自然治癒力セラピー協会=Spontaneous Healing Therapy Japan

自然治癒力を発揮させるために、心と体の関係を考えます。

地獄は奈落、ナラクは梵語:左手の上に右手?

2013年10月20日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

 

師について一考:なぜ、梵語とサンスクリット語 

平成25年10月20日 

*************************************

 

 

日本語に入ってきているサンスクリット語(梵語)は 

仏教用語の中に見られる。

                          

たとえば、阿闍梨 あじゃり 意味は、密教において、

法の義を教える資格のある教師をさす。

もともとは サンスクリット語の acharya(アチャリヤ)だ。

 

仏教国タイに入ってアーチャンに変化して、タイ語として、

今でも”先生”という意味で 常に、使われている。

          

日本語で”奈落の底”に堕ちるというコトバがある。奈落 とは、

地獄 のさして、サンスクリット語ではナロック という。

以前にもご紹介したが、世話 という言葉ももともとは、

サンスクリット語の セヴァ からきているらしい。

 

セヴァとは、奉仕するという意味でも使われて、もともとは、

心を尽くしてお仕えするという意味であったのだろう。

 

さて、阿闍梨 という言葉をもう少しみてみると、“大日経” 

に阿闍梨の資格について述べられている箇所がある。

阿闍梨 になるべく条件として、13の徳性が掲げられて、

弟子たちは阿闍梨から 法を実践するための器として適当か

どうか、その徳性に順じて判断される。

弟子の境地に応じて 伝法灌頂(かんじょう)や許可(こか

を授けられる。

 

こうして 師資相承の血脈が絶えないよう、法の義のもとに

師から弟子へと、脈々と教えが受け継がれていく。

その要(かなめ)に 阿闍梨の役目があるといわれる。

                         

弘法大師は、そういう、師と弟子との間の関係を“弘仁の御遺誠”

に以下のように、記している。

 

“師資の道は父子よりも相近し。

父子には骨肉相親しといえども、ただこれ一生のにして、

生死の縛なり。

師資の愛は 法の義をもって、相親しみ、世間 出世間に苦

を抜き 楽を与う。何ぞよく比況せん“

 

その意味は、”師と弟子の関係は、家族父と子の間より近い

という。

血のつながりの縁は 父にあっても、一代の間の愛情関係で

あるし、生死によって、束縛されている。

その反面、師と弟子の間には、法(真理)の義でつながれ、

世間的な生活の中の 苦を除いて、心の安堵が与えられる。

この二つの関係をよく、比較してみなさい。”

 

ということになる。     

ここでは 法 という真理の深遠な智慧を授ける

受法する弟子(資)の関係と、その取得により得られる、

 の楽(安寧)を 弘法大師が示している。

 

師に対する、そうした観方は、仏教を生み出したインド

今も残る、グルシシャ(師と弟子)制度の真髄にもつながる。

 

                

 

師 は 必要ないという人がいる。自分の心の中の、

本質(アートマ)が師であるのだから・・ という。

それも一理あると思う。

しかし、”実践と体験” を 通して、人は、悟りに近づく。

 

その道を先んじて進んでいる 先達(せんだち)に、跡に

続く者が、迷わないよう転ばないよう注意してもらうことも 

には必要だろう。

その先達が、教師であり、 師の弟子に対するお役目だと

インドでは考えられている。

 

真理は書物から学べても、それに到達する 秘伝 は 

どこにも書かれていない。

師 の 背中を見て、あるいは、直接 口伝されるかして

弟子はそれを学び取る。

だから、師 は 道を学ぶ者には、必要だと、賢人は説く。

 

さて、阿闍梨の話から少し脱線するが、筆者は 日本の法事で、

数珠を左手にかけるものと教わったので、インドの寺院で

そうしていたところ、右にかけるべきものだと 師から、

摘された。

それは、右手は浄、左手は不浄だからというのが理由だった。

そこで、日本に帰って、右と左の意味合いを再確認してみた。

 

密教、真言宗などで、 経典によれば、左右の意味は 

次のようになる。

右 ~ 慧・観・智・金剛界・仏界・日

左 ~ 定・止・理・胎蔵界・衆生界・月

仏像を見ると、その手の平は 印 を組んでいる。

印 の中で、、法界定印 と呼ばれる結び方がある。

 

左手と右手を重ね合わせる印で、瞑想時に精神統一

する効果があるとされる。

この印の組み方が、日本で、禅宗と密教では異なる。

どちらの 掌(たなごころ)を上に乗せるかの違いである。

ヒンズー教や、密教では、右手を左手の内側に置くが、

禅宗は 左手を右手の上に重ねる。

 

再び、サンスクリット語の話に戻ると、ブッダの言葉を

書き留めた御経は梵語(古代サンスクリット)語で書かれて

いるが、そもそも、何故、サンスクリット語を梵語というの

だろうか?

 

梵天 という神がいる。

梵天はブラフマ神のことだ。

宇宙の創造神であり、言葉はこの神様が造られたとヒンズー教

ではいわれる。

その言葉により、世界は成立し、その言葉の波動によって、

命をもった。

だから、言葉(インド古代)を梵語(梵天のことば)という。

 

それは、旧約聖書の言葉、”言葉は神とともにありき。” 

コトバは神であった”~に匹敵するところかもしれない。

 

その梵天の発する波動、マントラは、真言、真理をさす。

そのマントラを使用するにあたり、黒ではなく、白として

使うこと、つまり、小我を捨て、大自我にいたる手段”として、

活用するように、言われる所以なのだろう。

 

弘法大師は マントラ(真言)について、”声字実相義”に 

以下のように、記している:

 

”五大に皆、響きあり、十界に言語を具す、六塵、ことごとく、

文字なり、法身は、是れ 実相なり”

 

すべての生き物、物質には、声や字を持って響きを発している。

それらは 即.実相を顕わし、我々の法(真理)の身こそ、

実相にほかならないと言っておられる。

 

さらに、”般若心経秘鍵” には、”真言は不思議なり、

観照すれば、無明 を除く、一字に千理を含み、即身に

法如を顕す”と書かれている。

 

つまり、"般若心経の言霊は 不思議である。 

なぜなら、これを良く観じ、理解すれば無明がとれて、

一文字一文字には深い千の理(ことわり)が含まれて、

すぐ、生きている身(唱えることによって)真理の醍醐味

が現れる。"という意味になるだろう。

 

このようにして、古代インドのサンスクリット語

日本に仏教とともに入り、般若心経など,古くから日本人に

親しまれる御経とともに、私たちの日常生活に 自然と

入り込んでいるのは、興味深いところだ。

 

 

 参考:

密教瞑想法~弘法大師降誕1201年~  山崎泰廣 著   

永田文昌堂 S.49

 

 

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スヌーピーの溜息(SIGH!・・・)・共感

2013年10月18日 | 神秘と神の大地”インドの香り”

真の苦行か偶像崇拝か?    平成25年10月18日

*********************************

 

 

私の心の師は、修行や、苦行は意味がないと断言した。

断食や瞑想、滝に打たれたり、などの 所謂 修行” は 

現代ではあまり、役に立たないのだと言う・・・

それよりも、活き活きと 目の前に置かれた義務と責任を 

果たして人のために少しでも お役にたつ仕事を(神様に)

奉仕する心をもって、行うことが ”一番の修行” 

だとも言われた

 

スヌーピー 画像 に対する画像結果

 

その時、大切なことは、仕事の相手 や 奉仕させて

いただく方を 単なる 顧客や クライアント と思わず、

その方に 内在する、”神” に対して、 ’させていただく’ 

という、謙虚さと誠実さを持つことが大切だ” 

と 常に教えておられた。

 

そして、それこそが、現代に適した、神に近づく修行” 

につながるということだった。


言霊 の重要性を説かれ、マントラ(真言) の波動を理解して、

それを 日常生活の中に活用すること。

 

一日のうち、決まった時間に、ジャバ(真言や祝詞、御経

などを唱える事)経文や聖文を読み、心を常に浄化

させること。


そうすることで、”自分と神の資質とは 本来、同一である”

という真理を 魂に 染み満たす努力を日々続ける大事さ

を強調しておられた。

なぜ、苦行 といわれる修行が無意味なのかと問えば、

次のような理由からだった。

 

①“本来、大我[アートマ]を求めるために行われるべき修行は、

修行者がその目的を忘れ、ただの、自己満足になって

いる場合が多い。”


人は、アジュナーナ(無知、無明)の状態にいるとき 

行いがちなのが苦行修行 といわれるものである。”


③”ジュナーニ(神実現を 遂げた人)がそのようなサーダナ(修行) 

を行っている話は聞いたこともなく、見たこともない。”


④”心の満足のために行うのならば、それは mortal mind、

(いずれは 死とともに、消えゆく、人間の小我)の、

自己満足とプライドを高めるために役立つだけだろう。”


 ⑤私、私の私物 という感じがある限り、 アハムカーラは 

あなたから離れない。アハムカーラ が あなたから

去らなければ、無知無明 も 離れないだろう。“               

 スヌーピー 画像 に対する画像結果

 

筆者は 実は、この師の話を 南インドで、聞きながら

忘れられない心の体験をしている。

計らずとも、自分のアハムカーラ(この場合、執着

の強さを知った。

 

それは 講義途中から あることが気になりはじめた。

2~3分もしないうち、集中して講義を聞いていられなく

なってきた。

そのmortal mind[死とともに消える小我の心)は、

サンダル” の上にあった。

 

靴箱にしまってきたかどうか気になり始めた。

もし、集会場の入り口に脱ぎ捨ててきたとしたら、

誰かが間違えて、履いて行く確率は高い。

”この講話時間が終わって外に出たら、きっと、

サンダルは消えている。・・”

 

師の悟りと小我のお話しが耳の横を通り過ぎている間、

私はふっと、気が重くなった。  

炎天下の熱いアスファルトを 裸足で歩く自分を

想像したからだ。


インド人にとっては 日本製の品物は小さい大きいに

かかわらず”憧れ”だ。

当時はボールペン一本でも、喜ばれた。たかが、サンダル

とは言え、日本製は見栄えも良いし、持ちも良い

 

盗もうと思わなくても、出来心で・・・印度では、

そういう体験は 当たり前の日常茶飯事で起こっていた。

自分のサンダルは、誰かに、履いていかれてしまっただろうと 

覚悟した

 

スヌーピー 画像 に対する画像結果              

はるばる長旅をして ようやく会えた師のもとで、無執着の

を聞きながら、サンダルへの執着で、心が上の空なっている

という事をもう一方の私の心”が見つめていた。

 

真理を求める心と、肉体が炎天下を歩く裸足の負担を

案じている二つの心。

両者の あまりの隔たりに、失望すら感じた。

15年近く前のお話しである。私の弱い心、執着心の

主体になる、小我意識の 強さと状況は 今も当時と比べ 

あまり、変わっているとは思えない。

 

私の”、”私が” という考えが 自分の限界線を作る。 

さまざまな事への執着を生む。様々な人との誤解を生む。

 

物質的なことだけではない。自尊心やプライド、名誉

などに傷がつく~というのもこの 小さな自我 の 

 に属している。

 

遅々として修行は進み刻々として 時 は 進む。

スヌーピーの大きなぬいぐるみは車の中に置いてある

友たちだ。

彼の溜息は大きい。

このエピソードを思い出すたびに私も、スヌーピーとともに、

溜息(sigh)・・・をつく

 スヌーピー 画像 に対する画像結果         

  溜息!!

 

最後に、ヒマラヤの大師も アメリカの調査団に以下

のように語っている:(*1)

仏教にしろ、キリスト教にしろ、隠遁、禁欲、遁世

(とんせい)の僧院生活は 悟りに必要でもなければ、

霊的発達を成就する真の方法でもなく、

また、イエスやブッダの説く、智慧と力との完全なる

生活上の実現でもありません。”

スヌーピー 画像 に対する画像結果

 

師はここで問う。

僧院生活や そこで行われる修行、苦行を含めた行事 は 

数千年も存続しているにもかかわらず、イエスの30年ほど

の人生、その間、たった2年の布教で 世界の歴史を

変えるほどの精神的影響力を与えた僧院出身の苦行層が

いただろうか?

 

6年間 瞑想をもって、自己内在の仏性を顕現したブッダ

二人とも 実在の歴史上の人物であり、後世 図らずとも

神格化されて 偶像崇拝の対象にまでなっていってしまう。

 

イエスもブッダも、この世に存在して教えを説いた目的、それは、 

世界中に教会を無数に建てるため、あるいは、仏教寺院

の中で、あがめられ現世御利益を祈願する人たちの前に、

鎮座する銅像になるためのそれではなかったはずだ。

 

ましてや ”苦行して悟るべし”とは、両者は説いておられない。

"小さな自分への執着をとり、大我へいたる道を歩きなさい”

いうことを伝えるだけだったのだ。

自ら、そのお手本となり、誰でも続くことができる道を、

私たちに示してくれたのだ。

 

 スヌーピー 画像 に対する画像結果スヌーピー 画像 に対する画像結果スヌーピー 画像 に対する画像結果

 

*1) ヒマラヤ聖者の生活研究―自由自在への道 第二巻

 S54年6月5日第五版 ベアード・T・スポールディング著 

仲里誠吉訳 霞が関書房

 

 

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不動明王・シヴァ神・タントラ的救い~弘法大師の教え

2013年10月16日 | 健康を実現するための言霊(マントラや真言)

不動明王のルーツと日本に渡った密教       

平成25年10月16日

***************************


 

 お不動さんは日本人にとって馴染み深い神様だ。御不動さんは、

私たちのドロドロした下界のエネルギーを高次元の霊的パワーへと 

火で焼き尽くしながら昇華させる、タントラ密教にゆかりのあ

神様であるというお話しが今日のテーマ・・・

真言宗をはじめ天台宗禅宗日蓮宗日本仏教の諸派で

幅広く信仰されている。

 

不動明王の起源はアチャラ・ナータ [acala naatha]だと、

辞書には出ている(*1)。

多くの日本に伝わってきている仏教関係の神様は起源をインド

のバラモン教に置いている場合が多い。

 

たとえば、弁財天がインドの、財の神ラクシミ女神と学問の神

サラスワティ女神(だから弁財天は琵琶を持っている、インド

サラスワティ女神はビーナ~琵琶の由来となる楽器~を手にしている)

の混合型であるのは広く知られている。

 

ならば、不動明王はどこにルーツを置いているのか、かねてから

私の疑問だった。

 

話しは飛ぶが、伏線となるような体験があった。 

筆者がインドに住んでいたとき、第三の眼が開いている”といわれる

高僧に会ったことがある。

第三の眼 が開いている証拠に、過去・現在・未来がパノラマのように 

目をつぶった脳裏にビジョンとして映るという。 

 

筆者が20代の一時期、人前に出れないほどのアトピー性皮膚炎で 

顔と首に包帯を巻いていた頃の姿も 高僧の心の深窓に映ったと

みえ、こう呟いた。

おお、汚い肌をしておる” でも、”パールヴァティ女神

[シヴァ神の妻]の祝福で肌は綺麗になった。

おお、あなたの父君が娘の健康を祈っておる・・”

 

亡き父のヴィジョンが出てきたようだ。

父は晩年、20年間あまり、お不動さんの信仰に厚かった。

父は生来、まったくの無神論者であったが、40年間 生業

(なりわい)を続けた東京・新宿を去り、現在の相模原の地に 

居住を移した際、購買地にまつわる因縁を気に留めた。

 

その際 土地のお祓いする神主さんのほかに、お不動さんを

信仰する祈祷師も呼ばれ、この方と懇意になり、地鎮祭が

きっかけで人生最後の20年間、お不動さんの 敬虔な信

になったのだ.

   不動明王 に対する画像結果

印度の高僧は、情報を何も与えていない筆者に、

突然こう切り出した。

“父上はネパール人かな? シバ神をこよなく、

深く信仰されている~その恩寵が娘である、汝に

シバ神の伴侶、パールヴァティー女神より与えられた・・・”

 

この父の祈りが届いて、私の健康と、肌の汚さが癒えたのだ

と高僧は語った。

そして、ほかにも、第三の眼で見えるヴィジョンを次々を

語り始めた。父がネパール人だと思われたのは、顔の骨格

少々日本人離れしていたせいだろう。

 

その日の一番の収穫は、その高僧の質問から、父の毎朝、

祈りをあげている不動様が シバ神と同一かもしれない

いう思いを強くできたことだった。 

実際インドにきて、15年来インドの地で暮らし、シバ神は

私にとってとても身近な神であった。

私が師と仰ぐサイババ師は、ご自身で”シバ神のアバター

~生まれ変わり”と称してもいた。 

 

ところで、シヴァ神は、以前、ブログで ”黒魔術の体験” 

でお話ししたように、タントラ密教と 密接な関係を持つ”流派”

深い関わり合いのある神様だ。 

最近、その確信が文献を見ているうち、そうした観点からも、

シバの神と、お不動さんが同一の神である可能性の裏付けが可能

かもしれないと次のような根拠をもとに、考えた。

 

根拠1)

”倶利伽羅(くりから)竜王” という神がいる。

クリカラ竜王は、魔王の剣に巻きつき、智慧の剣と変えるという。

その倶利伽羅(くりから)竜王が 不動明王であるという説がある。

                                  

倶利伽羅 の クリカラ は、語源がサンスクリット語の 

カーリー(黒) に当たる。

”カーリー” は ”黒い” という意味であるから、光が無い”、

つまり、”不明”であり、不動明の不と明 の文字が 

不動明王の由来になっている説だ。

 

根拠2)

もう一つの説がある。

カーリー神こそ、タントラ密教の女神でもある。

タントラ密教とチベット密教との結びつきを考えて、

カーリーは、陰、一方、”陽の本体” は、夫である、

シヴァ神の資質であるから、不動明王の起源がシヴァ神 

であるという説である。

 

根拠 3)

怒り狂ったカーリー女神が 多くの生首を自分の体に

身に着けて、殺人を繰り返している最中・・

それを阻止するために、夫である、シヴァ神自らカーリーの 

怒りの前に姿を現した。

女神は、夫と気がつかず、夫シヴァ神を大地に叩きのめし、

足で踏んづけようとする寸前、顔をよく見れば なんと、自分の

夫ではないか!

そこで ハット、我に還ることができて、それ以上の、殺略

が止められたという。     

 シヴァ神 カーリー に対する画像結果

 奥さんのカーリー女神に踏みつけられているシヴァ神

 

その踏まれているシバの神こそ、アチャラ・ナータ

 [acala naatha]と呼ばれている。

この名前は、密教 において冒頭にご紹介した不動明王

の印度での名前そのものである

 

根拠4)

倶利伽羅竜王をシヴァ神 とするのも一理ある。

竜王は、4足で体を支える。

それぞれの足に名前がつけられているが、その一つが 

クンダリー二 (煩悩を神聖なエネルギーとする蛇形

上昇道)という、人格神の名で呼ばれる。 

つまり、ここにエネルギーが上昇して煩悩を焼きつくし

覚醒のエネルギーへと姿を変え、人を悟りへと導くのだ。

 

不動明王が 火に包まれて赤い炎とともに描かれているのは 

まさに、この焼き尽くされ 燃え上がる炎、昇華するエネルギー

とともにあるからと考えられるとすれば、倶利伽羅神の役目

ここにあるわけで同神 とする説も成り立つ。

 

真言密教では、タントラ派の教え ”煩悩即菩提” の言葉

通りに、煩悩の肯定をもって、“煩悩 断じて、智慧の火焔と

化す”と理解される。 

ヨガを勉強している人には、馴染みの深い 話しと思う。 

 

つまり、エネルギー(プラナ)は第一チャクラから 

第七チャクラまで 言い換えれば脊柱の最下部から 三周り半 

巻いた蛇のような形で最上層のチャクラ、頭部天へと向かう。

 

ヨガや呼吸法、瞑想の目的は、この クンダリーニを開き、

潜在エネルギーを上昇させていくことでもある。

それを目指して、意識の霊的な覚醒化をはかる。

  

(根拠4)で述べたように、日本に 密教が伝わって、

このクンダリ―ニが人格神化する。

文字通り、クンダリーニ神という。

漢字では、軍茶利明王 という。

この明王は象徴的に蛇を身につけている。 

日本へ入る前、密教はチベットで盛んになるが、その後、

弘法大師が真言密教として、日本に伝えたとき、明王と

身にまとわりつく蛇の御姿はそのまま、伝えられたようだ。

 

その様子は、まるで、神聖なるコブラを身につけ宇宙ダンス

をするシヴァ神そのものでもある。

日本本島には コブラは気候的に棲息はしていないが、

それに代わるものとして、蛇が、一般的な神聖な生き物~

とみなされたようだ。

                                            

弘法大師は”蛇の見解” として、 深い意味付けをしている。

著書”5大明王義” には、次のように書かれている。

 

“この明王は 小自我意識 を転じて偏見なく、平等に

見ることができる智慧を得るための断惑の姿であり…略・・

生きた4種の蛇を身に12まとい、その意味するところは

以下である。

 

唯識論の第九には、凡夫の位には、小我意識は 4種の煩悩

と常にともに在り と言われる。                        

それは、我痴、我愛、我執、我見 である。

故に、この蛇を生きながら身にまとうのは、大乗の真意は 

煩悩と菩提の体は無二平等’観ずるからである“

 

つまり、煩悩 即 菩提 である真言密教の教えの象徴として 

蛇(煩悩)を持って、菩提に導く、としているからだという。

この弘法大師の言葉をもって、密教が インドのタントラ哲学と相

通じる教えを共有していることが良く理解される。

 

蛇、つまり、クンダリーニ の エネルギーの道を覚醒

せしめるのは、煩悩であるというのだ。

煩悩(心中・恋愛沙汰・闘い・不条理)を演じた日本の歌舞伎

初め、煩悩のしがらみで酒を飲まずにはいられない人たちの

心を、ひとまとめに、御不動様は受け取り、そのまま、浄化

せしめて高いクンダリーニ神のエネルギーとして昇華させる。

そんなところからも、御不動様の信仰を多く

の人たちから集めている 魂レベルの理由があるような

気がする。





          

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家族同士になった意義(後編)

2013年10月12日 | 健康のための心の波動



 親を分析して、統合された自分を探す  平成25年10月12日

************************

 10月10日のブログの続きとなります。                                   

”何故、自分はこの場所で この家族を選んで

うまれてきたのだろうか?

一体、自分は、今生で何をしようと、決めて

生まれたのだろうか?”


こうした疑問を素直に自分にかけてみる。

人は、課題がまだ、残っているからその課題を果たすために、

試験問題として適当な体験を与えてくれる環境と、男女の

カップルを、両親として、自ら選んで生まれてきた。

 

その答えを出すために、”自分の両親を分析してみる

ことが、一つの方法だとレッドフィールド氏は言う。                              

ジェームズ・レッドフィールド氏は続けてこう書いている:


”両親が、お互いに異なった考え方を妥協させようとして

生ずる争いを私たちは眼にしてきた。

子供だった私たちは、この若い二人を自分流に理解していた。


そして、この個性的な二人の間で生長し、社会に出ていく

間に二人の生き方を統合して、自分のものとしてきたのだ。“ 

                               

そして、両親のそれぞれ正反対な気質を見つけたとき、

その二人の人間の間で生活することの課題として、

こう述べている。

 

“わたし達の課題は、両親の考え方を統合して、

より優れたもの、より、真実に近い生き方を

示すものを創りだすことである。


私自身の場合は、父は 世界をポジティヴで

楽しいもの、素晴らしい冒険に充ちた物と、

常に想いたがっていた。

彼は霊性に欠けた俗物で 楽しみを追い求めては、

失敗したり 期待はずれに終わることが多かった。

 

生長するにつれ、私は、この繰り返しに気がついて、

冒険にもっと、戦略的な方法をとる必要を

感じるようになった。                            

 

一方、私の母は、世界は霊的な場所であると

知っていたが、それは宗教的で自己否定的な霊性だった。


彼女は自分の冒険や楽しみをすべて、犠牲にして他人を

助け、世界中の苦しみを解決しようとした“

と自分の両親を分析したうえで


“こうした二人の間に私が生まれたのは、

どんな意味があったのか?

 …略   

父と母の違う生き方を見続けながら、今、

一歩さがって、この状態を見てみると、

私にははっきりと解決法が見える。

母のように、深い霊性をもって、世界をより良い

ものとしようとして 人生を送ることもできるし、

また、父のように楽しさと冒険を追及する

人生でもよいのだ。

 

人の使命は、その人が最も深い霊感を感じた

ところにあるのだ。

そして、私は、自分の人生の基本的課題は、真の霊性を

理解することであるのに気がついたのだった。”

と 続けさらに                      

 

”こうして、両親の人生と二人の考え方の

最も優れた部分を統合することによって、

私は彼らの人生の目的をある意味で完成し、

今も二人の進化を助けているという感覚を

得ることができた。”と結論に至る。


両親を選んだ理由、二人の資質長所を伸ばし

自分自身その長所を統合させることで

こう生きたいと直感的に感じていた自分を

創造していく。


両親の役目はそうした統合された自分自身

に気づくための、一つの生きたサンプルライフであり

同時に、反面教師でもあった・


具体的な両親の資質・・・・

母が憧れていたもの、父がやり遂げたこと、

二人が、志半ばで終わったこと、父の理想、母の理想、

などなど・・


自分が 二人の間に生まれてきて、両親の長所を

合体させ 両親の生涯を統括させた 自分色とパターンの

作品が完成する。

客観的に二人の人間の生き様を観察して

見直すことによって、きっと、心の中に

残っていた、コントロールドラマも溶解していくだろう。

私たちの遺伝子には、父から男性的要素、

母からは女性的要素、両者の資質が

ミックスされている。

 

はたして、 

男性性と女性性のバランスがとれているかどうか?

統合されているかどうか?


男性性と女性性がプラスとマイナスの電気の

ように、陰と陽として心身を健常に保っているか?             


実はこれが 

内なる自分の本質エネルギーに繋がる、大事な条件

だとカールユングをはじめ 著名な心理学者たち

は述べている。

その両性の統合性が 自分自身の中で、

取れているかどうか判断する指標が挙げられている。

それは、

”一人で住んでいても、穏やかに暮らせるか”


具体的には 次のような要点を含む:

・ 一人で生活していても、やる気を失わないか?

・ 自分で たまには、手料理を楽しめるか?

・ 食事中、鍋に箸をそのまま突っ込むのではなく

優雅に楽しんで 料理を食卓に並べたり、盛り付け

を楽しんだりする余裕や時間があるか?

 

・ 時には 一人で食事に出かけるのに抵抗はないか?

その時でも、まるで恋人と一緒の時と同じように、

食事の時間を楽しめるか?


・経済的に自立しているか?


・将来の夢があるか?、

その設計を 具体的に立てて準備や交渉など、

一人でこなすことができるか?


・ 余暇活動を、楽しんでいるか?

 

こうした類(たぐい)の日常生活を一人でこなし、

充実感を味わっていると答えられたら

その人の”男性性と女性性”は”統括”され

バランスがとれ”、”内なる安定に向かっている”と

レッドフィールド氏はいう。


セラピストである、バービル・ヘンドリックスが

あなたの望む愛を得るには” という著書と

”愛を持続させるためには” の著書の中で次のように、

指摘している。

 

”自分のエネルギーをどこかほかの所に求めている限り

私たちは権力闘争そのものの男女関係に陥ってしまうだろう”

 

権力闘争に巻き込まれる人間関係は 自分と繋がらない限り、

何度でも自分に訪れるかもしれない。


私たちにその必要がなくなるまで 似たようなドラマ

起こり続けるだろう。

                                  

コントロールドラマを克服する時、それは 

自分が”内なる自分”を信頼し、”内なる自分”が 

さらに宇宙的規模の意思とつながっていることを認識して、

本来の自分は、”愛と安らぎ”を享受している存在で

あると気が付くときかもしれない。

 


参考)

ジェームズ・レッドフィールド ”聖なるヴィジョン” 角川書店 1998



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家族同士になった意義(前篇)

2013年10月10日 | 健康のための心の波動


TVドラマ半沢直樹の魅力 平成25年10月10日

******************************************

ブログで今話題にさせていただいている

コントロールドラマ”、とか、”仮面劇”という話は

特種な家庭の中で起こることと思う方もいるかも

しれない。 

 

人間は、一人では生きられないこと。

家庭や学校で、社会に出てから、

必ず、”人との関係”の中で、

つまり、人間関係の中で生きる以上、

仮面劇は存在している。

 

周囲との、意思疎通を図るとき、多かれ少なかれ、

これまで見てきた、”ドラマパターン”の一つに、

二人の関係は照合しているといえるだろう。

 

調和を保ち、お互い尊重し、意見を十分聞いて

生かしあう関係になれば話は別である。

しかし、初めからそういう理想的な関係が構築

できないのが 人の常だ。

 

適当に 仮面を、つけたり、はずしたりしながら

コントロールドラマは 私たちの日常生活で

繰り広げられていると言っても過言ではないと思う。  

半沢直樹 のドラマが非常な話題を呼んだ。

視聴率が最高40%超えたという話も聞いた。

番組のヴィデオを撮っているという、

近しい友人にその人気の秘訣を聞いてみた処

 

”社会の縮図が、銀行組織に良く出ていて、

私たちが普通、言いたくても言えない、

振る舞いたくてもままならない、本音の部分で 

主人公が 果敢に行動しているから、

惹かれるのだと思う。”

とコメントしてくれた。

                         

まさに、その組織社会の行動規範が

コントロールのバランスにかかっているようだ。

 

そのバランスを取りながら、自己の正義と信念を

貫こうとする主人公の姿勢が共感を呼ぶのだろう。

普通なら、”長いものに巻かれろ”であきらめムードの

漂う大きな組織の中で働く一人が

不可能を可能にしていく挑戦が、胸をスカッとさせる

に違いない。

 

一言付け加えるのなら、”倍返し”は、頂けない・・・

倍返し精神は ガッツを呼び起こし反発力で相手に

挑むには必要な時もあるだろうけれど、

こうした力はリバンドして、必ず、また、自分に戻る。

それが 仏教でいうところの業の深さを作ってしまう。

ともあれ、フィクションドラマだ。

                       

そのテレビのシーンに、主人公の幼いころの

父親との思い出が映し出され、それは、

子ども時代に、彼を現在の行動に駆り立てる

何かが 動機として心深くに根強く影響を与えて

いるということを 示唆していた。

ジェームズ・レッドフィールドは、その著書の中で

子ども時代の影響を次のように分析している。

  

”幼児期に 親との仮面劇における体験は

子供の潜在意識に深く残り、次のような、コ

ミュニケーションパターンに影響を与えている

と述べる。


たとえば、 

犠牲者型の親のもとで育てられた場合、

こんな言葉を、子供時代、 母親から、聞かされた

ことがあるだろう。

 

” 御前がいなければ、お母さんは働いていたでしょうに。”

” 働いて、生きがいのある生活を送れたはずだ・・”

” お母さんは 能力があって、とても優秀だったのよ、

家庭にはいるまでは 発揮する場所があって、

生きがいがあった・・・”

 

出産してから、貴方を育てるために、大事なものを捨てざる

得なかった・・・・という含みのある母親の憂いとイライラと

悲しさがまじりあったような表情。


子どもの同情を無意識に引き出す。

同情のみならず、”生まれてこなければよかった”という

責任すら 感じさせてしまうかもしれない。

 

母親は、育児疲れや、独身時代の気ままさや、

社会生活の張りのあった日常を懐かしんで、

こんな言葉を腹いせに言ってみたくなるのだろう。


母親は、家庭と育児に追われ、精神的・肉体的欲求不満から

エネルギーが涸渇したように感じ、その穴埋めに

こうした言葉で、子供の気(エネルギー)を自分に引き寄せる。

 

小児科現場のある医師から 次のような話を、聞いたことがある。

それは朝起きると、理由なしに、必ず子供の横顔を

たたく癖がある母親のことを。


原因はない。

怒る材料を自らみつけて 朝起きてまず、腹いせのよう

に子供を叱る。


ジェームズ氏の見解からみれば、双方のケースともに、

 相手の関心や想念エネルギーを自分に取り込んで、

元気になる” ということになる。

 

いわゆる、”八つ当たりをする” の一種だろう。

まわりの人に怒りをぶつけることで、自分の持て余す

マイナスのエネルギーが抜けて行く。 

相手に対して ”投げられた怒り” について

何等かの 反応を待っている。

相手が何らかの反応してくれれば、当事者は、自己に

エネルギーを取り入れることができる。

 

言い換えれば、尋問型仮面や脅迫型仮面をつけて、

相手に 自分の不愉快さを共有させる ことで、

ちょっぴり 元気になれるのだ。

 ******

 

次に、もし親が傍観者的なドラマを子供に対して

演じる場合は、子どもと、真正面から向き合わずに、

よそよそしく、どこかとっつきがたい印象を与えるだろう。

 

もし、親が尋問者型の性格をもっていたら、

始終 子供は小言を言われ続けていただろう。

何かと欠点を挙げられて、叱られる。


さらに、親が脅迫者の場合、小言ですまず、手があがり、

体罰すら与えられていたかもしれない。

 

幼い子どもは、親の顔色を見ている。

コントロール劇では、自分の守護者であり、

唯一の ”頼みの綱” である、母親の機嫌を損ねないよう

けなげに対応を考える。

 

小さな子どもは、”母親のかぶる仮面に合わせ、

行動して、エネルギーを親に与え続けることだろう。

しかし、物心がつくころには、親の 小言や意見が

疎ましくなってくる


反抗期と重なるのかもしれないし、その前にそうした時期が

来るかもしれない。

 

子供が少し成長すると、自己防衛本能に目覚め

自分のエネルギーが 母親や周囲の人たちに取られて、

涸渇しないように 逃げ場を作る。

自分の世界、自分の”殻” に入っていく。

 

たとえば、

犠牲者と傍観者の親に対しては、子供は生長するにつれて、

尋問者的になっていくという。

親の性格や行動を冷静に受け止め、それを批判する

ようになる。

それが、彼にとって、唯一の 押し付けられた同情や、

無関心の寂しさから 離れられる手段に感じる。

 

親が尋問者型で 常に 子供を批判をしているような場合、

子どもも、同じく 尋問型になり、親に反論を試みる。

あるいは、まったく無視するという傍観者(殻に閉じこもる)

になる可能性もある。

 

最後の、親が不幸にも、脅迫者型の場合、

家庭内暴力に発展する可能性がある。

家庭には、恐怖が常に子供の周囲を覆い、子供は少なからず

犠牲者のドラマを演じて、自分の不安な心を昇華し、

相手に気づかさせようとするだろう。


こうして、子どもは親から同情をもらおうとするが、

それもかなわないとき 脅迫者(親)や周囲に対し、

子ども自身が、脅迫者に変貌するかもしれない。

 

特に、危機感が差し迫ったときは、子供自ら

加害者的な意識をもつため、そうした傾向が強くなるという。

 

親にそれをぶつけるまでに成熟していないときは、

周りの ”か弱い存在”、兄弟や友達を脅かす存在に

なる場合が多い。

家庭内暴力の根はこうして作られ、学校などでも、

いわゆる ”いじめ” の加害者的立場になる。

 

このような形で、子供たちは自分を守るうちに

成人後にも影響の影は拭い去ることができず、

増々色濃いものになっていくかもしれない。

 

だからこそ、 一度、本当の自分を

探そうと、レッドフィールド氏は提案する。

そのために、まず、自身の両親分析をすることを薦める。

 

そうすることで、               

以下の気づきが与えられると

レッドフィールド氏は言う。

“両親の人生を深くみていくと、

たいていは、自分が非常に

違った二人の間に生まれたことに気がつく。

彼らは世界観も興味も価値観も、まったく別なのだ。

その二人の間に育ったということは、

何を意味しているのだろうか?”

 

具体的に 自分自身の親の生き様や性格を

分析して レッドフィールド氏は自ら、生まれてきた意義と

役割を悟ったという。

 

続く・・・・

 

 

 

参考:

ジェイムス・ヒルマン ”魂のコード”河出書房新社、1968

ジェームズ・レッドフィールド ”聖なるヴィジョン” 角川書店 1998

 

 

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