お炊き上げと護摩行 平成25年9月2日
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真言 という言葉をそのまま使っている 仏教宗派がある。
真言密教だ。
弘法大師が開いた真言密教の中で、”真言” は重要性を持つ。
それは、”言霊” の威力 によって、 魔を祓い、病すらそれによって、
治すことも可能だからだ。
言霊の威力というのは、その聖なる言葉の発する振動が、人や事象に変化を
与えることもできる。
弘法大師の書かれた”即身成仏義”に次のような言葉がある。
”六大(*1)は無碍にして、常に瑜伽(ゆが)なり。”
”諸の顕教の中には 四大等 を以って、非情とす、密教には 即ち
これを説いて 如来の三摩耶身とす、四大等 は 心大 を離れず” と説いている。
意味は、
物質はそれぞれ、お互いに無碍涉入(むげしょうにゅう)しており、
物質は単なる、物ではなく、ことごとく意識を備えた物心一如の自覚体である、
一木一草森羅万象、総て自己との深い関わりがあり、それらの存在するところに
人格的存在があり、仏の三摩耶(samaya=誓願)によって、
貫かれた、如来の三摩耶身である・
言い換えれば、この世の中の万物は 如来の心の顕れであり、すべての存在に
その心が流れているから、自分と、まわりの自然事象とはすべて深い関係で、
繋がっている、ということだろう。
或いは、それらの事象と一如であるからこそ、自分の発するコトバの波動に
よって、すべからく、自分を含め周りの事象の変化を可能にするのである。
この言霊の威力を使う真言密教の行の一つに護摩法(ごまほう)がある。
四角の炉に蒔きをくべ、火を燃やし、真言を唱えながら行う、心身清浄の行だ。
筆者がガンジス河の修行所で体験したそれは、次のようなものであった。
”・・・・・スヴァハ” で終わる マントラを繰り返しながら、そのたびに、
香木が燃えたぎる炉の中に、お香や、花や米などの供え物を投げ入れる。
日本では、数度、真言宗の寺や、大山御不動様また、鞍馬の満月の祈りの夜
などでお焚きあげを体験したが、ガンジス河の古式の護摩法の儀式と根本的
に同一な儀式であると直感した。
護摩行に関しては、印度の古代聖典、ヴェーダの中で、リグ・ヴェーダにその儀式の
方法が書かれている。
火炉(かろ)に供えられた供物を聖なる火で焼き、火煙となった供え物は、天の諸神の
もとへ運ばれる。
と同時に、この火炉の薪(たきぎ)は智慧の火の象徴であり、燃やすお供物は、
我々の煩悩と欲である。
それらが 智慧の火の中に交わり、溶け、燃え尽き、さらに、煙となって、
転化して上昇、天に昇っていく。
つまり、煩悩が燃やされ、新たな智慧のエネルギーに転化し、昇華していくさまを
深く、観ずることも、護摩行の特性であるだろう。
日本の密教では こうした理念を受け継ぎお炊き上げに繋がっていくのだろう。
このお炊き上げの裏にある真の意義は、印度で生まれた、タントラ密教の考え方
にも通じるものがあり興味深い。
我々の欲望を否定するのではなく、それを聖なるエネルギーに同化させていく
手段と考える。
象徴的に 聖なる火 で それらを燃やす。
欲そのものは悪ではない。欲は誰しも持って生まれた煩悩、
それは生命力の伸びようとする、エネルギーの顕れでもあり、自分を浄化
せしめるパワーの根源でもあるのだ。
キリスト教会の教義によると、
”人は罪深い原罪を持つ”存在で、 赦しと救済が必要だから、イエスが
十字架にかかり、贖罪をしたと説かれる。
イエスを信じることで、罪は許されるが、永久に、人と神との間に
越えられない一線があるという。
一般的キリスト教考え方とは、そこで、密教は、意見を異にする。
護摩行では先にもお話ししたが 真言が唱えられる。
サンスクリットで言うところのマントラだ。
般若心経で書かれている、”呪” である。呪、呪文というと、漢字では
呪い(のろい)と同義語に錯覚しがちだ。
しかし、呪いのような、言霊を利用した、よこしまな呪術は真言密教では、
禁じられる。
よこしまな呪術 というのは、言葉を変えれば、己の欲望のために、
言霊 を行使して、”小自我の欲求達成のための手段”とすること。
般若心経の 呪 は、その意味とは正反対の自分を縛る執着(呪縛)
からの解放を得て大我意識に到達するための言霊をさす。
例えば、念仏や念誦に用いられる呪文を密教では
vidya(明呪)、
mantra(真言)
dharani(ダラー二)
と呼んでいる。
その梵語のもともとの意味は、
vidya( 明呪 ) は般若の智慧( ヴァンニャー)であり、無明を開き
真理に明るくする智慧。
mantra(真言)は、神聖な思想を盛る器の意味。
dharani (ダラー二)は、精神統一する際に必要な精神力。
をそれぞれ表現している。
弘法大師が、
”真言は不思議なり、観誦すれば、無明を取り除く。一字に千理を含み、
即身に法如を証す。”
といわれた、不思議と述懐された真意は、魔術的な要素 をさして
いるのでなく無明を取り除く、という真言(マントラ)の不可思議さを
さしているのだ。
真言の一つの文字に 千の(無数の)真理をあらわし、これを理解したとき、
その身に功徳をいただき、真理と一体(大我)を実現するということを
大師は、言われている。
護摩法とお炊き上げ、そして 真言の祈り、それらはすべて、不浄を燃やし、
燃やして残る大我(人間の実相)の顕現を目的にした、儀式ということで
共通しているようだ。
補足*1) 地・水・火・風を四大、それに空・識を加えて六大元素とする