自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

現代の様相を半世紀前の神示から

2022年04月13日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

ひふみ神示 8帖より  2022 年4月13日

*********************************

青文字部分が原文より、黒文字が解釈となります。

自動書記という、私利私欲を離れた世界から、

特定の人に対して、自動で筆を運ばせる

という形で書かれたこの神示に興味あるかたは、

”ひふみ神示”(2011年 岡本天明著 太陽出版 )

を参考になさってください。

 

”新人と生まれ、新天新地に住むとも、

その以前の自分の全ては失わない。”

新人というのは、新たに生まれた人という意味で

悟ったり、肉体の衣を脱いだり、それぞれの状況で

現在とは異なる次元の自分になったときを指す。

                                           

”唯 その位置を転換されるのみである。 

地上人が死後、物質的に濃厚なる部分を

脱ぎ捨てるが、その根本的なものは

何一つとして失わず、生活するのである。”

肉体を脱ぎ捨てるとき、それを、天明は”物質的に

濃厚な部分”と呼んでいる。

肉体を脱いでも、根本的なところは何も変わらない

とここでいう。

 

”その状態よりも、なお一層、そのままであって、

何らの変化もないと思えるほどである。

蛆が蝶になるごとく 弥栄えるものであって、

それは大いなる悦びである。

なぜならば、大歓喜なる大神の中において、

大神のその質と性を受け継ぎ呼吸しているからである。”

エミール大師やエディ夫人が再三述べているように

在って在るものは、大いなる大生命の力であるゆえに、

私たちの肉体はなくなっても、その大神(大生命)の中

で息づいていることは、なんら、変わらないという

ことだろう。

            

”全ての物は歓喜に向かって 歓喜によって、行為する。

歓喜がその目的であるがゆえに、歓喜以外の何物も

意識しえない。

 

ゆえに、歓喜より離れたる信仰はなく、真理はなく、

生命はない。

生前の霊人が地上人として生まれてくるのも、

死ではなく、地上人が霊界に入るのもまた、死ではなく、

弥栄なる誕生であることを知らねばならない。”

 

そこには、言い換えれば歓喜という本質的性質しか

存在しない。

 

だから、もし、私たちが信仰したり、真理の勉強を

したりしても、その中に悦びが見出されなければ、

何かが、違うということでもある。

自分の向き合い方が違うのか あるいは、目指している

そのもの真理ではないのかもしれない。

                                                   

”歓喜は行為となる。

行為せざる歓喜は、真実の歓喜ではない。

只、考えたり、意思するのみでは萌え出ない。

生命しない。

只 意思するだけで行為しないことは、

まことに意思することではない。

霊界に於いては、意思することは直ちに、

行為となるのである。

地上人にありては、物質によりて、物質の中に

その意思を行為することによって、初めて

歓喜となり、形態をなし、弥栄えるのである。”

 

地上の私たちが何かを実際行動して、形にして

いくとき、意思が表面化し、想いが現実化する。

霊界では、思えば、それが現れたり、そこに一瞬の

うちに辿りついたりすることが可能なようだが、

現象の物質界では常に、意思を行為する ということが

意味を持つという。

 

”生前の霊界は、愛の歓喜、真の歓喜、善の歓喜、

美の歓喜の四段階とその中間の三段階を加えて

七つの段階にまず区別され、その段階に於いて、

その度の厚薄によりて、幾区画にも区分され、

霊人の各々は、自らの歓喜にふさわしいところに

集まり、自ら一つの社会を形成する。”

 

唯心所現、類は類を呼ぶ、朱に交われば朱くなるの

諺は、地上界のみならず、霊界にもあてはまるのだろう。

 

”自分にふさわしくない環境に住むことは許されない。

否、苦しくて、住み得ないのである。

もし、その苦に耐え得んとすれば、その環境は

その霊人の感覚の外に遠く去ってしまう。

例えば、愛の歓喜に住む霊人は、

その愛の内容如何によって、同一方向の

幾百人か 幾千、幾万人かの集団の中に住み、

歓喜を中心とする社会を形成する。”

 

現在 苦しいからあの世に行けば救われる と

思っているのは甘いということか・・・

今ここに、愛を顕わすことが、あの世に行っても

同様、愛を形成する世界に住めるということなのだろう。

 

”ゆえに生前の世界では、自分の周囲、自分の

感覚しえるもののごとくが最もよく自分に似ており、

自分と調和する。

山も河も癒えも田畑も、そこに住む霊人たちも、

動物も植物も鉱物もすべて自分自身と同一線上にあり、

同一の呼吸、同一の脈拍の中にあり、それらの全てが、

大きな自分自身と映像する場合が多い。(*1)”

 

私たちの周りの環境も、人間環境も、動植物や、

自然環境にいたるまで、すべて、自分の心の鏡だと、

先人は教える。

すべて 自分の遭遇しているあらゆる物、人、事象、

それらは、”自分自身と同一線上にある”ということ、

”同一の呼吸”をして、自分をさらに拡大化した”、

大きな自分自身”であると理解することができる。

                             

”自分は他であり、他は自分と感覚する。

ゆえにその性質は生後に基づき、地上人もその周囲を

自分化しようとする意思を持っているのである。

しかし、地上世界は物質的約束によって、想念の

ままには動かない。

死後の世界もまた、生前と同様であるが一度、

物質世界を通過したものと、しないものとの

相違が生じてくるのである。

だた、いずれにしても、物質世界との密接なる

呼吸のつながりを断ち切ることはできない。

物質は物質的には永遠性を持たず、霊は永遠性を

持つが、霊的角度から見れば永遠性を持たない。(*2)”

 

ここに言う、”物質には永遠性がないということ、

霊はそれを持つが、霊的角度から見れば永遠性を

もたない’とはどういうことだろうか?

霊的角度から見るというのは、きっと、霊性ある

ものも、さまざまな段階があるがゆえに、必ずしも、

永遠性を自覚している霊だけではないということだろう。

 

しかし、物質のような儚い震動物体よりも、緻密で

硬固な霊的震動をもったものを比べれば、はるかに

永遠性が理解される対象といえるだろう。

                              

”しかし、物質面より見れば永遠性をもつものであり、

遠から永遠に弥栄してゆくものである。

しかして、永遠性をもつ事物は 地上的物質的事物を

自分に和合せしめる働きを内蔵している。

無は有を無化せんとし、有は無を有化せんとし、

その融合の上に生命が歓喜するのである。(*3)

無は有を生み、有は無を生み出す大歓喜の根本を

知得しなければならない。”

 

”無は有を生み、有は無を生み出す” という表現

は含蓄深い。

無といっても、この場合、空の概念にも似て、

何もないところから大生命という唯一の存在波動が

ある空点が 動いて、有 になり、

物質的現象として現れている 有 がまた、原質に

戻って、目に見えない空点に戻る と繰り返し、

生成が行われ発展がみられ、醍醐味と悦びがある

ということなのだろう。

この無と有が混然一体となって、まとまったもの

に形を作っていくとき、空の方向性に遠心力が

働いていることがわかる。

人の健康も、同様であって、そうした遠心力に

敏感になると、心身がおのずから整ってくる。

 

昭和30年11月3日、文化勲章を授与した、二木博士

がそのことを、独特な表現でこう表している。

その遠心力は、西洋的な、外に向かって引っ張られ

拡散力と違い、対角線上にあるという。

博士は、これを、典型的な”日本方式”と呼ぶが、

それは、一体、どのようなものなのだろうか? 

 

“われら日本式は、求心的帰一的研究である。

どういうことかといえば、個々の現象を一つの中心

まとめてしまう方法である。

医学で言うのなら、その中心というのは、生命である。

生命には 空気も 日光も 水も 草も 木も必要である。

そして、空気も日光も水も草も木も すべて生命に

帰一するのである。” 

(引用終わり)

 

物質ではない、量子の世界でもない、空なるすべての

中心点に、”生命”を位置づけて

いるのが 興味深い。

生きるためには、空気、日光、水、草、木、という、

自然の要素は必須だ。

そしてまた、それらの自然の要素は、生命という、

まことに不思議で、どんなに進んだ文明の機器も、

コンピューターでも、”生命”だけは、創造すること

はできないし、超一流の科学者も、実験室の中で、

生命を複製することだけは不可能だ。

なぜなら、生命は、”空”なる存在だから・・

 

どうして、そう言えるか? 

それは僭越ながら、自分の心の、空の波動がそれと

同調して教えてくれる、というのが、正直なところで、

でも、この考えに同調してくださる読者の方が必ず、

おられると、私は考えている。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

物質界とは?一二三神示から

2022年04月01日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

”悪と善”二元的価値が対立する世界                2022年4月1日

*****************************************************

青い文字が、一二三神示からの引用です。

 

悪的感覚と 悪的実態は、おのずから、別である。

この実情を感覚仕分けたうえ、悪を悪なりと

定めてしまって、悪はすべて祖先より、あるいは 

原因の世界より伝えられたる一つの因果であると

いう平面的、地上的考え方の誤っていることは、

以上のべた処で明白となり。

己を愛するは、まず、悪の第一歩なりと考える。

その考えが悪的であることを知らねばならぬ。

 

スダ注:傍線部分のご注目ください。 

物質的世界の特徴は、因果で物事を判断すること。

そして、それは一二三神示によると、平面的で、

地上的という形容詞がついています。

さらに、己を愛すること、それは、とても大切な

ことであるのにもかかわらず、

エゴイズムの一歩ということで、悪いことと

考えられているのが、残念であります。

 

来るべき新天地には、悪を殺さんとし、悪を悪として

憎む観念はなくなる。

しかし、それが、最高の理想郷ではない。

さらに弥栄して、高く、深く、歓喜に満つ世界が訪れる

ことを知り、努力しなければならない。

 

スダ注:悪を殺さんとし、悪を悪として憎むのが 

私たちの地上の世界の常識的正義です。

でも、それは、限られた智で判断する私たちの

正義であり、限られた智慧というのは、

現世を生きるための五感の感覚機能を主体とした

肉体に属する知恵のことです。

それは 前回お話した、量子的世界や、

空の世界という、超越意識の中で直観的に

真理を知る第三の眼でみる、智慧とは

区別されています。

 

人の良識で判断すれば、悪が許され、大手を振って、

往来を闊歩するこざかしい人たちに

その権力だけで追随している人たちを含め、

公平さに欠けたさまざまな、世界的な

理不尽な事象が目につくことでしょう。

 

何も、悪いことをしていないのに、どうして 

善人たちが、こんな目にあって、

悪いことをしている人が、繁栄するのだろうと

疑問にもなります。

ここで、神示は、そういう事象も、その事象で

悪が出てくることも真の智慧をもってみれば、

必要悪であるゆえに、地上人の言う長い目でみれば、

善 が生きて、強くなるための踏み石になり得ると、

前回ご紹介した中にもありました。

本来悪はなく、暗はなく、地獄なきことを

徹底的に知らなければならない

という神示の言葉がそれに続いていました。

悪的感覚と悪的実態は自(おのず)から別で

あるが、この実情を、感覚仕分け得て

体得する霊人は極めて少ないがごとく、

地上人に至りては、きわめて稀であることを

知らなくてはならない。という神示とともに・・・

 

とはいうものの、この 悪いとする感覚からくる

信念と、実際の必要悪であるという賢い判断は、

なかなかできずに、実態があるから、悪がある

とは限らず、悪があるから、必ずしもその実態が

そうであるとは限らないという考え方は、

わかりずらく、ややこしい話です。

 

これらの複雑な要素を、きちんと、仕分けられる、

体得する霊界の人は、きわめて少ないと 

神示で延べられ、さらに、我々肉体を持っている

人間に至っては、その境地に達することは 

それ以上に稀で、難儀である以上、このことを

心底、理解するためには、相当な修行が

必要でしょう。

 

霊界にいれば、実際、肉体はないから、悪 という

感覚的判断を、想念機能でするのですが、

それでも、肉体の目よりは、かなり緻密な

霊的感覚をもって判断出来えることでしょうが、

真理の実態を 悪 の観方を、つかみきることは

難しいのなら、我々人間にとっては

なおさらと言えるでしょう。

 

それをつかむためにどうしたら良いかといえば、

私は、”己を愛する”ことだと思います。

神示では、これこそ、悪の第一歩なりと 

普通に考えられがちだと述べられています。

”その考えが悪的であることを知らねばならぬ” 

と断固として言い切られているのは

どうしてでしょう?

この中でいうところの、”愛”、自己愛は、

決して、地球人的意味合いのそれではなく、

むしろ、自分の実相を知り、それを愛する

ことであるから、とても必要な愛といえそうです。

自分の実なる姿は、天明の書記にあるように、

歓喜そのものです。

それによって、人に対する、観方も変化する

だろうし(4)で述べられた、他者や環境が

自分に投げかける’悪的行為’も 今までとは

違う局面から観ることが可能になるでしょう。

 

そのことは、以下の神示に こう示されています:

これは生前、生後、死後の区別なく、すべてに

通じる歓喜である。

一の天界に住む、天人が、二の天界に上昇

したとき、一の天界はきわめて低い囚われ

の水の世界であったことを体得する。

さらに、一段上昇、昇華して、三の段階に

達したときも同様である。

地上人的感覚によれば、二の天界に

進んだとき、一の天界は悪に感じられ、

三の天界に進んだとき、一の天界は

最悪に、二の天界は悪に感じられる場合が多い。

天界にもいくつもの層があることは知られている。

その層を 一つめ、二つめ、三つ目、

と段階を追い上に昇るごとに、前の層は 

今より劣っていると感じられる

 

悪に感じるというのは、ここでは、劣って

いるものとして、感じられるということ。

こうして、人の魂は次々に 北を目指して

中心へと向かって、本来の魂に帰化するために

生長し続けているといえるのでしょう。

 

 

 

 引用部分: ”ひふみ神示” 2011年

 岡本天明著 太陽出版 

 

 *******************************************

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

物質世界:ひふみ神示~、諸悪の解釈

2022年03月23日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

物質的世界と霊界との善悪のつけ方          2022年3月24日  

**************************************************

先日、一二三神示の第七帖を読んでいて、

侵略戦争とか、独裁者、犠牲者、被犠牲者、

ミサイル攻撃、生物兵器使用云々と、

このところ、ソ連とウクライナの

ニュースを見ながら、誰もが心を痛める中、

数年前に読んだ時と、違う実感がありました。

物質界、量子界、実相界(空の世界)が

あることを、前回の書いていましたが、

その続きとしてお読みください。

 

  ( 第7帖の原文~かなり、判読難解)

 

①”地上には地上の順序があり、法則がある。

霊界には、霊界の順序があり、法則がある。”

~スダ注:地上の法則と、天界での法則は、

異なる。

 

②霊界が、原因の世界であるからといって、

その秩序、法則をそのまま地上には移しえず、

結果しえないのである。

 

~スダ注:だから、霊界(具体的には、

時間空間を超えた、超物質界に、その原因

になるエネルギーの元があったとしても、

天界での法則は、地上では効果的に働かない。

 

③また、地上の約束を、そのまま霊界では

行い得ない。

しかし、これらの全ては、大神の歓喜の中

に存在するがゆえに、歓喜によって、

秩序され、法則され、統一されて

いるのである。

 

~スダ注:地上での約束は、霊界では

通用しないのだが、地上も天上の

世界も、共通していることは、一つ、

宇宙を創造・統一しているエネルギー体

は、喜びとか幸せとの塊のような

もので、結局のところ、それによって、

それぞれ、両次元の世界が保たれて

いるのである。

 

③その秩序、法則、統一は、一応完成

しているのであるが、その完成から

次の完成へと弥栄する。

ゆえにこそ、弥栄の法則をもって、

全体が呼吸し、脈拍し歓喜するのである。

 

~スダ注:その歓喜のエネルギー体は、

すべてを覆い、調和させ、統一と秩序

を保っているが、(現状のような

不完全の姿をもって)さらに、次へ

の完全なる完全へと、向いている。

これが弥栄(いやさか)の法則であり、

そのもとで、全てが呼吸して、

万物は生かされ、その法則が脈打つ

からこそ、喜びが生まれる。

 

ここで、付け加えれば、”悪人が栄えて、

善人が苦しむ”、という世の中の不条理も、

短い時間的スパンと狭い視野では、

その”弥栄(いやさか)”など、想像すら

できない。

しかし、長い目で見ていけば、人間の

知恵を超えた”知性でみれば、それら

の悲劇や不幸は、一時的で、もっと、

より良い世界が、待っていると

次のように言っている。

 

④これが、生命の本体であって、

限られたる智によってこの動きを

観るときは、悪を赦し、善の生長

弥栄を殺すがごとくに感ずる場合

もある。

しかし、これこそ、善を生かして、

さらに活力を与え悪を浄化して、

必要の悪 とし、必然悪 として

生かすのである。

 

~スダ注:これが(歓喜の中で

呼吸し、弥栄の中で伸びていくこと)

万物にとっての本体だが、人間の

ような限られた智慧で、その

動きを観ていると、悪いものが

許されて、良いものを殺している

ように感じるときがある。

しかし、その反対で、このような

ことが起きても必要悪であり、

さらなる活力が善の世界に

動いて、こうした悪は浄化されて、

より良き世界が生まれていく。

 

⑤生きたる真理の大道であり、

神の御旨なることを知り得るのである。

本来悪はなく、暗はなく、地獄なき

ことを徹底的に知らなければならない。

 

~スダ注:本来の変わらない真理の道と、

神の意思を、そういう時にこそ、知りえる。

つまり、本来は、悪と呼ぶものはなく、

暗さもなく、地獄のような実態は、

存在しないということを心底、

ここで観じて、知る必要が出てくる

 

⑤これは生前、生後、死後の区別なく、

すべてに通じる歓喜である。

一の天界に住む、天人が、二の天界に

上昇したとき、一の天界はきわめて低い

囚われの水の世界であったことを体得する。

須田注:それらが実態なく存在せず、

歓喜のみが存在している。

この歓喜は、一過性のものではなく、

生まれる前から、生まれた後、そして

死んだあとも、不滅に、通じている

歓喜である。

始めの天界にいた霊魂は、第二の

天界に上ったとき、初めの天界が

とらわれのある世界だったとわかる。

 

⑥さらに、一段上昇、昇華して、三の

段階に達したときも同様である。

地上人的感覚によれば、二の天界

に進んだとき、一の天界は悪に感じられ、

三の天界に進んだとき、一の天界は

最悪に、二の天界は悪に感じられる

場合が多い。

スダ注:こうして一段ずつ、登って

いくと、同様に以前の段階にいたときには、

悪があるように思えるだろう。

これを地上の物質世界に住む人間の

感覚でいえば、上の天界に進んだとき、

その前の天界は 悪が強いように

感じられるだろう。 

さらに上にに進めば、はじめの天界は

最悪な世界だったと感じるだろうし、

前にいたところは、悪い世界だったと

感じられることが多い。

 

⑦悪的感覚と悪的実態は自ら別で

あるが、この実情を感覚仕分け得て、

体得する霊人は極めて少ないがごとく、

地上人に至りては、きわめて稀である

ことを知らなくてはならない

 

スダ注:このように、悪だと感じる

感覚と、本当に悪なのか識別できる

ことは、別物である。

霊界の魂でさえ、正しい判断をして、

この二つを分けることは難しいのだから、

地上に生きている人間にとっては、

この二つの仕分け能力がある人は、

きわめて稀といえるだろう。

 

つまり、戦争や社会的悪といわれる

事柄に、それを起こす人たちや、

行動を悪いと感じることと、本当に

悪いのかどうか?と、識別をもって

分別することは、異なるし、

単純ではないということなのだろう。

一つの歴史の一コマと、その意義を

省み、理解するのには多大な月日が、

人類には要するのかもしれない。

 

 

 

一二三神示を自動書記した、

岡本天明氏について

 

1897年(明治30年)12月4日 - 1963年(昭和38年)4月7日

画家神道家、また、神典研究家である。

岡山県倉敷市玉島出身。

本名は信之、天明は「雅号」である。

信之は1944年(昭和19年)に

千葉県印旛郡公津村台方(現・成田市台方)の

麻賀多神社末社である天之日津久神社を参拝する。

その直後、同神社の社務所で『日月神示

(別名:『ひふみ神示』、『一二三神示』)を自動書記する。

この自動書記現象は約17年間にわたって続き

後に全39巻(本巻38巻、補巻1巻)にまとめられた。

なお書かれた文体は漢数字とカナ文字と記号などからなり、

書記した 天明自身、当初はまったく読めなかったといわれる。

(以上 ウィキぺディアより抜粋)

 

**************************

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨガの大元=不二一元論のイロハ(3)

2021年03月08日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

ヨギの取るべき食餌~食事だけに限らないという話      2021年3月8日

*********************

前書き)

ヨガの大元とは、ヨガ理論の基本という意味で、そこには

ヴェーダ哲学の不二一論説がある。

ヨガの語源はユージュナーというサンスクリット語で、

これは本来の自分の中にある神と、身体を持った

自分の意識を結びつけるというところから来ている。

インド古代からはヨガの熟練者をヨギと呼び、彼らは

その意味で、神と一体化する修行を積み、これが

今言うところのヨガとなっている。

様々な身体のポーズをとるハタヨガが健康的体操のよう

に人気を博しているが

色々な種類のヨガがあり、今、ここで皆様がこうしたものを

読んでいらっしゃるのも、ギャーナヨガと呼ばれる

真理知識を吸収するという、ヨガの行法の一つである。

自然治癒力が私の協会の主眼だがそのために、この知識が不可欠だ。

その理由は、ヨガの根底に流れる考え方が、私たちの意識を

生命力につなげることができるからだ。

そこで回数を何度かわけて皆様に16年のインド生活と13年の

大学院での研究生活の成果として、ヨガのイロハ

をお伝えしている。

その意味は、大きい。なぜなら、自己セラピーをするときに、

こうした知識があるかないか、

最終的に気合いを身体に流す時に大きな分かれ目を味わうことがある。

つまり、自分の生命力にゆだねられるか否か、の、その瀬戸際で、

人は最終的に信じてきた方向に向くものだからだ。

もちろん、現代医療に異議をとなえているからではないが、

自分の生命力を信じられれば,国民の薬代は大きく減る事だろう。

 

自分の生命力を信じられるということはどういうことか? 

それは”生命力”は、自分の持ち物ではなく、神様といわれる

宇宙の大きな叡智からお借りしているものであると知ることだ。

そして、そのためには、この身体は夢のように儚いもので、

それを生かしている生命力とは全く

次元の異なることを知るということでもある。

言い変えれば、不二一元説という理論、これは難しい学説

ではなく、ごくシンプルに自分という本当の霊的存在は、

スピリチュアル的存在、あるいは、魂は、不滅のものである、

というものである。 

それを知るということは、本当の自分は宇宙の実存的(変わらない)

存在、あるいは、神(完全調和態)から派生しているものだと

目を覚ますことにある。 

もちろん、目を覚ますということは容易ではない。

頭でわかっていても目を覚ますことにはつながらない。

それは言い換えれば俗に言う、悟りを開くとか、大悟すること、

または、解脱することだから。

 

人は言い換えれば、そのために、何憶年かけて生物として

誕生した時代から、変わらない魂を持ちながら、

その魂の本質(ゴール)に,いきつくゲームを(神からの視点でいえば)

終わらせるために、何度も生まれ変わってきているともいえるだろう。

********************************

先回は身体を正しく用い、善い想念を持ち、善い行為をして、

善い結果を収穫するお話しだった。

今日は食事の規制について。

純粋な食事をサンスクリット語でサットワ的な食べ物と呼ぶ。

ヨギ(ヨガの達人)や僧侶、修行中の人は

決して動物食は口にしない。その意味はこうである。

私たちの想念は食べ物の種類によって決められると考えるからだ。

たとえば、燻製を造るとき、薪にどの種類の木を使うかによって、

火も煙も変わってくるようなものだ。

インドではサンダルウッド(白檀や紫檀)は香りも貴重で

最高級の木材だが、これを燃やせばお香となる。

中には燃やすと悪臭を漂わす木もある。

燻製を造るのにはそれにふさわしい木材を使うのと同様、

食物もそれによって想念の種類が変わって

くるから、ヨガをする人はそれにふさわしい食べ物をとる

ことが要求される。

 

避けなければならないものは、食べて体内で毒ガスが溜るもの、

血液が清浄になるもの、脂肪がたまり

血管が収縮するもの、そして頭に浮かぶ想いが良い思想を産むもの

・・・などで、サイババ師は講義ではっきりと、

”わたし達の思想は自分が食べる種類の食物の結果です。”と教えた。

ヨガの目的は?

神との合一である。神との合一とは、具体的には心の安寧、

心身の調和、老齢の超越、新陳代謝や

免疫システムの活性化・若返りなどをさす。

 

先回のお話しにあったように、この身体はマンディールと呼ばれ、

神聖な社(やしろ)でもある。

でああるのならば、二つの食品はまず避けなければならないだろう。

誰もお宮の中で酩酊状態になるまでアルコールを口にする人はいないのと

同様、お酒はほどほどにということ。

もう一つは、お宮の中で異常に感情を高ぶらせる人

外に放り出されるのと同様、激情を燃え立たせる(ラジャス的)

食品は避けるべきだということになる。

 

肉類は肉食系男子という形容詞に使われるように、

エネルギッシュで活動的なイメージを与えるとおり、

激情を燃え立たせる食材である。だから、ヨギは菜食主義者となる。

 

以前ブログでも書いたように、万物には三つのグナ(性質)がある。

サットワ、ラジャス、タマスの三要素だ。

これはすべての物に人に状況に適応されるグナなのだが、

食べ物にも当然この三つの種分けが可能だ。

サットワ的な食べ物とは、バランスのとれた心つくり、

激情を押さえ、穏やかにさせるもので、木の実、乳製品、果物、

野菜、全粒粉の小麦粉や米などがあげられる。

 

ところが、サイババ師はこのような食材、口で消費するものだけが

身体に入る食物ではないという。

身体に入る食物~エネルギーとしては、眼や耳、鼻や手などの

感覚器官からも外界からの物体を消費するからだ。

すべてこうした五感の器官から入ってくる情報がサットワ的で

あることが真の意味で、心を清め安らかにするとサイババ師は教える。

 

たとえば、耳。

耳も純粋な食べ物を必要としている。それは何を指しているかと

いえば、耳は”神聖な言葉と神に関係する話を中心に耳を傾け、

噂話や悪口、マイナスの言葉に耳を傾けて、汚された情報を入れない

ように選択して耳を守ることが大切だという。

その上で口でサットワ的な食べ物を体内に消化させたとき、

真の意味でそれを消費したといえる

 

鼻の器官を例にとれば、鼻を通して、決して毒ガスのごとき

汚染された空気の匂いを体内に入れるべきではなく、清浄で

新鮮な空気を入れることに注意しなさいということになる。

もし、本当の悟りを開くヨギ(パラアートマ~至高の魂)

に達したければ、5つの汚染に心すれば可能だとスワミは教えた。

 その5つとは、言葉、見るもの、聴くもの、思想、行動である。

食物だけサットワ的な食べ物に注意していても、諸感覚で

こうした純粋でないものを取り入れていることをゆるしていれば、

結局、身体が清まることはできず、想念思考も至高の高みに

いたることができないと、言う。

 

スワミは身体を寺にたとえたが、五感の器官をその寺の門に

なぞらえて、私たちに説明してくれた。

寺の門を入れるものは、その寺の神を礼拝するために来たものか

帰依者に限られるというのだ。

身体も同様、5つの門があり、それが身体に備わった五感の扉

と言った。

五感の扉を開けて中にいれるべき対象は神聖であるものや考えで、

そうでないものを無差別にいれていては身体は神聖な寺院では

なくなると注意した。

 

さて、次に"ヴィハーラ”の問題を考慮しなければならないと教えた。

ヴィハーラとは場所や人、物などに関連する活動を意味している。

どんな場所に行くか、どんな種類の環境を作るかどんな種類の人たち

と付き合うか、ということだ。

ここで興味深い例をスワミは出した。それは”怒り”を制御するため

に森や人里離れた僻地に籠り、

修行や瞑想三昧にふける苦行者への提言だった。

ヴィハーラが大切なあまり、人間同志の付き合いを避け、

神を想うための瞑想の場所を見つけ、家族も捨てて孤独の生活

に入る苦行者は当時のインドでも決して少なくなかった。

すると、そのような純粋なサットヴァ的な生活をしていた

修行者にスワミは次のような質問をした。

”あなたは森の中に隠遁して難行苦行をしているようだが、

それで心の弱い要素、怒りや憎しみ、

などを征服することができると考えていますか?”

さらに、こう続けた。

”怒りや憎しみは人々といる時に起こるものであるのなら、

それを征服するのは同じ環境においてするのが妥当ではないですか?

なぜなら、森の中の孤独な生活では確かに静けさを保って

いられるが、いったん、群衆の中にもどれば、

前と同じ怒りが湧いてくるのは必然でしょう。

自分の諸感覚をコントロールしたいと思うのなら、

宗教的苦行でそれができると想像するのは錯覚にすぎない。

身体の微妙な働きかたを理解しなさい。

そうすれば簡単にあなたの目的は達成できる。”

 

私たちが巻き込まれる厄介な人間関係や問題というのは、

人間が自分の身体を正しく用いる術を知らないからだというのだ。

それは新車を買っても、新車の装備の働きを知らなければ、車を

動かすことができないのと同様だ。

さて、ここで又、食餌の話に戻る。こうして身体を正しく使う

ことを知らないということは、冒頭に述べたような毒ガス

を出すような食べ物を毎日数回、身体の中に投げ捨てていれば、

どのようになるかということだ

 

どうして、身体が毎日、不浄な食べ物を食べ続けていても、

人はそう簡単に病気にならないでいるのか?

それは、身体の中にはチャイタニアと呼ばれる’意識’が

働いているからである。

それでは次回はこのチャイタニアと呼ばれる身体の意識と身体を

活動させているアートマの働き、スワミの言う身体を正しく

使うための、ヴェーダで教える身体の機能について、お

話しを続けさせていただきたい。

 

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

ヨガの大元=”不二一元論”のイロハ(1)

2021年02月20日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

序章   2021-2-20

******************************************************************

前書き)

ヨガの大元とは、ヨガ理論の基本という意味で、そこにはヴェーダ哲学の

不二一論説がある。

ヨガの語源はユージュナーというサンスクリット語で、これは本来の

自分の中にある神と、身体を持った自分の意識を結びつけるという

ところから来ている。

インド古代からはヨガの熟練者をヨギと呼び、彼らはその意味で

、神と一体化する修行を積み、これが今言うところのヨガとなっている。

様々な身体のポーズをとるハタヨガが健康的体操のように

人気を博しているが色々な種類のヨガがあり、今、ここで皆様が

こうしたものを読んでいらっしゃるのも、ギャーナヨガと呼ばれる

真理知識を吸収するという、ヨガの行法の一つである。

*************

昨年2020年の12月、富士山のガイドさんをしている方の

お宅でお茶を戴いた。

その際、サイババ師のことが話題に上った。

すでに師が天国に行かれて何年になるのだろう。

私はスワミ(と師のことを呼んでいた)が亡くなるその年に、

友人のRさんとご一緒にスワミの住むアシュラムに伺ってダルシャン

(スワミと直接会って祝福を得ること)を得ていた。

当時の日本では、その何年も前からテレビの特別企画で、サイババ師

の奇跡がマジックかどうか?という話がとりあげられていたり、

サイババ師は不二一元説を教える師というより、奇跡的行為の

好奇心が勝って、多くの人の興味を引いていたようだ。

 

実際、今からもう、30年近く前に初めてサイババ師のアシュラムに、

印度の首都ニューデリーから飛行機やタクシーを乗り継いで

半日かけてたどり着いたとき、日本から来た信者さんたちが

20名ほどのグループを作っていたのが印象的だった。

皆、静かに、サイババ師の 講義を聞いていた。

サイババ師は講義でアートマという人間の本質を説いた。

その言葉を私は2012年に自然治癒力セラピー協会を立ち上げたとき

に正式な協会の名前として登録しようとした。

”アートマセラピー協会”と名前を付けた。

ところが、”アートマ”という言葉が当時はインターネットの索引検索

にも出てこなかったため、内閣府の担当部署から却下された。

その理由はアートマという”意味不明”な用語があるからといわれた。

ところが、昨今、印度の古典聖典のヴェーダやヨガスートラに

出てくる用語、アートマンとアートマなど、いろいろ

な人によって、解説されていたのには喜ばしい変化だと、嬉しく思った。

 

スワミ(サイババ師)は高等教育は受けていないのにかかわらず、

その講義には冒頭から美しいサンスクリット語のヴェーダの

フレーズが幾つも歌うように、スワミの口から語られた。

これから数回にわたり、私が学んだ、不二一元論説を、皆様と

一緒にシェアーしていけたらと願う。

それが自然治癒力の想念学的エネルギーの根本になっている

が、前にもお話ししたように、当時はまだ”アートマ”という言葉すら

意味不明の言葉として理解されない時代だったから、ブログに書く

こともためらわれた

が、今は世間が一転しているように思う。求道精神の高まりと

ヴェーダに対する興味、ヨガの実践者が増えて、真理への探究心が

深まってきているように思える。

さて、今日のお話しはブラフマンという言葉について・・・

 

①全宇宙は”ブラフマン”から出現した。そして、元の”ブラフマン”

に帰融するだろう。

”ブラフマン”の支配を超えた場所がはたして存在するだろうか? 

兄弟よ、純粋のサットヴァなるものを見よ!

 

このフレーズはスワミが美しく歌うように、講話の初めに語りかけ

聞かせる部分である。

ブラフマンというのは、正式には

サティアム・ジナナム・アナタンム・ブラムハと言う。 

ブラフマンはスワミはここでは固有の神をさすのではなく、

真理の存在”と語った。ブラフマンは永遠であり、真理であり、

変わらない普遍的な存在であることから、ヴェーダーンダ

哲学では、同義語とされている。

 

どんなに科学技術が発達して、人類の物質的進歩が著しく促進されても、

人間に内在している神性の尊厳が蝕まれているとスワミは嘆く。

学識があり、物質的に成功した人がインドでももてはやされて、

現代の社会のリーダーたちは、”真理”と”正義”を放棄した、学歴の

在る人たちによって占められつつあり、彼らは上辺は”国家を守る”

と言いながら、実はインドに害を及ぼしているとスワミは講義の中

で嘆いた。

 

人生の本来の目標、それらは4つある。4つのプルシャルダと呼ぶ。

それらはダルマ(正しい行為)、アルタ(富カーマ(欲望)そして

モクシャ(解脱解放)である。

人間の体でいえば、ダルマは足にあたり、モクシャは頭にあたる。

最終的にアルタやカーマなどの物質から解き放され解脱を得るために、

正しい道へ進んでいく足を持たなければならない。

 

スワミはここで聴衆の注意を喚起した。それは

”人は、アルタとカーマだけを渇望しているのでその結果、社会と

国家全体に無秩序と不安定を生み出す原因になっている”と。 

ダルマ(正しい行為)は忘れられ、真理への回帰は無視され、

人間性も健全に身体とともに成長することが難しい世の中になって

きているというのだ。

 

人間性の正常な成長にはサムスクリティ(文化)への理解が

必要だという。

サムスクリティの語源はサムスクリタムで、この意味は、

あらゆる物体を人間が使えるようにするために改善し

磨きをかける過程”というニュアンスがある。

喩えれば、稲を食卓に米として載せるまでの過程のようなもの。

刈った稲を束にして脱穀する。

それから米粒を

もみ殻から分離させる。

叩いたりウスにかけて玄米から皮を取り除く。小石や雑草の種子

など不要なものを取り除き米をきれいに洗う。

こうしたサムスクリティ(仕上げ)は人間の教育に当てはまると

スワミは語った。

生まれたままの状態から、内在の神聖な人間性を開花させるために、

学問的知識のほかに内面を、脱穀してもみ殻を取るが如く、

エゴや動物的資質などを取り除いていく作業が必要だと教えた。

 

神聖な人間性の中でも特に〝愛”の尊さを説いた。

そして愛ある行為を実行するためには、ダルマを守ることに

通じると言った。

ダルマとはある慣習や形式を守って正しい行いをしていくという

意味だけではなく、もっと広義にとらえられた。

つまり、想念と言葉と行為の調和、一致である。想いだけでは

ダルマは果たせられない、想いがあっても、それが言葉と裏腹

であればダルマは成立しない。

想いと言葉で表現しても、それを行動に移せなければ、ダルマ

にはならないのだ。

この三つの要素をトリカラナ(行動のための三つの道具)と呼び、

ダルマを成す人の三つのトリカラナは純粋性と調和がとられて

いることが第一条件とされた。

 

真理、ダルマ、その次に大切な言葉がアートマである。

ブラフマンとアートマは同義語である。それはアートマは不変

であるから。肉体が滅びても滅びないもの。

自分は誰か?何者か?エゴか?肉体の意識とは何か?

アートマ意識とは何か?

人は神なり、とヴェーダ哲学では説く。それなら、なぜ、こんなに

現象では人間は、不完全なのか?

アートマの自覚で生きるためにどうしたら良いのか?・・・

スワミはその後の講義でそれを説く。

 

この序章の最後に、スワミはインドに残る精神遺産を

次の三つの言葉にまとめた。

それは、”カルマ(普遍的義務)”ヨーガ”(心を制御して神と融合すると)、

ティアガ”(現世の執着を断つこと)。

つまり、カルマの遂行を現世の執着をはがしながら、神と融合

することによって行う資質のある国民性が印度人の特性と賛美した。

これは、決してインドだけの話ではなく、私たちすべて、地球人

として生まれたこの星の上での生活の中で、そうした性質を実現して

行く目標でもあるのだと思った。

 

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする