに

ヴァカバッド・ギータの主人公

クリシュナ王は存在したという。

さらに、それ以前に、文明の

発達した時代が存在していたと

私は、直接お聞きした。

はっきり、師は、クリシュナ

の生きていた年代は、

BC5,800年ごろの話”だと

サイババ師は語った。

そして、その前に書かれた

マハバラータの主人公、

ラーマ王子は、さらに古く、

2万年前の話”だといい、

クリシュナの時代に至るまで

には、1万5千年間の長い月日

流れていると確言された。

それは、”カリユガ期”以前に

あたる。

カリユガ期とは霊的な暗黒時代

といわれ、人類が物質的な束縛

を受け物質第一主義になるとき

をいう。

まさに、現代は、このカリユガ期

の後半のピリオドにあたる。

始まりは、紀元前 3,102年から

現代にまでつながる”唯物主義時代”

を指している。

 

クリシュナの時代、

(今から1万年以上前)は

一般的には石器時代と言われて

いるが、霊的な先見のある

人達はそうは理解していない。

実は 大いに文明の栄えていた

時代でもあるのだ。

レムリヤ や、アトランティス

も存在し、インドのみならず、

エジプト、日本を含め、ほとんど

神話時代として、片付けられて

いるが、実は、超古代史として 現存

していた事実であるということは、

まだ解明される途上にあるようだ。

 

 

 

 

 

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(悟り)は汝を自由にならしめん~(2)

2022年06月23日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

昨日の記事の補足として、     2020/6/23

**********************

昨日の記事に関して、10年前に発表した

”般若心経全訳”を推敲して、

その中に書いてあるパラグラフと同意味の

お経の部分を、再認識したところです。

それは、以下の部分です:

 

無色聲香味蝕法 無眼界 乃至 無意識界 

無無明 亦 無無明尽 

乃至 無老死 亦 無老死尽 

意味)

五感の器官の働きによって認識している、物質や 

聞いたり、嗅いだり、味わったり、触れたりする

感覚も、物質が永劫の実在でない以上、あるようで

ないものだ。

目で見えている現象界でもそうだし、 意識界で

感じていることも、実質はない。

無明 (明るくない・鮮明でない=((意訳して))

=悟っていないこと)は、実存していないのだから、

(言い換えれば、すでに実存(空)では悟っているのだから)

無明を滅しようとする必要はない。”

 

という般若心経の一説です。

パソコンでご覧になっている方には、色分けして、

般若心経が書かれ、その同色で意訳がしてあります。


無明から始まる、茶色の部分が、今日のポイントの部分です。

とりいそぎ、補足まで・・・

 

もし、ご興味のあるかたは、

2012年11月11日ヴェーダ・真言・般若心経

の般若心経全訳を、お時間あるとき、是非、ご

覧ください。



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仏壇の前で読経する意味

2022年05月14日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

仏様の説いた教えを、仏様に説く意味って?

********************************************2022/5/14

 

在る方から 昨日、質問を受けました。

最近、覚者の方が、インターネットの公開講座で、

”仏壇の前に座って、3時間もお経を唱えているのは、

おかしな話だ”と言っているけれど、

何がおかしいのか?わからない~という疑問でした。

 

その信望高い覚者の方は、きっと、仏壇の仏様に

お経を唱える意味を、唱える側がどのように自覚

しているか?

 

それによって、意味がないものにも、なりえると

いうことを言われているのではないか?と、私は

思いました。

 

その覚者は、続けてこうお話されたそうです。

”たとえば、自分の講義内容を、自分の前で3時間

も、聞いたところで、私が教えたもので その内容

を、聞いたからといって、何も意味がないよ。”

 

同様、お釈迦様が教えられた内容をまとめた、

経典を数時間、如来様の像の前で唱えることは

何のため?という疑問につながるのだと思います。

 

ここで、昔の話を思い出しました。

インド在住16年の間には、ガンジス川に何度も

行く機会がありました。

ヒンズー教の聖地であり、ガンジス川に身を清める

ことは、罪を洗われると信じている信者たちは、

川の流れに身を沈め、手には花かごを持ち、夜明けの

太陽にかざしながら、それを川に振りまき、

ガンジス川の水を手で川に注ぎ込み、

身体にかけ、何度も深い礼を繰り返して、

禊(みそぎ)をするのが常です。

 

それを見た、私の師匠が つぶやきました。

”ご覧。彼らは、神が与えた花を、与えた神に

捧げ、神の作られた聖なる水を、

また、川に戻している。神はそれらを必要と

しているのではないのに・・”と。

 

私は尋ねました。

”では、何を神は、捧げものとして必要なのですか?”

 

師は、こう答えました。

”神は、何も、信者たちから必要としていない。

 

ただ、神を思う心、純粋なる魂、清らかな波動

を喜ばれる。

なぜなら、神が意図している十分な、神の愛と

祝福が、そういう人たちの心を通して、注がれる

ことが可能になるのだからね。” 

 

続けて一言、次のように言いました。

”神は 一歩だけ、神に近づこうとするものに対して、

100歩、近づいてくれる。

神に近づこうとしない人には、神は、近づきようが

ないのだよ。”と。

 

それは、神という存在は、(神の言葉に抵抗ある

人は、それを、宇宙意思とも、宇宙創造ヌシとも、

あるいは、極限の光とも、または、無上の愛とも、

言い換えられます・・・)愛と喜びの存在である

以外、何物でもないのだから、神の子といえる、

我々を、祝福で包むことしか、ご存じないからだ。

 

が、自由意志を与えた人間は、それを拒むことも

できるし、受け入れることもできる。

受け入れようとしたら、自ら、一歩、神に心を

ふりむけるだろう。

その時こそ、神は、その祝福を思う存分、分け与える

喜びにつつまれるのだから。”

 

さて、話を冒頭にもどしましょう。

この質問を聞いたとき、私は、ガンジス川でのこの、

会話を思い出しました。

同時に、この方の疑問には、こう答えたいと思いました。

 

”仏壇の前で、お経を唱えるのは、お経を唱えることで、

自分の心の波動を、言霊で高め、そして、そこに祀られ

ている本尊(如来像)のアストラル体のイメージから

与えられる恩恵に、浴するためだろう・・” と。

 

恩恵に浴する という言葉も少し、違うかもしれません。

お経を唱えることで、その言霊でその人の魂の波動が

高まることで、こうした高級な指導霊(如来像に象徴

されるような)の波動と近くなり、それによって、

日々の生活や問題が、自然と整うということになる

からかもしれません。

 

それを、一般には、ご利益を得るという言い方をする

のかもしれませんが・・・

 

なおかつ、そこに収められている、御位牌を通して、

ご先祖様たちへの供養をすることにもなり、綿々と

つながる、生命を寿(ことほ)ぎ、自分が生きて

いるのは、現在の自分だけの力ではなく、こうした

多くの方たちの命の連綿の枝葉として、

大いなる生命力に生かされている存在である、

ということに、気づくためなのだろう・・”と。

 

さてさて、皆さまはいかが思われますか?

 



 

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