自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

三昧耶":定(じょう)と、空海の教え

2017年11月12日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

 仏教(密教)とインドバラモン教の影響  2017・11・12

********************************************************

  

仏様の悟られた場所に建てられた寺院内

 

知人に僧侶の方が何人かいる。

従弟には、関西のお寺の長男もいる。

日本の僧侶たちと比べて、タイ仏教のお坊さんは

かなり戒律が徹底している。

たとえば、あちらでは、僧侶は結婚はできず、

女性と同席することもはばかれるなど、また、飲酒は

もちろん肉食は禁じられているというように、私生活の

制限は日本の僧侶より大きいようだ。


タイやスリランカ、あるいは、チベット密教(私が訪れたのは

ブータンの地であったが)のお坊さんは、托鉢して一日に二食、

小遣い金などの余剰な金銭は持たず、交通機関のバスや電車の

中で、女性がいれば、触れ合うほどの距離には近づかない。

万が一、そういう状況になっても周囲が気を使って、社会全体

僧侶の守るべき戒律を協力しているようにも見受けられた。

 

聞くところによると、それは、釈尊以来の戒律だという。 

不浄観・白骨観・数息観といわれる伝統的な瞑想を行うための、

その精神的、身体的下地が掟を守ることで作られているのだろう。

 

 その寺院で早朝の行に向かう僧侶

 

ところで、密教独自の戒を見ると、ヴェーダ哲学から明らかに影響を 

受けたと思われるサーマヤ戒(samaya)がある。 


サーマヤとは、サンスクリット語で‘等しい’という意味を持つのだが、

この戒定の意味は、‘衆生は生来、仏と等しい神聖な存在である’という

自覚を持つための戒である。 

 

サーマヤ というこの言葉を、日本に入った仏教では、漢字の

当て字を使って、"三昧耶"と記している。 


この教えを見る限り、人間の神聖な資質をアートマと呼び、

その本来の資質に目覚めることが、大覚 であるとする

ヴェーダ哲学と共通しているようだ。

 

空海は、‘三昧耶仏戒儀’の中で、次のようにその大覚を得る

ための定めを規定している。

 

1~ 正法を捨てて、邪行を起こしてはいけない定め。“ 

いわく、如来の一切の正義は、皆まさに修行し、受持し、読誦すべし。

・・もし、一法に随って(したがって)も棄拾の心を生じ、及び、

邪行を起こせば第一の波羅夷(はらい)なり

 

2~ 菩提心を捨離してはならない定め。 

“菩提心は菩薩の万行なり。・・・もし、菩提心を喪失すれば、

これを第二の波羅夷(はらい)を犯すと名づく。

 

3~一切の法において出し惜しみをしてはいけない定め 

“もし、与えざれば、三宝物を盗むに同じ、ことさらに犯すは

第三の波羅夷(はらい)なり。

 

4~不饒益(ふにょうやく)の行を衆生に行ってはならない

“菩薩は四摂(よんしょう)を修行して あまねく一切の衆生を摂して、

道に入るの因縁をなすべし。

しかるに今、かえって衆生に道をさまたぐるの因縁を起こして饒益

(にょうやく)を捨てんや。

ことさらに犯すや第四の波羅夷なり。


***************

小乗仏教でいうところの、4つの波羅夷(はらい)とは、

犯すと僧院を追われ、僧の資格を失う最大の罪とされる 

殺生・盗み・邪淫・妄語をさす。


大乗仏教では、これらは懺悔し、罰を受ければ赦されるという。 

むしろ、上記に挙げた、4つの波羅夷(はらい)を犯さないよう、

密教では教える。


平易に言えば、

一つ目は、正しい法を心して学ぶこと、

二つ目は、菩提心を捨ててはならないこと、

三つ目は、法(真理の道を説く教え)は、自己と社会のために出し

惜しみせず、活用すること、

4つ目は、法を学び、広く大衆を救うために、それを実践することで、

間違っても、衆生が道に入ろうとすることを妨げてはならない、

ということ戒律としてしめしている。

 

これらの4つの務めを正しく行うことは、密教を学ぶ菩薩には、

最も大切なミッションでもあるということだろう。


このポイントは、空海大師が、特に両部大経に付け加えられたと

される重要な四重禁戒とされるが、後世なぜか、それが抜けて、

現在に至っているという話である。

 

波羅夷(はらい)とは 漢字の音読み当て字であり、原語

サンスクリット語には“parajika” と発音されている。

 

定めとは‘さだめ’と読むと、戒定 の ‘~してはならない’と

いう掟(おきて)のように使われるが、これを、定 =じょう 

と読むと、意味が異なる。


お釈迦様は菩提樹の木の下で、瞑想されて、悟りを開いたという話は

有名だが、この悟りに直結する深い瞑想行を、定(じょう)と仏教では

呼んでいる。

 

サンスクリット語でいうところの、“samadhi” = サマーディ と

いうのは、深い深い境地に届くほどの精神集中でなされる

座禅状態を指している。

インドでは、ヨギが肉体を瞑想の形状のまま、脱いで、霊体に

移行するとき、‘サマーディに入った’という言い方をしていた。

 

日本に伝わった仏教の中で、特に、このサマーディを中核に

置いているのは禅宗であろう。


他の宗派、例えば、浄土宗では、南無阿弥陀仏、日蓮宗では、

南無妙法蓮華経を唱えること勤行(ごんぎょう)が主体となっている

はずである。

 

真言密教ではどうかといえば、インド哲学の影響を受けた一面として、

やはり、この定(じょう)を基本に次のような行法がある。

 

“密教行法の基本構造は、まず、澄み切った満月の輪を胸中に観じて、

その月の輪の中に種々の梵字の深淵な字義を観じ、その梵字が変じて、

三昧耶形となり、さらに、三昧耶形が変じて仏や菩薩のお姿になるという 

転成方法を使い、仏と入我我入しながら、仏と一体になる”

という満月観である。

 

梵字の深淵な字義 とここにあるのは、阿字観の阿のサンスクリット

文字などを指すのだろう。


最も、インドでは、定(じょう)をいくつか習ったが、この

サンスクリット語による観は、日本独特のように見受けられた。

 

 

コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする