ラーマヤナの中の呼吸行・・・平成25年10月2日
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どうしたら悟れるのか?
悟れば、病や現象苦から、開放されるのだろう。
”悟りは、自分の中にすでにある。
自分の実相に気が付けばよいだけだ~”と
覚者は教える。
ならば、どのようにして、自分の実相に
トランスフォーメーション
できるのだろうか?
ラーマヤーナ(*1)のお話しを想いだす。
王子ラーマは、王子の存在を疎ましく思う、父の愛する
若い妃 カイカ の企みによって、14年に及ぶ、
森の中で流亡生活を余儀なくされた。
父との約束の年月が過ぎ、アヨージャに戻ってきたとき
ラーマを陥れた張本人、カイカ王妃 はラーマの気高い神聖さ
を認め、自分が霊的になれるよう、知恵を与えて
欲しいと懇願する。
心の広いラーマは この願いを聞き入れ、王妃に、
いくつかの ”ヒントを与えた” と言われている。
”ヒントを与える” の意味はどういうことだろうか?
ラーマ王子は、宇宙を維持する力の象徴、
ヴィシュヌ神の化身。
ここでは、神は 信者の霊的願いをかなえるとき、
ヒントを与えるのみで、直接的答えは、出さないものだと
暗示されている。
答えは、人間自ら 神から与えられたヒントから
引き出さなければならない。
つまり、間接的に、人や事件を介して、神は、人に必要な
気づきを与えるというわけだ。
私たちも、日常で時々体験することかもしれない。
人生の迷い道、暗闇で光を求めながら
”答えを知りたい” と心で 切実に求めていると、
周囲の人の意見や 本などから、間接的な言葉として
ヒントが与えられ、それをもとに、次に進むべき道が
わかってきたり、勇気を与えられるという具合だ。
大師はいう。
”それは 人は誰にでも 神聖な性質が
備わっているから、
神が その資質を使い、答えを欲している人に、
ヒントを与えるのだ”
と・・・・
会話の中で、人への何気ない助言とか、
思いつきの一言が
相手にとって、大きな慰めになったり
気づきのヒントになるときがあるかもしれない。
そういうとき、神様がその人をお使いになって
助言の必要な相手に
気づきのヒントと、愛を注いでおられるのかもしれない。
神は そのような場合、あくまで
私たち人間の自主性を重んじられる~という。
そのため、熱心に答えを神に求めても、直接的でなく、
間接的な示唆を与えられることの方が多いのだという。
そうすることで、
人の自由も尊重される。
あくまで本人の気づきと 自らの、自主的な動機づけ
しか、その人の行動を変えることはできないからだ。
大師は言う。
”人の心を変えることほど難しいことはない”
と。
本筋に戻ると、
ラーマ王子は 以下のような質問を
自分を欺いた 義母の立場にある王妃から受ける:
“愛するラーマ、あなたの聖なる本性を知っていたのに
かかわらず、私は 自分のエゴ意識 “我”と“我の物”
という狭い感情と価値判断のために、あなたに多くの
苦難を与えてしまいました。
どうか私を赦し、私に霊的な智慧を与えてください。“
ラーマは 王妃カイカに こう助言した。
“母上! どうか 聖なるサラユ河で水浴して、
ここに戻って、私の霊なる言葉を受けてください。
沐浴している間に、何が起きたか報告をしてください。“
カイカは素直にその言葉に従い、沐浴して
ラーマの元に戻った。
そして、次のように報告した。
“何ぴきかの羊と山羊が土手の緑の草を食べ、時々、
メ―エエと鳴き声をあげていました“
そこで、ラーマは 義理の母に
“その山羊と羊の鳴き声こそがあなたへの霊の助言です。
その鳴き声の意味は ‘私は誰でしょう?’と問う声
そのものでした。
羊たちでさえ、そう質問しているのに、その疑問さえ
抱いたことのない人がいるとしたら、それは、羊にも
劣るというわけです。”
私は誰?
サンスクリット語では “コーハム?”、
そして 答えは “ソーハム” だ。
王妃カイカ は、ラーマから、自分がだれか?
と問わない人は、山羊や羊より劣ると言われ、
ソーハム という答えを引き出したのだろうか?
ソーハムとは、”私は神なり” という意味をもつ、
真言(マントラ)である。
最も短く、そして、もっとも最強のマントラとも言われる。
自分のアハムカーラ小我)を 大我に昇華させ 自分の
本質を知ることができる。
ラーマは そのために、羊の鳴き声を例にとって、
真言(マントラ) ソーハム を カイカに 教えたのだった。
ところで、
一日 私たちは 何回 呼吸するのだろう?
6秒に一度とすると、
一分10回、
10分100回、
一時間600回、
そして 一日はその
24倍の、14400回。
その呼吸のたびに、”ソーハム”のマントラを
心で意識して唱えるだけで
私たちの ”エゴ意識はなくなる” と
大師は語る。
so は 息を吸う時
ham は 吐くとき
に唱える。
さて、ラーマヤナの中で、ラーマ王子がスリランカ島の
ランカ王に捕えられた 妻、シータを助けに行く場面がある。
その際 お供したのが、ハヌマーン、猿の面をもった
忠実な家来であった。
ラーマ王の話は、印度国内のみならず、東南アジア各国文化
にも影響を与え、その物語性が取り入れられて、
いまだに 仮面劇や影絵芝居などで、踊られたり、
演じられたりしている。
一説には、日本にも伝わったとされる。
お伽噺の桃太郎の家来になった猿 が ハヌマーンの
モデルではないかとも言われている。
桃太郎童話は、”鬼が島”に、桃太郎が家来に雉と猿を
連れて行き、鬼を征伐して還ってくる話。
ラーマヤナでは、ラーマ王子が 猿種族の空も飛べる
ハヌマーンを連れて、スリランカ島 の悪名高いランカ王
(鬼)を成敗する話だ。
さらに、日本では、猿の神様といえば、猿田彦が
思い浮かぶ。
日本書紀などにも
「国初のみぎり天孫をこの国土 に御啓行(みちひらき)
になられた」
と伝えられていて、ハヌマン同様、先導の役目を果たし、
地方によっては、道祖神 として祀られているところも「
あるという。
猿田彦は、天孫降臨 の際に道案内をしたということから、
道の神 とも言われている。
さらに、ハヌマン神は 中国に 渡ったという説がある。
西遊記の有名な”孫悟空”のモデルと言われている。
ハヌマーンは 知恵もあり、忠実で、勇敢、かつ、空を飛べる。
孫悟空が 空を飛び、自由自在に体を
変貌させ、三蔵法師を、庇う 守護者のような役回りを演じて
いるところも、ラマ王子に使えるハヌマンの活躍を
彷彿とさせる。
こうして見ていると、桃太郎の家来猿も、孫悟空も、猿田彦も、
ハヌマンと、どこか通じるところがあるような気がしてならない。
ラーマ王子の物語の立役者、ハヌマーンは、その功績から
いつの間にか 忠実な神の下僕として、篤い信仰を受けて、
”神” と してあがめられ 現代でも、多くの信者を
有している。
*1)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
(2013/07/15 14:15 UTC 版)
『ラーマーヤナ』(Rāmāyana、サンスクリット:रामायण 英語 en:Ramayana)
『マハーバーラタ』と並び称される古代インドの大長編叙事詩。全7巻。
「ラーマ王行状記」の意味。
サンスクリットで書かれており、その長さは48,000行に及ぶ。
ヒンドゥー教の神話と、古代英雄であるコーサラ国のラーマ王子に関する
伝説をまとめたもの。
活躍する人物は 全てクシャトリヤであり当時のクシャトリヤ勢力
の台頭を反映している。
詩人ヴァールミーキの作とされているが、実際には、紀元3世紀ごろに、
多くの民間伝承を彼が編纂したものとされる。
但しラーマーヤナの核心部分は、第2巻から第6巻とされ、
その成立年代は第1巻と第7巻よりも古く、概ね紀元前4-5世紀頃とされる[1]。
数多くの絵画、彫刻、建築、演劇、映画、ドラマ、音楽、舞踏などの
題材とされており、インド、およびその文化を取り入れてきた東南アジア
一円に深く浸透している。