馬を乗りこなす~今年を本意のままに 平成25年1月2日
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新年明けましておめでとうございます。
今年は午年、馬といえば、古代インドの賢人が馬を
人の感覚にとらえていたのを思い出します。
感覚で受ける、感受性・・・
今日のテーマです。
感受性は五つの感覚受け止めた”対象物”
への心の反応といってよいでしょう。
印度古代賢人たちは、諸感覚を馬(アスワ)に例えています。
なぜ諸感覚をアスワ=馬に比較しているのかといえば、
馬の習性が諸感覚と似ているからなのです。
というのも、よく見ると、馬はたえずどこか、体の一部分
を動かしています。
しっぽや脚、背中や顔など、じーっと落ち着いていることがない、
つまり、私たちの諸感覚もそれに似て、絶えず、揺れている。
友人と真剣に話し合っている時に、突然、昨日から気に
なっていることや、全く関係のないこと、
たとえば、今夜のおかずのことなどが頭に浮かんだことが
ありませんか?
心が一瞬 ふっと、自分の集中していることとは違う方へ、
かた向く、それは、諸感覚は常にいろいろなヴィジョンや刺激を
頭に伝える役目を果たしている証拠ともいえるでしょう。
感受性がもたらす感覚は、5つの感覚機能をとおして伝わります。
この感覚器官にはそれぞれ制限があります。
眼は見るだけ、鼻は匂いをかぎ分け、舌は味わい、耳は聞く
というように、感覚器官が馬だとすれば、私たちの体は、
5頭の馬によって いつも、ひっぱられているわけです。
ヴェーダのウパニシャッドにこう説明されています。
“その昔インド古代において、犠牲祭(ヤーガ)が執り行われ、
時の統治者は馬を捧げた。
それは、心が変わりやすい諸感覚に支配されないように、
心が国をほろぼすことが無いように願い、アスワ(馬)を
神にささげることで、自己のアスワメーダ(変わりやすい心)
を自制できるように祈るためだった。“
このお祭りをアスワ・メーダ・ヤーガと呼んでいました。
時の勢力者が身体を正しい方向に導く有能な御者=
デーマンタ(馬=諸感覚、を正しく扱い統御できる人)
になるよう この祭事を行い、祈ったのでした。
一口に、”諸感覚の制御”といっても これほど難しいものは
無いと思います。
私たちは感覚を制御するどころか、逆に感覚に引っ張り
まわされていつの間にか 御者(真の自分)が
馬の言いなりになっている・・・
馬に引っ張りまわされて、知らずのうちに統制の効かない
馬車にのっていることもあり得るのです。
単純な食べる、飲む、見るなどの、意識的感覚を超えた、
高慢さや優越感 なども、身体に属する感覚でしょう。
特に霊的プライド(高慢)となると、厄介です。
ほとんど無意識のうちに自分を覆い、
御者の座に座っている場合が多いようです。
日常生活で “~しすぎて失敗した、”と 反省するときは
大概 馬の暴走による場合が多いようです。
食べ過ぎておなかを壊した、深夜ヴィデオを見すぎて疲れた、
など、何かに無中になりすぎて 気が付いたときに
”自制が足らなかった”と、反省することは多々あるものです。
古代インドでも感覚の判断の奴隷になり、
愛する息子まで失った国王がいました。
その王の名前はダサラダ王といいます。
彼には3人の妻がいました。
一番若くて美しい三番目の妻を深く寵愛したあまり、
その妻の要求に答えて王は愛する息子を森にと追放します。
昨年ブログでお話しした、あの、神の化身ラーマ王子です。
息子との離別によって その後さまざまな不幸に見舞われ、
王は深く悔いるのですが、それも、美しい妻に自制心を失い、
妻の願いをかなえるために、理性を失ったためでした。
この話をもとにラーマヤーナが書かれます。
この話はちなみに、アジア各地にも伝わり、インドネシアや
タイでは影絵や踊りなどのモチーフとして、現代にいたる
まで上演されています。
ラーマ王子は ラバナという特別の力をもったスリランカ
の王を倒すために海を渡り戦います。
その時に猿が大活躍します。
この猿が神格化されて忠誠の代名詞となる、
ハヌマーン神です。
ラーマが桃太郎ならば、鬼ヶ島がスリランカ島、
鬼はランカというスリランカの王さま、にあたります。
犬(忠僕の意味)と雉はハヌマーン(猿神)が
一人三役しているわけです。
犬という忠僕さと、雉という空を飛ぶ能力を兼ね
備えた臣下としてラーマ・ヤーナでも、ハヌマーン神
は描かれています。
話しが脱線してしまいましたが、
3人の妻でさえ、コントロールすることが難しかった
ダサラダ王ですが、10人の妻がいたら、一体
どうなったのでしょうか?
実は誰にでも10人の妻、または恋人がいるのです。
それは5つの感覚器官とそれによって支配されている
5つの行動器官を合わせた数です。
先ほどのべたようにそれぞれの器官は一つの役目をはたします。
ですから 私たち誰でも、5つの感覚と5つの行動機能、
計10の統御すべき妻(恋人)がいるということになるのです。
たとえば、食事をして美味しいと舌が判断すると、
もっと食べたいと試みます。
良い音楽を CDで聴いて感動すれば、生演奏を聞くために
コンサートに足を運びます。
かぐわしい香に惹かれて、その香の香水を探します。
そのように、五感で得た快感にしたがって、その快感
や刺激を得るために、私たちは毎日 行動しています。
生きるためには、五感の快感の追及は必要ですが、
それが過度になったとき、いろいろな悲劇が生まれる
のは、古代インドのダサラダ王の時代と変わりはない
ということでしょう
馬が感覚器官であるというなら、その馬を統制する、
御者(ぎょしゃ)が手綱をしっかり持って、馬がきちん
とした道を進むように、大きな石に躓いて 馬車が転倒
することがないように絶えず注意しなければ 乗って
いても安全であるとはいえません。
同様、私たちも感覚器官をコントロールしようと
いう意思がなく、感覚を享受することにのみ集中すれば
御者がいないのと同然になってしまうとヴェーダは教えます。
自分の心の中にいる御者とは?
想念、想いというのは外から感覚器官で受け取った感じが
心に伝わり、愉快・不快、好き・嫌いの単純な心象を
生みます。
その時 心がその心象に、振り回されると、
喜怒哀楽の感情も出てきて、幸不幸などの想いが生じます。
不幸だという負の感情に対して、前向きで建設的な
アプローチをすれば、感覚の馬を統御できると言います。
感覚が生む感情(喜怒哀楽)に
心(マナス)が流されることは容易ですが、
前向きに希望を持って落ち着いて善処することで、
ブッディ(心の智慧)とチッタ(潜在意識の中にある善の記憶)
の心の領域を開発することにつながるというのです。
こうして、御者[ブッディとチッタ]が確実に手綱を握って
その馬(感覚器官からの刺激で生まれた想念]をコントロール
することができれば 真の自分のコントロール下に馬が置かれる
というわけでしょう。
反対に常に馬の暴走を許していると、
御者にとっては困難といえる状況になりかねません。
ブッディは理知、つまり、理性ある智慧です。
チッタは記憶から必要な善き情報を見出す役割をもつ心です。
どんな状況に置かれていても、
それが、自分のブッディとチッタを強化する良い機会と
捉えられれば、問題は半分以上解決したようなものです。
馬(感覚器官)と手綱(マナス)を統制して、
自分を失わずに 安全に 馬車=身体 を自分の希望地・
目的地へと、運んでいくでしょう。
2014年を走る馬車、心して、ブッディ(智慧~誰でも
持っている)にしっかり 手綱を持っていてもらいたい
と願います。
2014年ご来光(初日の出) 淡路島に入る入り口の橋から (読者投稿)