ひふみ神示 8帖より 2022 年4月13日
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青文字部分が原文より、黒文字が解釈となります。
自動書記という、私利私欲を離れた世界から、
特定の人に対して、自動で筆を運ばせる
という形で書かれたこの神示に興味あるかたは、
”ひふみ神示”(2011年 岡本天明著 太陽出版 )
を参考になさってください。
”新人と生まれ、新天新地に住むとも、
その以前の自分の全ては失わない。”
新人というのは、新たに生まれた人という意味で
悟ったり、肉体の衣を脱いだり、それぞれの状況で
現在とは異なる次元の自分になったときを指す。
”唯 その位置を転換されるのみである。
地上人が死後、物質的に濃厚なる部分を
脱ぎ捨てるが、その根本的なものは
何一つとして失わず、生活するのである。”
肉体を脱ぎ捨てるとき、それを、天明は”物質的に
濃厚な部分”と呼んでいる。
肉体を脱いでも、根本的なところは何も変わらない
とここでいう。
”その状態よりも、なお一層、そのままであって、
何らの変化もないと思えるほどである。
蛆が蝶になるごとく 弥栄えるものであって、
それは大いなる悦びである。
なぜならば、大歓喜なる大神の中において、
大神のその質と性を受け継ぎ呼吸しているからである。”
エミール大師やエディ夫人が再三述べているように
在って在るものは、大いなる大生命の力であるゆえに、
私たちの肉体はなくなっても、その大神(大生命)の中
で息づいていることは、なんら、変わらないという
ことだろう。
”全ての物は歓喜に向かって 歓喜によって、行為する。
歓喜がその目的であるがゆえに、歓喜以外の何物も
意識しえない。
ゆえに、歓喜より離れたる信仰はなく、真理はなく、
生命はない。
生前の霊人が地上人として生まれてくるのも、
死ではなく、地上人が霊界に入るのもまた、死ではなく、
弥栄なる誕生であることを知らねばならない。”
そこには、言い換えれば歓喜という本質的性質しか
存在しない。
だから、もし、私たちが信仰したり、真理の勉強を
したりしても、その中に悦びが見出されなければ、
何かが、違うということでもある。
自分の向き合い方が違うのか あるいは、目指している
そのものが真理ではないのかもしれない。
”歓喜は行為となる。
行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではない。
只、考えたり、意思するのみでは萌え出ない。
生命しない。
只 意思するだけで行為しないことは、
まことに意思することではない。
霊界に於いては、意思することは直ちに、
行為となるのである。
地上人にありては、物質によりて、物質の中に
その意思を行為することによって、初めて
歓喜となり、形態をなし、弥栄えるのである。”
地上の私たちが何かを実際行動して、形にして
いくとき、意思が表面化し、想いが現実化する。
霊界では、思えば、それが現れたり、そこに一瞬の
うちに辿りついたりすることが可能なようだが、
現象の物質界では常に、意思を行為する ということが
意味を持つという。
”生前の霊界は、愛の歓喜、真の歓喜、善の歓喜、
美の歓喜の四段階とその中間の三段階を加えて
七つの段階にまず区別され、その段階に於いて、
その度の厚薄によりて、幾区画にも区分され、
霊人の各々は、自らの歓喜にふさわしいところに
集まり、自ら一つの社会を形成する。”
唯心所現、類は類を呼ぶ、朱に交われば朱くなるの
諺は、地上界のみならず、霊界にもあてはまるのだろう。
”自分にふさわしくない環境に住むことは許されない。
否、苦しくて、住み得ないのである。
もし、その苦に耐え得んとすれば、その環境は
その霊人の感覚の外に遠く去ってしまう。
例えば、愛の歓喜に住む霊人は、
その愛の内容如何によって、同一方向の
幾百人か 幾千、幾万人かの集団の中に住み、
歓喜を中心とする社会を形成する。”
現在 苦しいからあの世に行けば救われる と
思っているのは甘いということか・・・
今ここに、愛を顕わすことが、あの世に行っても
同様、愛を形成する世界に住めるということなのだろう。
”ゆえに生前の世界では、自分の周囲、自分の
感覚しえるもののごとくが最もよく自分に似ており、
自分と調和する。
山も河も癒えも田畑も、そこに住む霊人たちも、
動物も植物も鉱物もすべて自分自身と同一線上にあり、
同一の呼吸、同一の脈拍の中にあり、それらの全てが、
大きな自分自身と映像する場合が多い。(*1)”
私たちの周りの環境も、人間環境も、動植物や、
自然環境にいたるまで、すべて、自分の心の鏡だと、
先人は教える。
すべて 自分の遭遇しているあらゆる物、人、事象、
それらは、”自分自身と同一線上にある”ということ、
”同一の呼吸”をして、自分をさらに拡大化した”、
大きな自分自身”であると理解することができる。
”自分は他であり、他は自分と感覚する。
ゆえにその性質は生後に基づき、地上人もその周囲を
自分化しようとする意思を持っているのである。
しかし、地上世界は物質的約束によって、想念の
ままには動かない。
死後の世界もまた、生前と同様であるが一度、
物質世界を通過したものと、しないものとの
相違が生じてくるのである。
だた、いずれにしても、物質世界との密接なる
呼吸のつながりを断ち切ることはできない。
物質は物質的には永遠性を持たず、霊は永遠性を
持つが、霊的角度から見れば永遠性を持たない。(*2)”
ここに言う、”物質には永遠性がないということ、
霊はそれを持つが、霊的角度から見れば永遠性を
もたない’とはどういうことだろうか?
霊的角度から見るというのは、きっと、霊性ある
ものも、さまざまな段階があるがゆえに、必ずしも、
永遠性を自覚している霊だけではないということだろう。
しかし、物質のような儚い震動物体よりも、緻密で
硬固な霊的震動をもったものを比べれば、はるかに
永遠性が理解される対象といえるだろう。
”しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、
永遠から永遠に弥栄してゆくものである。
しかして、永遠性をもつ事物は 地上的物質的事物を
自分に和合せしめる働きを内蔵している。
無は有を無化せんとし、有は無を有化せんとし、
その融合の上に生命が歓喜するのである。(*3)
無は有を生み、有は無を生み出す大歓喜の根本を
知得しなければならない。”
”無は有を生み、有は無を生み出す” という表現
は含蓄深い。
無といっても、この場合、空の概念にも似て、
何もないところから大生命という唯一の存在波動が
ある空点が 動いて、有 になり、
物質的現象として現れている 有 がまた、原質に
戻って、目に見えない空点に戻る と繰り返し、
生成が行われ発展がみられ、醍醐味と悦びがある
ということなのだろう。
この無と有が混然一体となって、まとまったもの
に形を作っていくとき、空の方向性に遠心力が
働いていることがわかる。
人の健康も、同様であって、そうした遠心力に
敏感になると、心身がおのずから整ってくる。
昭和30年11月3日、文化勲章を授与した、二木博士
がそのことを、独特な表現でこう表している。
その遠心力は、西洋的な、外に向かって引っ張られ
拡散力と違い、対角線上にあるという。
博士は、これを、典型的な”日本方式”と呼ぶが、
それは、一体、どのようなものなのだろうか?
“われら日本式は、求心的帰一的研究である。
どういうことかといえば、個々の現象を一つの中心
にまとめてしまう方法である。
医学で言うのなら、その中心というのは、生命である。
生命には 空気も 日光も 水も 草も 木も必要である。
そして、空気も日光も水も草も木も すべて生命に
帰一するのである。”
(引用終わり)
物質ではない、量子の世界でもない、空なるすべての
中心点に、”生命”を位置づけて
いるのが 興味深い。
生きるためには、空気、日光、水、草、木、という、
自然の要素は必須だ。
そしてまた、それらの自然の要素は、生命という、
まことに不思議で、どんなに進んだ文明の機器も、
コンピューターでも、”生命”だけは、創造すること
はできないし、超一流の科学者も、実験室の中で、
生命を複製することだけは不可能だ。
なぜなら、生命は、”空”なる存在だから・・
どうして、そう言えるか?
それは僭越ながら、自分の心の、空の波動がそれと
同調して教えてくれる、というのが、正直なところで、
でも、この考えに同調してくださる読者の方が必ず、
おられると、私は考えている。